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「ながら」について考える

月に一記事書きたいなと思ってyoutubeでカネコアヤノのライブを流し"ながら"キーボードをたたいています。(カネコアヤノは最高)
今日はこの「ながら」について考えたいと思います。皆さんぜひ通勤し"ながら"、ベンチに横たわり"ながら"、読んでください。あんまり論理展開とかは気にしていない、メモの羅列っぽい構成ですのであしからず。

マルチタスクな毎日

通勤時、僕はホームにつくととりあえずイヤホンをし、その時の気分で音楽やポッドキャストを再生します。電車が来て、座席に座り、ドアが閉まると、僕は自然と社内の広告に目を留めます。
広告「本を読め!」「家を買え!」「脱毛しろ!」「ローンを借りろ!」

そうこうしているうちに次の駅についたり、次の次の駅についたり、何度かslackやLINEがなって都度返信したり。あれやこれやしている間に、電車に乗る前に意思をもって再生した音楽を実は全然聴いていなかったことに気が付きます。あれ、最寄りのホームでは明確に今日はこんな気分だから、宇多田ヒカルじゃなくてカネコアヤノにしたのにな。

こんなこといつでもありますよね。

僕は学生の頃、テスト勉強する時に必ずウォークマンで音楽を聴く派でした。今考えると、音楽を聴きながら勉強することがどれだけ非効率化なことか啞然とするのですが、「あえて音楽を流して、それが頭の中から消えるくらい集中できているかが、勉強するうえでのバロメーターなのだ」という意味不明な主張をしていたのを覚えています。当時の僕は音楽を聴き"ながら"勉強をしていたわけで、音楽にも、勉強にも、”集中”していたわけではなかったのですね。

それから、昔僕は車で通勤していたのですが、車通勤をする人は良くわかると思うのですが、毎日同じ道を同じ時間帯に走っていると、あれこの道いつの間にこんなに進んだっけっていうことありますよね(ありますよね?)もうその道に慣れっこになってしまって、車を動かすという目の前の現実に集中せず、考え事したり、ラジオ聞いたりしてしまって気が付いたら走ったはずの数十メートルの記憶がないわけです(わかる!という人がいない場合は、僕の運転能力に致命的な欠陥があるので、免許返納します)

もう僕らはどうしようもないほどマルチタスクに慣れています。同じ時間で一つだけしかタスクが終わらないのは二流です。二個も三個も同時進行で消費できないことには、現代社会において人権はありません。(僕らは今日もspotifyを再生しながら雑誌を読みながらお菓子を食べながらおしゃべりをする・・・)

たまに展覧会に行きます。(東京は美術館が多くてサイコー)いろんな美術館で、どんな絵を見ても感じることがあります。それは「普段、あまり見えていないな」ということです。
例えば印象派の絵を見れば、太陽光に揺れる葉っぱのきらめきを、画家がようく観察して、絶妙な配色で表現しているのがわかります。同様に、写実的な自画像だったら、自分の肌の陰影や、髪の毛の一本一本の繊細な向きの表現に驚きます。毎朝、鏡を見る時、自分の顔をどこまでしっかり見ているでしょうか。外に散歩に出る時、季節によって変わる葉っぱの色の違いをどこまでしっかり見ているでしょうか。いつしか人類は携帯の万歩計を増やすために、アプリの健康ポイントを貯めるために、散歩するようになってしまったのです。(これは資本主義による我々の自由への挑戦でありマス!)

先日、外でランチをし、近くにあった公園のベンチに座っていました。ちょうど今書いている「ながら」のことを考えていたので、スマホを見たりせず、ただぼんやりと、初夏の陽気の中、葉っぱの、その明るい黄緑色をじっと見ていました。すると色々発見するのです。(思ったよりも風に揺れているな、鳥が飛んできたな、光の当たり方で次々に色が変わっていくな)
そんな僕に、横に座っている妻が「何を見ている?」と聞きました。僕が、「葉っぱを見ている」と言うと、妻は、ふうんと、ようわからんけどまあいいわ、という様子でした。
現代社会において、マルチタスクをこなしていない人には人権がありません(再掲)。僕はただ、公園のベンチに座って葉っぱを見ているだけ(今この瞬間にひとつのことに集中しているだけ)だったのに、妻の目(世間一般の目線)から見たら、その姿はもはや異常中年男性にしか見えないのです。イヤホンもせず、スマホも見ずにただ公園のベンチに座っているおじさんは通報されたっておかしくないんですよね。あの人、なにしてはるんやろ。こわいなあ。

「だからみんな、もっと今この瞬間に集中しようよ!!」なんて声を大にしてみても、今日も僕は、zoom会議に出ながらslackの通知に気を取られ、通勤しながらポッドキャストを聞き、夕飯の洗い物をしながらニュースウォッチ9を見ています。だってそれが便利なんだもん。そうしないと、時間がかかってしょうがなくて、タスクが終わらないんですもん。

先程広告の例を出しましたが、広告は基本「ながら」によって成り立っている仕組みだと思います。誰も広告それ自体を見たいとは思っていません。移動やスタジアムでのスポーツ観戦や新聞の記事が目的の中、自然とそれらをしながら目に入ってくるようになっています。ここで僕が言いたいのはその是非ということではなくて、広告という仕組みが、人が「~しながら」生活するようになったからこそ成立しているのだという新鮮な驚きについてです。

