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薩摩偉人伝 ~ 東郷平八郎

1848年1月、東郷平八郎は、西郷隆盛や大久保利通が生まれ育った薩摩藩城下の加治屋町に、薩摩藩士の四男として生まれました。

幼少の頃は、辛抱強い子として西郷隆盛の弟・吉次郎から可愛がられていたそうです(西郷隆盛とは、20歳年下になる)。

東郷平八郎誕生地《鹿児島市加治屋町》
(Photo by ISSA)

1856年、島津斉彬公が水軍を創設したとき、父から「将来は水軍に進め」と諭されました。(以下、文字削減のため「である」調・敬称略で記載)

薩英戦争に従軍
1862年、 島津藩の行列を横切った英国人が殺傷された生麦事件を機に、翌1863年に薩英戦争が勃発。平八郎ら父子4人は薩摩藩士として出陣した。

錦江湾で、英軍艦7隻の艦砲(計101門)と、薩摩藩10か所のカノン砲(計82門)が撃ち合いになった。

薩英戦争戦闘図とカノン砲

砲声が轟く中、平八郎は無我夢中で砲弾を運び続けたが、英国が誇るアームストロング砲の射程はカノン砲の倍以上で、薩摩藩の城下は甚大な被害を被った。

この薩英戦争が初陣となった平八郎は、「海から来る敵は海にて防ぐべし」という思いを心に刻む。

祇園之洲砲台跡《鹿児島市清水町》
(Photo by ISSA)

戊辰戦争にも従軍
1868年(明治元年)の戊辰戦争(注1) では新政府側に従軍。薩摩藩の三等士官として「春日丸」に乗り組み、箱館戦では五稜郭に艦砲射撃を行った。

(注1) 旧幕府軍と新政府軍の勢力争いで、榎本武揚が旧幕府軍の艦隊を率いて蝦夷に立て籠り、蝦夷共和国の樹立を宣言

戊辰戦争と薩摩藩の「春日丸」

箱館港への攻撃が始まったとき、味方の「朝陽丸」が弾薬庫に被弾して、東郷の目の前でバラバラになって吹き飛んで撃沈した。

東郷らはすぐに生存者の救助に当たったが、現場は筆舌に尽くしがたい悲惨な状況だったという(この間、榎本軍は武士の情けで砲撃を止めた)。

こうして、東郷の人生は海軍人(注2) になることが宿命づけられていったのである。

(注2) 明治新政府は、1869年に海軍操練所を開設、手探り状態で海軍将兵の養成に着手。1870年に軍を陸海軍に分離、1872年に東京築地に海軍省を創設し、大日本帝国海軍が誕生した

当初は、鉄道技師に成りたかった
ところが、戦争の悲惨さを思い知った東郷は、自分は軍人には向いていないと考え、一時は鉄道技師を志す。

東郷は、新政府で大蔵卿を務めていた同郷の先輩である大久保利通を訪ねて英国(注3) への官費留学を相談したところ、鉄道技師枠での留学はないと断られ、その後、西郷からも同じ答えが返ってきた。

(注3) 薩英戦争で英国の国力を思い知った薩摩藩/新政府は、英国に活路を見出そうとしていた(海洋国家・英国に付いたことが、その後の日本を好転に導いた)

更に、西郷から「日本がこれから世界に伍して行くには海軍が不可欠で、海軍には『平八どん』の力が必要なのだ」と諭され、海軍に入るなら英留させても良いと言われた。

東郷は思い悩んだ末、確かに尊敬する西郷の話には理があると考え、海軍を志すことを決めたのである。

海軍士官として英留
1871年3月、東郷は海軍士官として横浜を出発し英国に向かった。当初、現地校で英語・数学・理科などの基礎知識を学ぶ。

そして2年後、入学を許されたのは、ポーツマスにあるウースターという小さな商船学校だった。

若かりし頃の東郷平八郎
(左写真:後列右側が平八郎)

