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恥をかいた数だけ、人は成長する。

ああ、恥をかきまくっている。実際に誰かに笑われたとか、そんなんじゃない。もう一人の自分に常に笑われているような気分だ。

恥をかくことはいいことだと思う。それだけチャレンジしたという証明で、どんどん恥はかいたらいいと思う。

しかし、本当に恥ずかしいなと思うことをしでかすと、本当に恥ずかしい。穴があったら入りたくなる。

元々、学校に行ってなかったのもあって、漢字が書けない。文字を書こうとすると手が震えて心臓がバクバクする。

昔、バイト先で数字の0を下から円を書くように書いたら、年配の女性に0は上から書くんだよと指摘されたことがある。

16歳かそこらだった。まるで失笑されたような気分になった。実際、相手の気持ちはわからない。

そういう細かい恥をかいてきた人生だ。新しいことをやろうとすると緊張で心臓が爆発しそうになる。

手書きじゃ無理だったから、今こうしてパソコンのキーボードで文章を書けるようになったことがとても嬉しくて、だから連日のように更新しているのかもしれない。

それでも未だに怖い。「自分が何をやっているのかわからない」という感覚がこびり付いている。変な文章を書いていないか怖くてたまらない。自分が思っていることとは真逆のことを書いてしまっているのではないかと恐れる。

あくまで自分のために書くことを楽しんでいるが、自分がどんなに誠実に書いたつもりでも読み手にとっては不快なことが書かれているかもしれない。

そんなことを恐れても仕方がないということはよくわかっているつもりだけど、それでももし誤解をされていたなら、会って話して誤解を解きたいと思うくらいの熱量は持っている。

ネット上のテキストでは伝えたいことを伝えるにしても限界がある。自分の表現力も、文章力も到底足りない。会って話せばわかる。そういう思いはとても強い。

自分のことをついつい卑下してしまう癖がある。なぜだろうか。理由はよくわからない。生まれつきと考えるには不自然だから、育ってきた環境で植え付けられてきたと考えるほうが自然だと思う。

コミュ障だ。そう卑下してすぐ、そんなことはないと思う。過去を思えば、相当、改善されたと思う。誰かと比較してどれくらい出来るかというより、今までの自分と比べてどれくらい出来るようになったかを見てあげたい。

たぶん、理想を高く設定しすぎるきらいがあるのだと思う。もっともっとできる、と信じる分には向上心ともとらえられるが、それも一歩間違えば、ちゃんとできない自分を責め続ける要因にもなる。

人の苦しみは理想と現実のギャップによって生まれる。

考えてもみれば、毎日のようにnoteを更新することが当たり前のようにできるようになっているのに、実際、自分に投げかけている言葉といえば、「もっとうまく書けるはずだ」という叱責ばかりだ。

もっともっとできる。この思いに苦しんでいる。理想が高すぎる。自分なりに何かに挑戦してみても、挑戦したことに花丸をつけてあげる前に、もっとうまくできたはずなんだと自分を追い詰め続ける。

できなかったことではなく、できたことに目を向けたい。私は、現実の自分を掴み切れていないのだと思う。

人前で発言を抑えてしまうのも、人に「この人は頭脳明晰だ」と思われたいからで、結果、その思いが強くなるあまり、発言することさえできなかったというオチが待っている。

勇気を持って話しても、人の名前を間違えて呼んでしまったり、上手に物事を伝えることができなかったりすると恥ずかしさから赤面する。そして、その後、そのことを思い出してまた悶える。

理想では英語をネイティブのように操るように、ペラペラと堂々と論理的に会話している自分がいる。現実の自分は顔面が真っ赤っ赤だ。

10代の頃から、「落ち着いていて大人っぽいね」、「向上心があるね」と褒められてきた。違うのだ。恥をかきたくないから、黙っている。今の自分が嫌いだから、もっともっとできると信じ込んでいる。

本当はもっとおしゃべりで、おちゃらけていて、おふざけが好きな男だ。子供の頃から学びの場がなかった。先生のような理想像がなかった。だから、自画像を描くように、理想像を自分なりに描き続けてきた。

その理像通りに正しく振る舞おうとするばかり、現実の自分を受け入れられず、いつも非現実な夢を見ている。

ありのままの自分を認めないといけない。シャイなのは、本当の自分を見せるのが恥ずかしいからだ。等身大の自分は受け入れてもらえない。そう思っている。

自分は自分の人生のオリジナリティの価値を認めるべきだ。自分の代わりはいない。自分だけが、この人生を送っているということ。それ自体が価値になる。

人と比較して上手にできないことを問題にするのではなく、過去の自分を顧みて、今の自分ができるようになったことにOKを出してあげよう。

今日見た夢の話をされて面白いと思う人は少ない。理想を語るのは、自分の見た夢の話をするのに似ている。要は、あまり面白くないのだ。

理想の自分は一旦脇に置いておいて、現実の自分を受け入れることから始めたいと思う。恥をかくというのは、自分の現実を知るということだ。

人がかいた恥を私は全く覚えていない。いつ恥をかいているのかもわからない。そういえば恥ずかしそうにしていたな、くらいで大抵のことはすぐに忘れてしまう。

人には半端ない能力がある。忘れるという能力だ。忘れるから、忘れてくれるから、またやり直せる。忘れる。それは許しと似ている。

恥をかいた数だけ人は成長する。恥をかいたから後悔するのではない。恥をかいたからこそやってよかったのだ。恥をかいて万々歳なのだ。

どんどん、恥をかこう。恥を恥と思わなくなるくらい。恥をかいたときに心が疼くのは理想によって押さえ付けていた現実の自分自身だ。これからもどんどん出会おう。本当の自分に。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。