"#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム" 批判的感想文:承前

noteはず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと前にそれこそサービス開始時に少し利用していた事がある程度で、当時はあまり書きたい事がなくて放置。今回書こうと思ったのは、twitterで石川優実さんを含め、若干だけど意見を言わせてもらったからです。

自己紹介

私はどんな人間か。一応適当な範囲で簡単に説明しておきます。ずっと昔に宗教問題をネットで延々議論していた事があります。それまでは社会的な関心ごとなどあまりなくて、主に自分だけの世界を生きているような人間でした。ですがその時以来、結構間断はあるけど、色々なタイミングでいわゆる社会問題的な話で関心が向いた事をネットで議論しました。中でも大きかったのは歴史問題の南京事件で、買える資料は買い漁り、買えない場合などは古いボロボロの書籍までも図書館の書庫から出してもらって調べるほどに夢中になりました。今は細かい話はあんまり覚えていないけれど、その筋では有名な「ゆうさん」のページにほんの僅かだけ協力した痕跡は残っています(当時の名前は捨てたのでゆうさんは覚えてないだろう)。

その時に同時に勉強したのが従軍慰安婦問題でした。これを話しすると、一部の右翼連中が飛びついてきて「あんなのは捏造だ」という話になりかねないので詳しくは語りません。ただ、重大な戦時中の女性に対する性暴力を扱う問題であり、おそらく私はその時に初めてはっきりフェミニズムを認識し始めたのだと思います。

それでまぁずいぶん経ってから、Twitter上で随分とフェミニストと呼ばれる人達が色々と話題に上っているという様子が見え、いわゆるオタクとフェミニストが年中喧嘩し合ってるみたいな、そんな様子をただぼけっと傍観して「馬鹿じゃねぇの?両方とも」と高みの見物を決め込んでいたのですが、どうしてもフェミニズムには前述した従軍慰安婦問題が重なって見えたのです。漠然と、いったいいつまで女性は性暴力に晒され続けなきゃならないのだろうか? という具合に。

それで、少しずつではあるけれど、フェミニストの攻撃に共感を覚えるようになってしまったのです。痴漢を代表に、様々な性犯罪、あるいはセクハラ行為や、大学入試における差別・・・もちろんもっともっとあるけど、女性問題を語るとキリがないくらい。それで、ふと宇崎ちゃんの問題をきっかけに休眠させていたアカウントを復活させ、僅かですけどツイートするようになりました。そこに石川優実さんという名前も引っかかってきたのですね。#KuTooもお名前も知ってましたけど、当初は「へぇ良い運動だな」程度の関心しかありませんでした。

フェミニスト(味方)の党派性?

Twitterではこう述べました。

実は、それ以前からどうしても引っかかる事がありました。Twitter上で石川氏の味方だと思えるような人達が、石川氏の行為を一切批判しないのです。あるのかもしれませんが、少なくとも私自身は見た事がありません。傍観していても、なんとなく石川氏への妥当な批判もなされているようにも以前から感じていたのだけど、それらは全てどちらかと言えば反石川氏・反フェミからのものであり、味方側からのものは知りません(知らないだけ?)。

なので、もしかして党派性の罠(※適当な呼び方を知らないのはスマン)に陥っているのじゃないかと思えたのです。無意識・無自覚なのか自覚してるのか知らないけど、今やネット上のフェミニストとしてある意味クイーンの座にいる石川優実氏に批判なんかしようものなら、内ゲバ呼ばわりとか、身内もあんなこと言ってますよーとかそれこそクソリプされて石川さんに申し訳ないとか、色々な気遣いが働いてしまい、誰も言わなくなってしまってるんじゃないのかな、と。勝手な私個人の仮説ですが。