そもそも、当時は白人史上主義の時代。

ダートマスの海軍兵学校に有色人種が入る余地もなく、「アジアの小国から来た小柄な東洋人は、田舎の商船学校にでも入れておけ」という扱いだった。

実際、ウースターには同名の練習船があるだけで、校舎も宿舎もなく、学生はこの船で授業を受け、寝泊まりした。

「海軍士官」というステータスも軽んじられ、「ジョンニー・チャイナマン」などとからかわれることもあったという。

しかし、2年間の厳しい訓練を乗り越え卒業する頃には、周囲の評価は「学術優秀、品行方正」という非常に高いものに変わっていた。

世界一周の遠洋航海へ
卒業後、東郷は帆船 「ハンプシャー」に乗り組んで世界一周の遠洋航海の途についた。7ヶ月に及ぶこの航海で、東郷はすっかり海の男になっていた。

マストに登れば、風の強さと方向を即座に判断し、天候や海の変化を肌で感じることができた。操船についても、誰よりも群を抜いていた。

この英留を通じて、世界の現実を目の当たりにした東郷は、決して外国人からナメられることのない、威風堂々たる所作を身に着けた海軍士官を育て、一日も早く欧米列強に比肩する海軍を創り上げる必要性を心の底から痛感していた。

新鋭艦に触れる
遠洋航海から戻ると、今度は、日本に引き渡し予定の「扶桑」など(注4) の3艦を視察し、いずれ自分たち日本海軍の主力になる新鋭艦について理解を深めた。

英国から日本に引き渡された軍艦
(Created by ISSA)

(注4) 「比叡」と「金剛」は、後に1890年に串本沖で遭難したオスマン帝国の「エルトゥールル号」生存者をイスタンブールまで送還している(比叡艦長は薩摩出身の田中綱常・少将。少尉候補生だった秋山真之も乗艦していた)

孤独に耐えた英留生活
当時は海軍兵学校もなかった時代。多くのことを学びがあった英留であったが、7年に及んだ海外生活で東郷は大いなる辛抱を強いられた。

特に、個人主義が浸透した欧州での暮らしは、家族主義的な薩摩で生まれ育った東郷には大変孤独に感じられ、おしゃべりだった東郷は、帰国後は一転して寡黙になったという。

西郷の死
この間、日本は再び動乱(西南戦争)に陥っていた。同郷の大先輩である西郷と大久保が対峙し、内戦状態になっている。「一体、どうしてこんなことになったのか」と訳を知りたかった。

田原坂西南戦争資料館《熊本市北区植木町》
(Photo by ISSA)

1877年、英国で受け取った「扶桑」を日本に向けて回航する途上、西郷が自害したことを知り、自分を海軍に導いてくれた西郷の死に、東郷はいたたまれない気持ち(注5) で一杯になった。

(注5) 後年、東郷は「もし、日本に居たら、躊躇なく西郷軍に身を投じただろう」と話している(実際、東郷の兄は、西南戦争に従軍し城山攻防戦で自決している)

新鋭艦の乗員を養成する
帰国後は、「扶桑」乗り組みとなり、早速、将兵らの養成に取り組んだ。しかし、当時は未だ海事用語が定まっておらず、各地の方言や英語も飛び交う始末で、用語を統一するのにひと苦労だった(それだけ、国が一つに纏まるということは容易なことではなかった)。

余談だが、軍医・高木兼寛が兵食の改善に取り組み、この頃からカレーライスが海軍食として定着し始めた(これも、日本海軍が英海軍を手本にした結果である)

旧呉鎮守府の参謀長に
1890年から、やがて東洋一の軍港と謳われることになるにおいて、鎮守府の第2参謀長を務めた。

呉鎮守府と東郷の離れ座敷《広島県呉市》
(Photo by ISSA)

ハワイにおける居留民保護
1893年、在ハワイの米国人がハワイ王朝を転覆させるクーデターを起こす。日本政府は、約25,000人もの居留民を保護するため、東郷が率いる「浪速」「金剛」の2隻を派遣した。

