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邪馬台国の謎 (22)

 今回は邪馬台国吉備説を取り上げていきます。

中国地方のもう一つの仮説が、

邪馬台国吉備説

です。

和歌森太郎氏が唱えた仮説ですが、
古墳が次代の変遷とともに進化してきたと考えると、畿内でいきなり完成系の前方後円墳になるのではなく、その前衛的古墳があるはずだ、と考えたのですね。
そういう見方で見ると、吉備地方から播磨・摂津を経由して大和の地に入ってきている。
和歌森氏は、そう考えて吉備説を提唱したのです。
吉備の特殊器台から畿内の円筒埴輪へ、そういう変化がみられると、和歌森氏は訴えています。

https://bit.ly/3xng44P
出典:国立歴史民俗博物館展示。撮影可能下でSaigen Jiro氏が撮影。
作成日時 2014.12.07 作者 Saigen Jiro

吉備地方特有の壺形状の埴輪が次第に大型化し、円筒埴輪になっていく。
それが、吉備地方から畿内へと伝わっていく。
箸墓古墳の円筒埴輪のルーツは、吉備地方にアリということになるわけですね。

そして、卑弥呼の墳丘墓が、楯築遺跡の墳丘墓とされています。

https://bit.ly/3x2FDZL
楯築墳丘墓 遠景
Saigen Jiroが撮影
2013/04/28

考古学的に見ると、弥生時代後期(2世紀後半から3世紀前半)と卑弥呼の死亡時期よりは若干早めの年代ではあります。
ただ、生前から、あらかじめ墳丘墓を造営し始めていたと考えれば辻褄はあいます。

また、別の見方もあって、楯築遺跡は卑弥呼が祭事を執り行っていたものだという説もあります。
その場合、卑弥呼の墓は鯉喰神社とされることが多いです。
倉敷市の矢部にあります。

吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと、温羅はついに矢尽き、刀折れて、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。

倉敷観光WEBより

温羅うら伝説と呼ばれていて、崇神天皇が派遣した四道将軍の一人、彦五十狭芹彦命ひこいさせりひこのみことが勝利後、吉備津彦の名を得たというものです。

この伝説が、大和と邪馬台国の戦いを表わしているとするのであれば、狗奴国の王とは大和の王であり、四道将軍の派遣実績から、崇神天皇ということになります。
これは、とても興味深いお話だと思っております。

狗奴国は、邪馬台国に攻め込めるだけの力のある国でした。
そして、攻め込めるということは、邪馬台国と狗奴国は、それなりに近い地域にないといけません。
当時の大和王権は、狗奴国と呼ぶにふさわしい強国でした。
魏志倭人伝の南を東と読み替える邪馬台国畿内説を流用すると、邪馬台国が(北)=西で、狗奴国が(南)=東という格好になるのであれば、考古学的見地からも、邪馬台国吉備説の可能性は高まります。
気になるのは、邪馬台国(吉備)が敗戦国であるのなら、なぜ、吉備地方の埴輪が大和で継承されたのか? という点です。
文化は戦勝国により押し付けられるだろうという考えでいた私にとって、この謎は気になる点ではあります。

ただ、個人的には、『邪馬台国吉備説』。
大いに説得力があるなと思っています。

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。