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とある道標から

立川市歴史民俗資料館

 立川市の歴史民俗資料館を初めて訪れたのが1月21日のこと。不便なところにあるのだけれど、井上重雄さんという方から屋敷地の一部を寄贈されて1985年に建造されたものだそうである。

 市のサイトによると立川市文化財保護審議会会長であった井上氏から「ぜひ立川市に歴史民俗資料館を建ててほしい」という希望があってのことだった。井上家は400年以上に渡ってこの地に住んできたそうだが、資料館建設の際に行った発掘調査で、平安時代の集落跡、台の下遺跡が発見され、貴重な歴史を持つ場所であることが確認されている由。

道標と甲州街道

 訪れた時は、古民具等の企画展が行われていたのだが資料館の敷地の中にもいくつかの史跡が展示されていた。その一つに「甲州道中道標」というものがあった。立て看板には市の教育委員会による説明文が次のように記されている。

この道標は甲州街道と拝島五日市への道の分岐点に立っていました。今の柴崎市民体育館の北側付近です。道標に年月日が刻まれていませんが、江戸時代に立てられたものと思われます

(立川市教育委員会)

 元々あった場所から移されたものらしいが、道標に刻まれている表示(文言)についても説明が記されている。道標の写真に写っている面には、縦書きで

   はいしま

 右      みち

   五日市     

陰になっている面には、縦書きで

 左 甲州道中

と記されていることがわかる。

 今の柴崎市民体育館の北側付近にあったとすると、その分岐点から拝島・五日市方面には右手の西北西の方向の道を進み、甲州道中は左手から南に下って多摩川を渡り、今の日野市・八王子市を進むことになる。

 こうした街道の分岐点のことを「追分」(おいわけ)と呼ぶのだが、江差追分などの民謡は大きな街道の宿駅まで馬を引いた馬子が歌ったものだそうである。田植え歌と同じように労働歌の一種だが、哀愁がこもった歌が多いのは黄昏の宿場に馬を引きながら向かう情景を思い浮かべると合点が行く。

 さて、道標(ドウヒョウもしくはミチシルベ)というものは、狩猟採集時代から道に迷わないように自然発生的にも作られるものであるが、このように恒久的な石造りで街道の分岐点に設けられているものは、公共的な性格を帯びている。いつ、誰が設けたものか興味が湧くが時期については教育委員会の説明にもあったように江戸時代のことだろう。

 江戸幕府が江戸日本橋を起点として5つの主要な街道を整備したのを五街道と呼ぶが、東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道のことである。これらの街道は諸藩を貫いて走るが、幕府の道中奉行という職制が管轄した。

 甲州街道は五街道の内、最後に完成したもので、江戸日本橋または江戸城半蔵門から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場が置かれたという。江戸から甲府までが表街道、その先の諏訪までが裏街道とも呼ばれた。

 また、正徳6年(1716年)4月の街道呼称整備で「甲州道中」と呼ぶことに改められたというから、この道標が設けられたのは18世紀以降ということなのかも知れない。こうして見ると、甲州街道の歴史は近世以降ということになりそうだが、それ以前にも「古甲州道」というものがあったそうである。

 なにかというと律令国家の時代以来の、武蔵の国府つまり今の東京都府中市と、甲斐の国府つまり今の山梨県甲府市を結んだ官道を後世、古甲州道と呼んだものである。江戸幕府による甲州街道の整備も、古甲州道がもとになっているようだ。

 中央集権の体制を構築した律令国家の時代、中央集権ではないが強力な幕府が流通網や貨幣など経済インフラを整備した江戸時代に、官道ないし公道が整えられたことは当然のことではある。

 また、甲州街道は物資の流通や参勤交代に役立てられただけでなく、江戸城を棄てなければならないような叛乱が起きた場合に将軍と幕臣たちが甲府に一旦避難することが予定されていたという。中世にはあまり重んじられなかった古甲州道が江戸時代に重要視され五街道として再び整備されるようになった所以である。

拝島

 中世においては、今の立川市あたりからは拝島や五日市へ向かう道の方が甲州方面よりも重要だったことだろう。現在、JRでは立川から青梅、奥多摩に至る青梅線に拝島駅があり、さらに拝島から五日市線が出ている。平成の世に秋川市と合併して、あきる野市になる前は五日市町があった。「五日市憲法草案」でも有名なところである。

 拝島とは昭島市にある地名だが、佐藤孝太郎著の「多摩歴史散歩3」によると奥多摩の方から大日如来像が豪雨のため多摩川に流されて昭島あたりの川洲の島に流れ着いたのを、ありがたい仏様として拝んだところから来たのだという。その仏像は、拝島大日堂(拝島山浄土観音院)におわすそうだ。[元のお寺なりお堂なりは、どうしたのだろうか?]

