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【エッセイ】真実は虚像の中に? 本能寺の変に隠された信長の最後


なんか冷たい。
変によそよそしい。
突然、友人と話していてそんなふうに空気感を感じた事が多々あった。
ふと体臭か?とも思ったが違うし、釈然としない。
なんか噂されていると気づいたのはしばらくしてからだった。
そうなったらもう弁明も何もない。噂が消えるのを待つのみ。
噂話は生きている。
脈打つ奇妙な生物のように。
自分の知らないところで勝手に形を変え、成長し、いつしか手に追えない魔物となる。
私は学生時代、いつしか……

「あいつはケチ。何も貸してくれない」

とレッテルを貼られていたことがある。
未だになぜそんな人間だと決めつけられてしまったのか、私自身わからない。
おそらく、誰かが私に消しゴムでも借りたかったのだろう。
それを私に断られ、それを友達に話した。
「あいつは消しゴムも貸してくれなかった」と。
その友達は別の友達に「あいつは何も貸してくれないらしいよ」と形を変える。
真実はただ消しゴムを貸さなかっただけだったのが、「何も貸さないケチ野郎」が真実とどんでん返しで入れ替わってしまった。

完全な虚像でも見分けがつかないのがタチが悪い。
しかし、噂話は本来、暇つぶし以外の何者でもなく、スマホやゲームがないつまらない空間での無責任な会話でしかない。
それにしてもTVやスマホがない時代はどうしていたのだろうか。
明治時代は文明開花の時代。
西洋と日本文化が妖麗な融合を見せた面白い時代だった。
江戸時代は徳川の安定政権の下、歌舞伎や日本画、さまざまな日本食など日本文化が開花した時代だった。
それ以前の戦国時代は庶民文化が産声を上げ始めた頃。
長い戦国時代が収束に向かう1573年〜30年間を安土桃山文化という。
その時代にようやく庶民文化が芽を出す程度でまだまだ”よもや話”以外何もなかった時代だった。

とりわけ、京の町衆は話題にだけは事欠かなかっただろう。
村から村へ、国から国へ売り歩く行商人はある程度、その土地の社会状況を把握するのに情報を握っていた。京はそういった情報が集中する場所でもあった。

歴史って朝廷の記録係がいて、常に記録し続けた結果というわけではない。
その時代の公家や武士の日記を紡いだ結果なのだ。
まさか、当時の著者は数百年後に読まれるなんて想定もしていない。
当然、著者の感情が真実を歪めていることも当然ある。
個人の無責任な悪口ノートだし。
そこに記された”よもや話”が、実は全く真実とかけ離れたものなどザラだろう。
そんな無駄話や茶飲み話が歴史的事実に化けたこともあったのではないかと思っている。
それも『本能寺の変』で。

本能寺の変

太田牛一は信長の直臣で、信長の側近として多くの合戦に従軍し、信長の記録係のような役割を果たした。
その牛一が書き残した第一級史料『信長公記』は、織田信長の歴史を知るには欠かせない。
信長の歴史ドラマの最後は必ず本能寺の変。
業火で焼け落ちそうになる本能寺で弓や槍で死闘を演じる。
個人的には1983年の大河ドラマ『徳川家康』で役所広司が演じた信長の本能寺の変が史上最高でした。
それにしても、本当に当時、信長は雑兵相手に戦ったのか?
確かに、『信長公記』にはそのように書かれている。

しかし、私はそうは思わない。
太田牛一は1582年6月2日、京ではなく、安土城にいた。
牛一の職務の中心は記録係として信長の行動や命令を詳細に記録することだったため、信長が安土を留守にする間、城の管理や記録の整理などを行っていた可能性がある。
太田牛一が京へ入れたのはおそらく6月11日の山崎の合戦で明智光秀が死んでからだろう。
そこで聞き込み調査をしたらしい。
牛一は本能寺から逃げ延びた女どもから聞いたと書き残している。
それは本当だとして、一体何を聞けたというのだろうか。
本能寺には燃え盛り、矢や鉄砲が飛び交い、そこら中で側近たちが雑兵と戦い血まみれになっている。
女どもはその中で冷静に信長の様子を見ていたというのか。
あり得ない。
私なら、着物を防災頭巾がわりにして必死で我が身可愛さに逃げるだろう。
まさに死神が真後ろまで迫っていたのだから。


すでに”死に体の信長様”に何の義理あって側にいるというのか。
我先に逃げ出したのは目に見えている。
女どもが確認できたとすれば、おそらく、信長が光秀に裏切られたのを検知し「是非に及ばず」と最後の言葉を吐き捨てるところまでだろう。
ただし、それは本能寺が光秀軍に取り囲まれる前だったはず。
戦国時代の大名が何の見張りも置かずに京へ滞在することはない。
京とは、山に囲まれた盆地で、京へ入る道には限りがある。
そのため四方の街道を抑えられると袋のネズミとなる危険な町でもあった。
まさに蜘蛛の巣。
おそらく、光秀軍が京の街に進軍してくる前の早い段階で検知したはず。
「桔梗の紋の旗印の軍がこちらに迫ってきています」
とでも報告を受けただろう。
信長は、光秀が知略に優れ、経験豊富で狡猾な戦国武将だと瞬時に頭をよぎる。
そして、すでに逃げ場はないと悟ったのだ。
そして最後のあがきは、自身の首を光秀に渡さないこと。
そのため、のんびりと雑兵と戦っている時間などもちろんなかった。
雑兵に首を取られることこそ、最大の屈辱だから。
そのため、取り囲まれる前に早々に切腹して首だけになって逃げたと思われる。
信長は戦っていない。
だとすると、なぜ戦ったことになったのか。
実は、1582年6月2日、実際に死闘に身を投じ、光秀軍を2度3度と追い返した人物がいた。
それは織田信忠でした。