この頃、ハワイに居留民が多かった背景には、1884年の「日本ハワイ移民協約」(注6) があった。

日本ハワイ移民資料館《山口県周防大島町》
(Photo by ISSA)

(注6) 1881年、米国に脅威を感じていたハワイのカラカウア大王が来日。明治天皇にハワイの窮状を訴え、日本・ハワイの合邦や、日本主導のアジア連邦の実現を要請。この協約はその一環であり、1885年からの10年間で29,084人がハワイに渡った

「浪速」と「金剛」は、米艦「ボストン」の両隣に投錨。抗議の意を表すために、港で大砲を轟かせてみせた。

また、東郷は一切の米国人との面会、及び艦内に保護した日本人の引き渡し要求を拒み続け、クーデター勢力に抵抗の意志を示し続けた。

軍艦「浪速」

何の後ろ盾もない海外の日本人。彼らが窮地に立たされたとき、祖国・日本から日の丸を掲げた軍艦が迎えに来て、こうした毅然とした態度を示してくれたなら、どれほど心強いことだろう

高陞(こうしょう)号事件
1894年、朝鮮半島の主導権を巡って日清戦争が勃発する。

朝鮮半島西部の豊島沖で日清両海軍が交戦中、清国兵を満載した英国の輸送船「高陞号」が近づいてきた。

「浪速」艦長・東郷は、先ず輸送船を停船させて、軍務に従事(清国兵と大砲を輸送)していることを確認し、本艦に続けと指示したが、清国兵に脅された英国人船長らは従おうとしなかった。

東郷は船長に、英国人は海に飛び込み船から離れるよう指示。その後、輸送船上の清国兵が銃を向け始めたことをみて、東郷はこう言った。

「撃沈する」

浪速の砲撃を受けた輸送船は沈没。その直前に海に飛び込んだ英国人船長ら4人は救助された。

朝鮮豊島沖海戦之図

日本の軍艦が英国の輸送船を撃沈したとの一報は、英国の世論を激高させたが、東郷のとった措置が国際法に則った正当な手続きであることが分かると、英国の世論は沈静化した。

どの国にも属さない公海上では、軍艦そのものが国家なのであり、国際法に基づき艦長が厳正かつ的確に対処しなければならない。それが、この世界で行われている海の掟なのである。

高まる対露戦への警戒
戦後は海軍大学校長となり、マハンの「海上権力史論」などを熟読し、学生らと盛んに議論を交わした。

その後、1899年に佐世保鎮守府司令長官、1901年には対露戦を想定してウラジオストクに対峙する形で新設された舞鶴鎮守府初代司令長官を歴任した。

余談だが、この頃、東郷は英国で食べたビーフシチューを艦上食として作らせようとしたが、ワインやバターの入手が難しかったので、代わりに醤油と砂糖で作ったのが「肉じゃが」の始まりという話がある。

1903年10月、海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、常備艦隊司令長官に任命される。明治天皇に東郷を選んだ理由を聞かれた山本は、「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。

日露戦争
1904年2月、満州の主導権を巡って日露戦争が勃発。

東郷は、日英同盟(注7) が締結された1902年に英国から引き渡された「三笠」に座乗し、ロシア太平洋艦隊の基地がある旅順港の攻撃や閉塞作戦など、海軍の作戦全般を指揮する。

三笠公園《神奈川県横須賀市》
(Photo by ISSA)

(注7) 新鋭艦とともに、測距儀やロシア情報が英国からもたらされた。白人至上主義のこの時代、英国が日本を信頼に足る同胞と認めた背景には、東郷の存在も大きかった

そして、1905年5月、欧州から極東へと回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ。

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
これは、いよいよバルチック艦隊との決戦に向かう時に、秋山真之(注8) が起案した大本営宛の電報で、「本日は天気が良く、連合艦隊の出撃は可能だが、波が高いので作戦は主力艦のみで行う」という内容を、わずか20文字で司令部に伝えた。

