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波待ちロマン

パドリングという言葉があるらしい。それは"波待ち"の時間にやることなのだそうだ。

今月から、ある専門学校で英語を教えることになった。そこのクラスメイトがパドリングのことを教えてくれた。彼はサーファーであり、DJでもあある。


私はスケートボードのなかでも「サーフスケート」という板にすごく興味を持っていたので、彼とはすぐに意気投合した。

なにより、彼自身がおどろくべきスピードでほかのクラスメイトと親しくなっていったのだ。

彼は朝起きると、1950年代のエルヴィス・プレスリーから順に、現代のエリック・プライズまで聴くようにしているらしい。予習と復習が徹底されている。見習いたい。


いっしょにサーフィンをしたいね、という話をした。そこで彼がパドリングとう言葉を教えてくれたのだ。意味はわからなかったが、たぶん手を大きく広げて、舟をこぐような動作をすることだろう。

そこで私ははじめて気づいた。Instagramでよくみるサーフィンのかっこいい映像は、「波乗り」をしているものであって、「波待ち」をしている時間ではない、と。

感情のうごきや、景気の良し悪しを波に例える人は多い。占い師なんかは、運機を波に例えることだってあるかもしれない。

波をよく観察することは、生きていくうえでとても大切なことなのだろう。音楽だって、空気の波といえば波だ。宇宙空間では聴こえない。


彼は耳が人より敏感で、弱いらしい。サーフィン中は耳栓をするのだとか。

耳が弱いというのは、アンテナの感度が高すぎることかもしれない。彼がサーフィンと音楽を愛する理由がわかる気がする。

波をよく見て、よく聴くことはきっと、時間と付き合うことであり、自然と付き合うことであり、人間と付き合うことなのだろう。

私もいつか波乗りをしたい。波待ちには、きっと地上に座って行う「波待ち」もあると思う。

私はその時間を心待ちにしている。