信忠の死闘

本能寺が炎に包まれている。
それを宿舎の妙覚寺で愕然と眺めていた人物がいた。
それは嫡男、織田信忠。
織田信忠は、次期当主として期待されていた人物で武勇に優れていた。
しかし、なぜか明智光秀は信長と信忠を同時に包囲していない。
織田信忠が包囲されたのは二条城に入城して以降だ。
それは光秀が京に織田信忠が滞在していたことを知らなかったからではないかと、私は推測している。
信忠は徳川家康一行が安土から京見物に来ており、5月27日は堺見物に出かけ、信忠も案内役として動向する予定だった。
はじめ接待役だった明智光秀は当然、スケジュールを完全に把握していた。
そのため、光秀は、信忠がこの時、徳川家康一向と共に堺に下向していると推測していたのだ。
信忠の最後の書状が残っている。
それは信忠から森蘭丸に宛てたもので、信長が1両日中に安土を出発すると聞き及び、堺見物を取り止めて信長を京で出迎えるという内容だった。
一方堺では千利休が娘婿に宛てた書状が残っている。
その5月28日付の書状では、

「信忠殿が来ないんだって!せっかく力入れて準備してきたのにシラけるよなぁ!
がっかりしたよ。我々の面目は失われたよ!」

と散々愚痴っていたのだ。
そう、それはまるで「ドタキャン」されたようにである。
信長が京、本能寺に入ることが判明したのはおそらく5月27日。
そして本能寺に到着したのは5月29日。※翌日は6月1日、本能寺の変前日。
信忠もそれに間に合うよう、急遽京で信長を出迎えることとなった。
そのため、明智光秀は京に織田信忠がいることを知らなかったと睨んでいる。

明智光秀は二条城に織田信忠が入ったことを知り、そこで初めて信忠へ軍を差し向けて包囲する。
信忠は光秀軍に対し、もちろん多勢に無勢だったにもかかわらず、2度3度と追い返す死闘を繰り広げる。
二条城は誠仁親王の居宅だったので奇妙なことが起き、戦闘は一時中断され、信忠は親王を退去させる。
そして信忠は切腹して果てるが、信長同様、その死体を敵に晒すことなく灰にした。
朝が明けた。
京では大規模な落武者狩りが実施され、本能寺の前は首の山となる。
京中に死臭が漂い、烏が飛び回る奇怪な光景だったことは想像に難しくない。
おそらく、当時でも大事件だったと思う。
誰もが意表をつかれた大事件だったので翌日話題は持ちきりだったはず。

庶民A:「おいおい、何が起こったの?」
庶民B:「信長様が殺されたって」
庶民A:「え、マジで?」
庶民B:「なんか信忠様もやられちゃったらしいよ」
庶民B:「信忠様は死華を咲かせ、バッタバッタと斬りまくった
     壮絶な最後だったとか」
庶民C:「え、信長様でしょ?それ! 俺はそう聞いたよ?」
庶民B:「あ、そうだっけ。そうだよな! 信長様だわ、それ」

近衞前久の『言経卿記』にはこの日のことを「明智光秀が謀反を起こし、織田信長が本能寺で討たれた」と書かれている。
近衞前久は本能寺の変が起きた未明、起きていた。
確かに外が騒がしかったが、いつものことだと気にも止めていなかったとか。
つまり、誰も知らないのだ。
何かと話題に上がることが多かったはずの織田信長が襲撃されたとあって、噂話で持ちきりだったはず。
比叡山焼き討ち、一向一揆の大虐殺、数々の戦歴とその豪胆さで天下を震え上がらせた信長。
その信長が実はあっさり切腹してたなんて、たとえそれが真実でも誰も信じなかっただろう。
いつしか噂話に花が咲き、剛勇信忠の武勇伝がいつしか信長の壮絶な最後と勘違いされたとしても全く不思議ではない。

太田牛一の忠義

太田牛一は信長が早々に切腹していた事はもしかしたら知っていたかもしれない。
しかし、死闘は、牛一が信長に相応しい最後として書き加えたのかもしれない。
それは牛一の忠義心からだろう。
だとしても私もその”死闘で散った最後”に大賛成だ。
信長を象徴した最後だったと思えてならない。

真実とは、実際に起こったことそのものではなく、人々の口から語り継がれ、形を変えながら残されたものだ。
信長がどう死んだか、信忠がどれほど戦ったか――その詳細がどうであれ、今私たちが知っているのは歴史書という形をとった「噂話」かもしれない。
噂は生きている。
太田牛一が、信長の最後を「壮絶な死闘」として記したのも、忠義心から生まれた一種の「美化された噂話」だったのだろう。
そして、その記録が今の私たちの歴史観を形作っている。

ならば、私たちが日々耳にする噂話も、いつか誰かにとっての「真実」になり得るのかもしれない。歴史を変えた噂話のように。


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