(注8) 秋山は東郷の膝元で作戦参謀に抜擢され、東郷から「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と称賛された

マストにZ旗が翻る
艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」Z旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。

「Z」の一文字だけで、これが国の命運を賭けた背水の陣であることを各員に知らしめたのである。

記念艦「三笠」《神奈川県横須賀市》
(Photo by ISSA)

丁字戦法とは
決戦に際し、連合艦隊は予め練り上げた丁字戦法(注9) を実行に移した。会敵後、反航ですれ違うように見せかけて、途中から敵の針路を遮るように敵前で大回頭(いわゆる「東郷ターン」)を行った。
 
(注9)
下図のように、丁字戦法では多数の僚艦が前後の主砲をすべて使える一方、敵艦は前部の主砲しか使えなくなる(反面、敵に腹を見せることによって被弾し易くなるリスクもある)

丁字戦法のイメージ
(Created by ISSA)

当時、主砲の射程は僅か12キロメートル、艦の速力は時速30キロ程度で、会敵しても取り逃がす可能性は十分にあった。

そのため、東郷は敵を十分に引き付けてから転針するように命じ、その結果、ほとんど取り逃がすことなく、前方の敵艦から漸減することに成功した。
 
そして、日本海海戦は、史上まれにみる日本側の圧勝で終わり、東郷の名とともにロシア海軍の壊滅的な敗北が世界中に伝えられた。

鹿屋航空基地史料館《鹿児島県鹿屋市》
(Photo by ISSA)

アジアを開放した男
下図は、1904年4月3日付の仏紙に掲載された日露戦争の風刺画である。「白人と黄色人」と題されたイラストに描かれているのは、リングの上で巨大な白人レスラーと対峙するチビの東洋人だ。

Le Petit Parisien

風刺画が示すように、当時は、近代国家として歩き始めたばかりの小国日本が、国力も軍事力もはるかに上回る大国ロシアに勝つとは、誰も思っていなかった。

日本の勝利は、列強の植民地支配に苦しんでいたアジアの人々に「諦めなければ植民地支配から独立できる」という希望を芽生えさせ、それまで白人が支配していた世界地図を塗り替える起爆剤となった。

記念艦「三笠」《神奈川県横須賀市》
(Photo by ISSA)

多くの親日国が生まれた
ロシアの圧力に苦しんでいたトルコでは、自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。
 
アドミラル・トーゴーは「東洋のネルソン」と讃えられ、多くの子どもに「トーゴー」という名がつけられた。

トルコ国民は、1890年のエルトゥールル号の海難救助で日本人の心意気に感動し、1905年の日露戦争で勇気づけられたのである。

一方、バルト三国では、東洋の新興国ヤポーニア(日本)に「坂の上の雲」をみたリトアニアの青年が、日本の真価をリトアニア国民に知らしめた。

後年、フィンランドでは東郷がラベルになったフィンランド産のビールが1971年から1992年まで販売された。

いわゆる「親日国」と呼ばれる国々は、歴史的にこうしたロシアの脅威に晒されてきた国々と比例している。

連合艦隊解散の辞
そして、連合艦隊は解散となる。次の一文は、その時、東郷が訓示した内容である。

武人の一生は連綿不断の戦争にして
時の平戦に由り
其の責務に軽重あるの理無し
事有れば武力を発揮し
事無ければ之を修養し
終始一貫其の本分を尽さんのみ

「連合艦隊解散の辞」より

つまり、「平時・有事に関わらず、終始一貫、自らの本分を尽くすことが武人の本懐である」ことを説いており、国の守りに就く者の本質的な心構えを説くと同時に、軍人が政治に関わる事を強く戒めた。

