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23-66. 心から満たされるときを求めて

満月の夜に、『暇と退屈の倫理学』を読み切りました。

とにかく面白かった!のに、要点をまとめようとしても、手で砂を掬うように言葉が落ちていってしまう。。

なので、要することを早々にあきらめ(笑)、わたしがこの本を読んで感じたことを、体験談を踏まえてまとめてみることにした。

本の趣旨からは逸れるかもしれないし、著者が論じたかったこととは離れるかもしれないですが、確実にインスパイアされていることは先にお断りしておきたいと思います。

思い返せば、心を病んだ19歳の春は、わたし、とっても退屈しておりました。ちっとも、心が満たされていなかったのです。それに自分が何に満たされるのかを全く知らなかった。正直、いまもまだ、たぶんよく分かっていないです。

みなさんが、心から本当に満たされるのってどんなときですか?わたしこれを最近まいにち探しています。五感を最大にして。探すものじゃないのかもしれないけど。(笑)


で、大学生の当時、「大学へ行き、勉強する」といった名目上の「やるべきこと」はあったけれど、それは自分が望んだものではなかったのです。だけど、自分が望んでいるかどうかなんて、自分にとってちっとも重要ではなかったので、だましだましやっていたら、いつのまにか自分の心と現実との辻褄が合わなくなっちゃったんだと思います。心の中はとてつもなく空っぽなのですが、何をしてもむなしく、満たされない。時間はあっても、やりたいことがわからない。

退屈が深さを増すにつれて、気晴らしは次第に力を失っていく。

暇と退屈の倫理学

「なんとなく退屈だ」となってしまった状態では気晴らしはまったくの無力となるらしいのです。「ここまでくると、私たちはこの退屈に耳を傾けなければならなくなる」と本のなかで、ハイデッガーの引用がありました。

当時のわたしは、この「なんとなく退屈だ」に耳を傾けることをひどく恐れており、他者から使命を与えてもらえるのを待っていました。

「自分の未来は自分で創っていい」という選択肢が毛頭なく、そこに踏み出す勇気もなかったのです。だれかにOKをもらえないと動けない。で、待てど暮らせど使命なんてこないわけです。(そりゃそーだ。)

何をしても、何もしていない。
生きてるのに、死んでる。(これは「離婚しようよ」、、笑)

つねに心が渇いてて、カラッカラのカッサカサ。自分に対してとっても暴力的でしたね~。ああ、あのころの自分を抱きしめてやりたい。

退屈しているとき、人は楽しくないと思っている。だから、退屈の反対は楽しさだと思っている。しかし違うのだ。退屈している人間が求めているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。

だから、今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。

ラッセルの退屈論


人が楽しそうにしていることを真似てみたり、「こうしたら幸せになれる」ということをやってみても満たされなかったのは、それが自分には必要ではなかったからなのでしょう。

今まで、どんなときも、その退屈を抜け出せるのは、仕事・ミッションへの没頭だったのです。でも、暇と退屈の倫理学にこうあります。

何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。(略)自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに取り組む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。

暇と退屈の倫理学 文庫版 P353

うわ~~!!!って感じでした(笑) でも、奴隷になってるかどうか、ってどうやったらわかるのー?!と半泣きなのは、今のわたしです(笑)

たぶん、感覚的に、こどもと過ごす時間がもったいなく感じられたり、没頭しているもの以外のことが無駄に感じられるときは、そのミッション・仕事の奴隷になっているときだと思います。


さらに、この広告社会、消費社会において、「消費」っていうのは、物に付加された観念や意味を消費しているにすぎないそうです。生産者がPRして、消費者もそれに乗っかって、食べたり、所有したり、あるいは仕事したりしてみても、一向に満たされない(たぶん本人は無自覚)のは、その「モノ自体」を受け取っているのではなく、その物に付与された意味だけを消費しているから。だから、延々と終わらないゲームをしてるんだって。

たとえば、「このお店に行く人=お洒落」と意味づけされた店に行き、そこで提供されるモノ(食べ物でも、飲み物でも)を、ほんとうに美味しく、お腹いっぱい食べ、満足できているのだろうか。

ただ、他人がいいというもの、褒めてくれることを、「わたしにも必要かも」と思ってする。その物を受け取りたいんじゃなくて「これ食べてきた」「ここ行ってきた」と言いたいだけで、消費してるんじゃないの?

えー。ああ、思い当たる節が多すぎて、脳みそぐるぐるする。笑

じゃあ、いまわたしにとって、必要なものは、一体……何なんだ?
この答えは、たぶん自分しかしらないはずだ。っていうか、たぶん、そんなに多くないはず。

過去のわたしのように、自分で選ばずに、こうすべき/こうしたら幸せになれるを信じ、与えられた意味だけを消費し、そこにある必要なものを受け取れていなければいつまで経っても満足はしないのかもしれない

満足とは「本当に必要なものを必要以上に受け取ること」だそうだ。ごはんをお腹いっぱい食べるとか。

そして、個人的に、満足するためには目の前の物ごとを愛することが必要不可欠だろうと思ってる。

じつは、必要なものを必要以上に受け取れておらず、カラカラに乾いている、その自覚すらないわたし(たち)。

ほんとうに必要なものってなんなんだろう?そう思って周りを見渡せば、断捨離対象がいっぱいあって愕然とする。

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