人類が看板広告を初めて出したのは5000年前のバビロニアらしいですが(google調べ)僕はその瞬間に立ち会ってみたかった。自分の店の看板を店先に出すのはわかります。ここが八百屋だ、魚屋だと示すという目的がありますね。そうではなくて、例えば何も店が無い道路。田んぼなのか、草むらなのかをかき分けていくような道の横に「○○商店」という看板を初めて出そうと思った人。ここの何に興奮するって、その人は、「あ、ここに看板を出せば誰かが歩き"ながら"見るな」と思ったということです。その瞬間、人類は今を生きる刹那的な種族から、資本主義を使いこなす種族にアップデートされました(大げさです)歩くのに精いっぱいだ、一瞬たりとも気を抜けない、という状況であったら、そこに広告を出そうという発想にはならなかったのではないかと思うのです。

ということで、広告を出せないような時代のことを考えてみましょう。別に縄文時代でなくてもいいのですが、人類がその日暮らしだったころです。多分その頃って「今」の連続だったと思うんですね。獲物をとって、食べて、寝て。今この瞬間を生き続けないと、次の瞬間には生きられないかもしれない。だから何かをやりながら過ごすことがなかった。常に、今、この瞬間の連続だったわけです。
現代に生きる我々は、明日の生が保証されています。通りを歩いていたら急にヒグマに出くわすなんてことは山間部を除いて基本的にはありません。もちろん不慮の交通事故とか、通り魔に合うという可能性はありますが、それらに出くわす確率は、日常が明日も延々と続いていくと疑いも無く信じれるほど小さいものです。
だからこそ、ある意味適当に○○しながら生きていてもいいわけです。イヤホンでオールナイトニッポンを爆音で聞いていても、誰からも後ろから殴られません。テレビ見ながらご飯食べていても誰かに自分のパンを盗み食いされる恐れはありません。基本的に。
今この瞬間に集中せずとも、のらりくらり生きて行かれるようになった、という社会構造の進化が、”~しながら”生きていけるこの時代に繋がっていると思います。

生存という観点以外にも、昔はもっと今を生きていたんじゃないかなと思うこともあります。

日本の伝統的な食事のマナーは、静かに、厳粛に食べることを基本にしている。ヨーロッパのように楽しく食べるのではない。それは食事とはミをいただくことで、いわば生き物の生命をいただくから、その生命が自分の生命になると考えられていて、その意味では食事とは他の生命を摂取することなのである。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか/内山 節

生命をいただく、と今でも言うことがありますが、これはつまり、食事することに"集中"するということでしょう。文字通り命を繋ぐために食べざるを得ない、ついこの間まで生きていた生命。自分の手で栽培し、収穫した米や、何日も山で張り込んでやっと仕留めた猪を食べる時、人は自然とその生命をいただくにあたり、食事をするその瞬間に「集中」していたのだと思います。当時の人々が現代の我々がテレビやスマホを見ながら食べている光景を見たら怒り出してしまうかもしれませんね。

やからやっぱりスポーツなのですよ!

いろいろダラダラ書きましたが、そんな中、やはりスポーツなのですよ、ということを言わねばなりません。スマホを見ながらスポーツをやるなんてことありませんよね。そして見る側に回っても、観戦中は、基本的に目の前のプレーに集中しています。

選手がフリーキックを蹴る、ルーズボールの行方を追う、試合終了の笛を待つ。カオスで筋書きのないスポーツ観戦には、固唾をのむ、と言いますが、その刹那、誰もが集中して、ボールの行方を追いながら(そのボールだけに集中しながら)、今そこにある生を生きています。

「普段の生活では味わえない感情に出会えた」「他のことを忘れて応援に熱中できた」多くの方々がこのような感想を口にしてくれます。日常生活や、ビジネスの現場には無い価値がスポーツの現場にはある。きっとそれは身体性だったり、再現性の無さや、筋書きのなさによるものだと思います。次に何が起こるかわからない。そのライブ感が人を今この瞬間に惹きつけます。

本当は人生そのものが、次に何がおこるかわからないライブ感に満ちたものなのですが、日々に忙しすぎて、中々そこが見えてこない。スポーツを見ることで、人生のライブ感を、再発見できるんだなあということを日々試合会場で思うのです。

何の話でしたっけ

僕は最近瞑想にハマっていますが、これもまた「ながら」ではない、今に集中する行為なのです。概念ではなく、感覚をひたすら観察し、自分の呼吸や足や手や頭の感覚にひたすら気づいていくこと。仏教はまさに過去にとらわれず未来に悩まされない、”ながら”を許さない、今この瞬間を生きる教えなのだ、というのはまた別のお話です。

過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。

仏陀

というわけで、なんだかまとまりのない記事になってしまいましたが、以上でございます。最後に、今この瞬間に生きていないと書けない歌詞を引用して終わります。

強い日差しと熱を持つ自販機で
冷たいレモンと炭酸のやつ
買った

恋しい日々/カネコアヤノ

こんなあまりにも当たり前すぎる日常の一瞬を、切り取って歌詞にすることができるのは、本当に素敵ですね。
以上、カネコアヤノはいいぞという話でした。皆さんぜひ聞いてみてください。

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