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#39.1週間「働かない」をやってみた。働く喜びは与える喜びだった。

「働く」ってなんだろう?

私は今まで「お金を稼ぐため」「他者に認めてもらうため」「成長するため」に働いてきた。


収入があるから安全で、ほめられると安心で、成長しているからうれしかった。

そこまではいたって健康だし、当たり前だと思うんだけど、

「もっと稼がないといけない」「もっとほめてほしい」「もっと成長したい」

ってだんだん、お金・承認・成長への執着が、納豆並みにネバネバ〜っとし始めてしんどくなってきた。

ほしがりすぎたのだ。

なにごともバランスなのね。納豆はおいしい。



で、「あ~!執着してるんだ…」って気づいたときは謎が解けたみたいでスッキリした。


「いつか、誰に認められなくても、自分の奥底からつき動かされる動機で働いてみたい」


と、そんな気持ちでいたのを、ふっと思い出した。


そして10年間、大事に育ててもらったコンフォートゾーンを出てあたらしい環境に入った。


そしたら、また初心者になった。


で、取り戻すために(?)がむしゃらにやっていたら、今度は結果に対して納豆ネバネバでグッタリ。

うまれてはじめて生理が止まった。


いい加減につかれてきた。


「あれ?これがわたしの求めていたことだったっけ?」


ってまた立ち止まった。

世間ではWell-being重視で、「Do=やっていること」や「Have=もっているもの」ではなく「Be=ありのままの存在」を認めよう!

っていうじゃないですか。

わかるんです、あたまでは。

でも、いまだにゴリゴリに「DoしてHaveしている自分」しか認められてないじゃんわたし…(笑)

だから、そんな自分を変えるためにも、
自分のBEINGを認めるためにも、


1週間働かないことにした。







1ミリも成長しない、結果もない、成長もない、だれからも褒められない。









結果、ものすごい虚無感におそわれた(笑)




芽がでるどころか枯れかけた。

流れるどころか苔生えた。


体調が悪かったのもあるが…


そこで、2つの気づきがあった。


1つ目。


虚無感の正体は、「このままじゃ何にもなれないじゃん、自分」っていう不安だった。


だけど、「何者かになりたい」というのは、(わたしの場合)「今のわたしのままではダメだ」というのが根底にあって、

真綿で首を絞めるような、じんわりとした自己否定だった。



2つ目。

わたしは、思いがけず、働くことが好きだった。

働くことは、自分のもっているものを与え合うことで、

働く喜びは、与える喜びだった。

自分の不足を見つけ、おぎなって、つけ足して、自分のパーフェクション願望を満たして、何かになろうとするんじゃなくて、


今、自分がもっているものを誰かに分け与えるだけで十分だった。


足りない部分は誰かに頼ったらいいやん。


もし飛べるのに、飛び出せなくて、

今いる環境で「つまんねーー」ってなってるなら、

みずから動いてみて

相手に与えている実感があれば

状況は改善するのかも。



見返りを求めず、ほめられるでもなく、自分の動機でそっと差し出すことができる大人に、


あたしゃなりたいよ…


急に、まる子。


幸い「自分以外の何かに動かされている!」と気づいたときは、ピピーン!と見すごすことができない、あまのじゃく33歳。

ほら、「お風呂入りなさいー!」って言われたらイヤやん、あれですよ。


なんか違うと気づけば立ち止まり、自分のコンパスを開いて、方向が合っているかどうか確かめてきたように思う。

で、これからどうなるのか。

不安定な中をドッタンバッタン。

でも、少しずつ自分に戻っている実感があるような。


結局、執着と深刻がなければ人生よくなるな。

っていうのは3つ目の気づき(笑)


つよい不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。

どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。

自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。
—『愛するということ 新訳版』エーリッヒ・フロム著


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