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「失われた30年」とは?平成生まれが感じる違和感


「失われた10年」が「20年」となり、いよいよ「30年」となっている。

いつまで続くのだろう?

「失われた100年」という言葉も、いつか出てくるのだろうか?


私は正直に話すと、この言葉に多少の違和感を感じている


それは、「なにを基準に’’失われた’’」と言ってるのか?

そもそも「基準」という絶対的スタンダードがあるのか?

そして語り手となる「主語」はいったい誰なのか?


歴史には、大きな大きな波がある

自分たちが生きる中で撒いてきた「因子」が

一歩先の未来に「結果」となって現れる

それが積もり積もって、複雑に重なり合い、繋がりに繋がって、

大きな時代の波を作るのだと思う


そのような因果関係の下、築かれた長い歴史を振り返ると、

相対的に「良い」「あまり良くない」とされる時代があるのは

やむを得ないのだ、と思う


しかし、だからと言って、私たちは生きる時代を選べない

私たちは、生を授かったその時、その時代を、懸命に生き、

その痕跡を残すのである


私たちは、個々として、「今」を生きている


さらに言うと

少なくとも、私たち若手世代にとっては

「何も失われていない」

のである


何をもって「幸せ」とするかは

その時々の個々人が「どう感じよう」としているか

個人の意識であり、感じ方、捉え方の問題なのではないだろうか


だとすれば、他の時代と比較をして、それをジャッジをするのではなく

その時代に生きる、ひとりの人間として

身の回りの物事に対する有難さと幸せを感じながら

自分の夢や希望を作り出す信念を持ち続け

今の時代だからこそ今、自分にできることを

懸命に試行してみたい、と願う


社会が「失ってしまった」と代弁しているのは

生まれながらにして持つ、幸せを感じる繊細な自分の心と

そして自分自身の機微との対話による、自分という人間そのものへの探求精神

かもしれない、と思うのである


若手の一意見として、もし手を挙げられるとすれば

提言してみたい


「失われた30年」とは、

「大人」と呼ばれる人々が、責任の所在がわからないことを良いことに、

「時代が作った」「日本社会が作った」と言って築き上げてしまった

既成の価値観に囚われた「幻想」であり「虚構」に過ぎない。

(但し、責任はあなたたちにある、と言いたいのではない。誰のせいでもない。

むしろ責任を突き付けること自体に価値がない。)


私たちは「失われた時代」を生きているわけではなく、

「存在する今」を

胸をはって、生きているのです

と。

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