見出し画像

遙か遠い宮古への思い

 かれこれ何年前になるだろうか。よくよく思い返してみる。私が大学を卒業して、新入社員として働き始めた頃のはるか昔のお話です。

 平成15年というと、2003年ですかね。今が2021年だから、18年くらい前。会社に勤め始めたのがその頃で、それから3年後くらいかな。わたしが宮古のあたりにいたのは。今は合併して宮古市の一部になったと聞いてるんですが、田老というところに住んでいる時期がありました。なんのためかっていうと、仕事の関係なんですが、大体1年くらいいたのかな?

 学生時代に土木の世界に興味を持って、コンクリートについて熱心に?勉強して、さて就職って頃に何がしたいのか考えて。そうは言っても超がつくほどの就職氷河期だったあの頃は、どんな職業であれ、就職さえできれば御の字という時代だったように思います。特に、真面目に一生懸命、学問に取り組んでいた部類には含まれないような私は、就職して会社から給料もらって働くなんてできるんだろうかという不安でいっぱいでしたね。まぁそうはいっても、せっかく土木の道に進んで、コンクリートの勉強したんだから、ものづくりを仕事にしたいと考えていて。選んだのが橋をつくる会社。無事に内定をもらって、3月末の1週間の間研修を受けたあと、4月1日の入社式の日に念願の工事部門に配属が決まりました。その日のうちに工事現場の宿舎に移動し、今日初めて会う上司、現場所長との暮らしがいきなり始まったのを今でもよーく覚えています。

 そうしてスタートとした新米現場監督の日々を経て、全国を転々とすることになるわけですが、3つ目の現場が、岩手県田野畑村の工事現場でした。中部地区で東名高速道路の現場から移動すること約1000km。もはや生活空間の一つとなっていたプロボックスに乗って。やっとの思いで到着した宮古の町は雪景色でした。

 ここでの仕事は一年弱。宮古から国道45号を北上すること30分くらいかな?田野畑村というところで、国道45号のバイパスの橋梁工事をしてました。宿舎は田老駅の近くで、うろ覚えだけど、港のすぐ近くで野球グラウンドがあったような。平屋のアパートを2棟かりておじさん4人で暮らしてました。今は便利な時代だから、現場でのごはんはコンビニなんてところも多かったんだけど、この時は地元の炊事してくれるお母さんを雇いました。夜ご飯だけお願いしてあったんだけど、帰りが早くても、大体9時とか10時とかだからお会いすることは、とうとうなかったんだけど、いつも本当においしいごはんを用意してくれてました。1日いくらの材料費をお渡しして、やりくりしてもらうんだけど、時々は朝の分まで用意しておいてくれたり、海の近くの地元の人だから、美味しい魚や、ウニづくしみたいな日もあるくらいで。
 
 そんな田老での暮らしは、大概は仕事なんだけど、休みの日にはこの辺りを結構フラフラしました。橋の現場って、職人さんも特殊だったりするので馴染みの下請けさんも一緒に行っていて。こちらは、もう少し北の方、田野畑村に宿舎を構えていて。

 ずっと年配のおじさん達なんだけど、お互い出先では、やることもないし。宿舎のあたりは携帯も繋がらないようなところで。
 職人さんと仲良くするのに、一緒にいることも多かったです。
 宮古まで行ってパチンコやったり。そんで勝つとMARSとかいう泊まれるスーパー銭湯に泊まって。
 あとは、ホントに海が近くて、しょっちゅう魚釣りをしてました。釣れるのはカレイとかアイナメ。イソメを買って、安っちい釣竿で。座布団みたいな大きなカレイが釣れるんです。
 それを冷蔵庫にいれて、晩ごはんつくってくれるお母さんに置き手紙しておいて、夜ご飯に料理してくれてあったり。

 忙しくて大変だったんだけど、のどかでなんとなく懐かしい感じと。あちこちで暮らしたんだけど、ここはそんな風に思い出深いところでした。

 たまに思い出すこの時のこと。今はインターネットで色んな事ができるから、そういう時には、画面で地図をのぞいたり、ストリートビューでドライブしたり。
 

      MARSのあったあたりかな?今はもうないみたい。

 当時あまり気にしてなかったというか、不思議に思っていたけど、こういう案内が通勤路にしょっちゅうありました。のちに理解して悲しい気持ちになります。

 いろんな港付近で魚釣りたくさんしました。島の越もその一つでした。

この辺りに住んでましたね。この辺でもよく魚釣りしてました。

 コレコレ。職場でした。下まで100mとかあった橋。レベルやらトランシット担いで走り回りました。行こか止めよか思案坂って。

 この辺だったと思うんだよな。たくさんリピートしたお店。焼肉屋さん。すんごい美味しかった。冷麺のボリュームもすごかったし。ひとりで後に訪れた時にも行きました。そん時初めてひとり焼肉をデビューした記憶が。どうしても食べたくなったんだよな。もう閉店しちゃったんだろうか。やはり災害の関係なのかな。店名も覚えてないけど、ホントにおいしかった。。

 この時には想像すらしなかったわけですけど、数年後ですね。あの3.11。

 実はこの3.11の時には、橋の仕事を辞めて、すでに転職していたわけなんですが、本当にショックでした。あの優しい東北の沿岸の街が、津波に呑まれて。橋の仕事を辞めた後に、プライベートで一度この街を訪れました。自分の車に乗って、開通した橋を渡り。

 それが震災のちょうど一年前だったですね。今思えば。

 新聞やニュースであの悲劇を目の当たりにしながら、なかなか目を向けれずにいましたが、あれから10年。今も3月11日が近づくと新聞やテレビのニュースはあの頃の映像や、復興が少しずつ進んでいる街並みや、当時子供だった人たちが立派に成長した物語や。そういった情報を見るたびに、心が痛むのは、お世話になったこの街に人たちがどうなってしまったのか。そんなことを思いながらも何にもせずに日常生活をしている自分がいて。ただただ懐かしむだけで。

 あの頃は独身だったけど、今は家族がいて。日々当たり前のように日常生活を送っているわけだけど。地震や台風、今はコロナやなんかもそうだけど、そういう日常生活を脅かすような出来事が起きた時に、備えるということももちろん大事なんだけど。今ホントに思うことは、そういうことが起きた時ではなくて。何もない平和に暮らしていられる時。今こそ大切にしなくてはいけないと。一見、なんでもないような暮らしにこそ感謝して、大切にしなきゃ行けないんじゃないかと思うわけです。

 なんとなく、雑に過ごしがちな毎日だけど、ある日、あたり前が当たり前じゃない毎日に変わるかもしれない。まして、震災で被害を受けた人たちはそれを体験し、今も苦しんでいる人がいて。

 だからではないけど、忘れがちな幸せに暮らせる毎日をもう少し丁寧に、後悔したりしないように暮らして行けたらいいなと。穏やかな田老の街で暮らしていたことを思い出しながら、そんなことを思うのです。
 いまはコロナ禍にあってなかなか出かけられないけど、いつかまたあの街に行ってみたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?