英雄視から神格化へ
1926年11月の米タイム誌で、日本人として初めて表紙を飾るカバーパーソンに選ばれた。

国中が戦勝に酔いしれる中、マスメディアの発達と相まって英雄としての東郷像は、次第に神格化していった。

東郷神社
死後、現在の渋谷区や福岡県福津市に「東郷神社」が建立され、神として祀られた。(注10)

東郷神社《福岡県福津市》
(Photo by ISSA)

(注10) 東郷自身は生前、自身を祀る神社の設立が計画されていると聞いたとき、「やめて欲しい」と強く懇願している

東郷神社《福岡県福津市》
(Photo by ISSA)

米海軍での東郷崇拝
大戦後、GHQによって軍事的なものは撤去されたが、米海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。

しかし、「三笠」の金属類や機関は全て盗まれ、薪や建材にするために甲板のチーク材が剥がされるなど荒廃した。

進駐軍によって「三笠」がダンスホールにされていると聞いたニミッツ元帥(注11) は激怒し、海兵隊を「三笠」の警備に当たらせ、米海軍及び元帥個人の援助で「三笠」の復興と保存に尽力した。

記念艦「三笠」《神奈川県横須賀市》
(Photo by ISSA)

(注11) 大戦中、対日作戦を指揮し、現代の米空母にも命名されているニミッツ元帥は、士官候補生時代の1905年に東京に寄港した際、日本海海戦の戦勝祝賀会で東郷と会話し、感銘を受けたという

ハルゼー提督やスプルーアンス大将も、東郷への尊敬の念が強かった。

左から、ニミッツ元帥、
スプルーアンス大将、ハルゼー提督

海上自衛官の理想
海上自衛隊では、今なお、幹部が手本とすべき指揮官として敬われている。

幹部候補生学校の敷地内にある教育参考館。内部に入ると、赤絨毯を敷かれた真っ白な階段があり、登ったところの小部屋に東郷の遺髪が奉納されている。

教育参考館《広島県江田島市》
(Photo by ISSA)

鹿児島市の多賀山公園の墓所にも、東郷の遺髪が埋葬されている。

多賀城公園《鹿児島市》
(Photo by ISSA)

おわりに
幕末の志士は、口を揃えて海軍の必要性を訴えましたが、実際にその思いを現実のものに変えたのは東郷平八郎でした。

東郷が生まれた背景には、薩摩隼人の伝統気風や郷中教育、名君・島津斉彬公による薩摩の近代化、そして西郷隆盛の存在がありました。

また、薩英戦争で英国と戦い、その英国に飛び込んだことが、東郷本人のみならず、その後の日本海軍の飛躍的な成長へとつながったのです。

東郷平八郎
(Photo by ISSA)

かつて、「ジョンニー」とからかわれた小国・日本の小柄な男は、「海から来る敵は海にて防ぐべし」という初心を貫徹し、

帆船しか持たなかった黎明期の海軍を、僅か30数年で近代化された連合艦隊へとのし上げ、ロシアから日本を守り、白人至上主義に一石を投じ、植民地支配からアジアを解放し、多くの親日国を生み出した。

後年、敵国となった米海軍の将校をはじめ、世界中の海軍士官から尊敬され、海上自衛隊では幹部自衛官が最も手本とすべき指揮官として、今なお敬愛されています。

歴史に「たら、れば」はないと言いますが、もし、東郷平八郎が居なかったら、今頃、日本はどうなっていたでしょうか。

ひょっとしたら、日本やアジア諸国は、未だ白人至上主義の世界で喘ぎ苦しんでいたのかもしれません。

多賀城公園《鹿児島市清水町》
(Photo by ISSA)

薩摩隼人・東郷平八郎は、今も桜島の見える故郷・鹿児島で海を見つめながら、この国の行く末を見守り続けています。

遇直と笑わるるとも
終局の勝利は必ず
誠実な者に帰すべし

東郷平八郎

真に大きな仕事は、日々の誠実な努力の積み重ねによって成し遂げられるもの。どことなく、西郷さんや、稲盛さんと同じ気心が感じられる言葉だと思います🍀