 その大日堂の近くには拝島大師があり、厄除け大師と達磨市で有名で、むしろ参詣客は大日堂よりも多い。お大師様ということで、てっきり弘法大師空海ゆかりの真言宗の寺院かと思うとさにあらず。実は天台宗の高僧・元三大師(がんざんだいし)良源が御本尊で、信長が比叡山を焼き討ちした時に僧侶が大師の像を守って拝島まで落ち延びたのだという。

 現在は拝島大師くらいしか観光名所が見当たらない昭島市拝島町であるが、江戸時代には青梅や八王子に次ぐ規模の市が立っていたという。江戸幕府が八王子に配置した千人同心も日光勤番に赴く際に通る日光脇往還の最初の宿場が拝島なのであった。その名残を拝島駅の北側にある「日光橋」の名前から窺うことができるが、人の行き来が盛んだったろう。

五日市

 さて、市といえば五日市であるが、その東側に近接する伊奈と併せて戦国時代あたりから市が立っていたようである。JRの五日市線でいうと武蔵増戸駅の周囲が伊奈、その次の終点の五日市駅が五日市ということになる。

 山が多いところからだろうが、市では炭がさかんに取引されていたと、あきる野市のサイトに記されている。戦国時代が終わって江戸では爆発的に人口が増えたわけだが、建築資材として五日市から木材が供給された。筏に載せて秋川から多摩川を使って運搬したという。

 この川の恩恵なのだろうが、旧五日市町と旧秋川市を母体とする現あきる野市は古くから人が住み着いていて、縄文時代から古墳時代の考古学的に重要な遺跡があり、阿伎留神社は平安時代の「日本三代実録」と「延喜式」にも記載されている古い神社とのこと。

 鎌倉時代には武蔵七党の西党に属する諸氏の御家人たちが活躍したそうだが、室町時代には国人領主たちが勢力を伸ばし、やがて戦国時代には八王子に城を築いた小田原北条氏が一帯を統治したものかと想像する。

 江戸時代は、多摩地域の大方が天領だったはずだが、あきる野市域の集落の多くは秋川・平井川の段丘面に点在し、現在もその多くが字名として残る32か村となって明治を迎えたそうである。まことに秋川によって開けてきた町なのだと思われる。

ふたたび道標について

 先述の江戸時代に造られたと見られる、拝島・青梅に向かう道と甲州道中を示す道標であるが、公共的な性格を看てとれるところから、街道奉行など公儀の政策として設置されたものと考えたくなるが、話はそう簡単ではないようである。

 主要な街道に一里塚や並木を設けて通行者の利便をはかることは幕府の政策として行われ、諸藩もそれにならって領内の脇街道を整備したたことが明らかになっているが、道標については、そのような研究成果は見当たらないらしい。

 すると、道標は私的に製作され設置されたものなのだろうか。道祖神については昔から民俗学が研究してきたが、道標については研究対象になっていないようである。しかし、岡山大学の馬場俊介教授が土木学会誌で発表した「近世以前の道路遺産」の研究がある。

 素人が理解できる範囲でつまみ食いさせていただくと、巡礼路・参詣道に置かれた町石の半分が江戸時代より前からあるのに対して、主に街道にある道標のほとんどすべてが江戸時代に建てられたものだそうだ。

 その背景として18世紀頃から、観光・商用・信仰などあらゆる面での旅行が藩の枠組みを超えて広域化して行ったことがあげられる。19世紀前半には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や歌川広重の「東海道五十三次」が創作されたほどに旅行が流行していた。

 ほかに江戸時代には各地で庚申講が作られ、講を三年18回続けた記念として庚申塔がつくられることも特に関東地方では多かったという。そして、庚申塔が道標の役割を兼ねて建てられたケースが少なくない。

 こうしたことを考えると、江戸時代の初めに主要な街道が幕府主導で整備され一里塚なども設けられたが、その後、民間の人の往来が増加したことから、はっきりしたことはわからないが、民間の手で自主的に道標が建てられたものと推定できそうに思われる。

 というのも江戸時代の初めに設けられた一里塚もその後は放置され18世紀後半には原型を留めぬものも多くあったので、公儀がわざわざ旅行者の便宜のために道標を設置したとは考えにくいことも、もう一つの理由である。

 そして、馬場教授の研究によると道標は大きなものでは3メートルを超えるものまであり、庚申塔も含めて道中目立つように、それなりの大きさがある。立川市の歴史民俗資料館に展示されている道標のように小型のものを建てるのは、さほど大儀なことではなかったろう。

(2022年4月)

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