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自分を癒やすために奏でる〜アマチュアが楽器を習うことの意味


人前で楽器を演奏するということ

 今はどうだか知らないが多くの中高生の男の子がギター(フォークギターかエレキギターが多い)を習いたいと思う動機は女の子にモテたいからだという話があった。ただし、ギターをやめた理由で多いのも、弾いても大してモテなかったからだという話もある。
 
 私がクラシックギターを習い始めたのは50歳をとうに過ぎて老後の趣味を今から育てて行こうと、妙に長期的なことを考えたためである。いざ習い始めると、一曲を弾けるようになるには、それなりに練習が必要で苦労する。さらに教室の発表会に出て、人前で演奏する機会もある。 

 これがなかなか大変で、若い子だってギターが弾けてもモテるわけではないのなら、年寄はなおさらのことであり、我ながらどうして緊張しながら人前で演奏するのか、と疑問に思うこともある。あまつさえ、教室の発表会に備えて更に、小さなライブハウスのオープンマイクでリハーサルまでしてしまう自分に苦笑する。

 もちろん教室の生徒のみんながみんな発表会に参加するわけではない。人前で演奏する機会を求めない人もいる。ただ、練習を実らせるためには期限を設けて人前で演奏することは有効だと言われている。プロである先生のように弾けるわけはないが、人様に聴いていただけるレベルまで仕上げることが目標になるからである。 

鴨長明

 そんなわけで教室でクラシックギターを習うようになってから、年に3回の教室の発表会を意識することになった。また、それに備えて、人前で演奏する機会をつくることもあるが、自分より上手な人たちを目の当たりにして凹むこともある。

 本来、趣味で始めたクラシックギターに妙なプレッシャーを感じるようになっては本末転倒なのだが、それもギターやその音楽が好きで上達したいからという気持ちあってこそのこと。こうしてプレッシャーを感じるくせに、人前で演奏することが目的になるという自己撞着に陥ったわけである。
 
 さて、そうこうしている内に仕事をリタイアしたが、方丈記を読み耽った時期があった。著者の鴨長明は歌人であるとともに琵琶の名手でもあった。長明が、どこまで隠遁を徹底したのか疑問も残るけれども、方丈での独居の慰めに携えたのはわずかの書物に琵琶と小型の琴だけだったと記している。

 すると、楽器を奏でることは一義的に自分自身を慰める、もしくは己の心を癒やすということでよいのかも知れないと思ったのである。素人が趣味として楽器を学び、精進するのは人に聴かせること以前に、まず自分自身のためではないのか、原点に帰ろうと思ったのだった。

ブロガーの皆さんから学んだこと

 楽器を習う意義に迷った時に、鴨長明がヒントになったわけである。更にネットを渉猟すると幾人かのブログの筆者も同様に、楽器を奏でることは自分自身を慰めたり、自分の心癒やすことが基本であるという考えを述べておられたので、以下にリンクを張りながら要点をご紹介する。

・「お琴は己を慰め、自分自身を磨く技https://halmek.co.jp/harutomo/4236
 琴を習っていたのは、江戸時代においても圧倒的に女性だったが、身分のある女性が琴を人前で披露することはあり得なかった。しかし、ただの教養、お稽古ごとではなくて自分の心に聞かせて己を慰め、励まして自分自身を磨く技として教えられていたという(八橋流箏曲)。神奈川県に住む筆者自身も東日本大震災後の計画停電下で不安な中、琴を弾くことで張り詰めていた心が安らいだという。

・「私がピアノを弾く意味」…残念ながら原文は現在参照できない
 筆者は小学生の頃から親がピアノを習わせてくれたが当時は人より目立つことができると思っていたそうだ。やがて、高校生になると勉強で忙しくなりピアノを弾かなくなった。そして、両親が離婚して二人の弟とともに母親と暮らすことになったが、環境が変わって精神的に追い詰められた。そんな時、ふとピアノを弾くと生き返ったような気がした。今は、自分のために想いを込めて弾いたピアノが、結果として誰かの心に届き、誰かを救うこともあるのではないか、と考えるようになったという。

演奏することそのものの楽しさ〜1人で気が向いた時に気軽に演奏して楽しむ文化 https://www.recorder.jp/enjoyrecorder.htm
 リコーダーJPという団体の提言。音楽って、頑張って練習して、人前で上手に演奏できるようにならないと、駄目なものなのか?立派な会場の舞台に立って大勢から拍手がもらえないと、楽しくないものなのか?リコーダーJPは、「そうじゃない。そんなに上手でなくてもいいし、気が進まないなら無理に人前でやらなくてもいい」と考えている。そして、「たとえ誰も聞いていないところでたった1人で、自分の技量に合わせた普通よりゆっくりなテンポで演奏するのでも、音楽演奏は、それだけで楽しい」と考えている、と明言している。

 上記の琴の話とピアノの話は、いずれも一定の苦境にあった時に自ら楽器を奏でることが救いになったという話で、御本人にとって音楽や楽器演奏の意義を体感する貴重な経験をされたものである。自分については、どうだろうか?暗くなっていた心に劇的に光が射したような経験は思い出せない。しかし、一昨年に仕事を辞めるまでの間に楽器演奏の勉強と練習をすることが、仕事で疲労する心の拠り所のようになっていたと言うことはできると思う。

 リコーダーJPは前述の提言を裏付けるために、更につぎのようなことを指摘しておられる。

  • 江戸時代から明治大正に至るまで、三味線を気の向くままに手にとって地歌や長唄を楽しむ娘や女将がいたけれど、大勢の人の前で披露するものではなかったし、琴の演奏会のようなものもなかった。

  • バッハの平均律クラヴィーア曲集は「これらの曲---のすべてとはいわなくとも圧倒的多数---は、ひとにきかれるためではなく、⾃分できき、そのなかに⾃ずから楽しみがあり、その楽しみの中で、時のたつのも忘れさせられる---という具合にひかれるためにあった」という音楽評論家の吉田秀和の説を紹介している。

  • エリザベス1世が、国王だということもあったろうが、人に聴かせるためではなく自分の楽しみのために、リュートやヴァージナル(チェンバロの⼀種)を上⼿に演奏し、弾きながら歌も歌ったエピソードも紹介している。

稲垣えみ子「老後とピアノ」

 最後に稲垣えみ子氏による「老後とピアノ」という本をご紹介したい。これは新聞記者(編集委員)から文筆家になった著者が50歳を過ぎてから子どもの頃に投げ出したピアノの稽古に再挑戦した経験を綴ったものである。
 
 著者はさまざまな壁にぶつかりながら、それを何とか乗り越え、その都度気づきを得ていく。著者はどうして壁にぶつかりながらも前に進もうとするのか?アマチュアが楽器(音楽)を学ぶ意義は何なのか?

 その一つの核心にあたりそうな答えが「自分の中の思いもかけない美しいものと向き合うことができる」という気づきであった。これは特にクラシック音楽だからこそかも知れないが、前述のブロガーの皆さんの趣旨と通底するものがある。楽器を趣味としている方々にお勧めしたい本である。


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