そしてとうとう石川氏はTwitter上で「死ぬかもしれない」とまで呟き始めたのですね。私はこれは即座に「助けが欲しい」と翻訳すべき事項と判断しました。おそらく死ぬとか嘘であり、そこまで言えば協力が得られるだろうとの計算に違いない、と。繰り返しますけど、私個人の勝手な仮説です。でも、どう考えたって死ぬ死ぬ詐欺じゃないか。おいおい待てと、大の大人がそんなこと言う? それでも味方と思えるような人達は誰も批判もせず、あららそりゃ大変ですね助けますよと、石川氏についた「クソリプ」退治に向かうんです。そんなの絶対おかしい。フェミニスト(側の人)には相当の論客だっているのに、そのおかしさに気付かないはずはないんじゃないの?と。

それで、今までずっと黙ってきたけど、味方である事を勝手に自覚していた私(勝手に私が味方だと思っているだけだと強調しておかないと「あんたに味方になってくれって頼んだ覚えないわー!」みたく石川氏に怒られるのだ)は、とうとう黙ってはいられなくなったのである。・・・いやそれでも黙ってたけどね。だってね、怖いんですよ、あんな味方の多い人に反論するなんてね、それに石川氏は返事・反論してくる可能性あるし、勝手に自分でそう思っているだけとは言え、味方になってあげたい人から反感もたれるのも嫌じゃないですか、人として。

でもまぁ良いやと、一期一会とも言うじゃないか、その時を逃すなと、心の声が囁いたのでしょう、そう思ったタイミングで絶対見逃すことのできない石川氏のツイートが流れてきたのです。

いや実は、度々石川氏がKuToo本に対してのクレームに「そう思うんだったら訴訟しろ」のようなツイートしてるのは見てたのです。でもそれってはっきり言いますけど、脅迫じゃん。訴えたら良いってのは、裏を返すと(それ以上言ったら)私は訴えますよって言ってる事にならない? あるいは、喩えとしては、「表出ろや!」つってるのと一緒でしょ。

私はこう言う相手の口を塞ぐような物言いはものすごく腹が立ちます。表現の自由で最も大切なのは、自由に批判できることではないかと思っているからです。表現の自由というよりも民主主義の根幹と言った方がいいかもしれません。いちいちそんな説明は不要だと思いますが、実際には分かってない人がかなり多い印象です。ですが、自由に批判できるからこそ、石川氏だってクソリプに投げ返せるわけです。なのに、自分は自由に言い返すくせに、自分が批判されたら脅迫して相手の口を塞ごうとするなんて、なんやねん!って感じ。それじゃ、表現の自由戦士達が「俺らの趣味に口出すな!」つってるのと全く同じじゃん。これ、ダブルスタンダード以外の何者でもないんじゃないのか、とすら。

フェミニズム自体がそうでしょう? 女性が声を上げる、それは表現の自由があるからです。歴史上どうだったかまで詳しくは存じませんけど、言っていいからこそ声を上げて、女性を社会の中に閉じ込めるのではなく、その人権を認める方向へと動いたんじゃなかったのでしょうか。#KuTooもそうです。声を上げたから、とうとう一年経って(も経ってないか)安倍首相の言質まで取れたのです。それが何なんですか、気に入らなければ訴えろって。何度も言うけど絶対そんなのおかしい。お前は黙ってろって、それは女性を社会の内側へ閉じ込めてきた男性の言葉じゃないですか。矛盾も甚だしい。

だけど、味方であろう人達は誰もその違和感を訴えない。誰も声を上げない。私のこの批判は、石川氏だけでなく、その人達にも向けてます。おかしいことはおかしいと言える社会こそ、民主主義社会です私達はその民主主義社会に生きる人間です。正直言って私も怖い。実名すらも明かさないようにプライバシーは言えませんけど、先頃のDMCA虚偽申請騒ぎじゃないけど、恨まれたり憎まれたり妬まれたりしてアカウントどころか、下手すると生活だって脅かされない。私には守るものもあります。実際、宇崎ちゃん騒動でほんの少し表現の自由戦士側に楯突くようなことを言っただけで、別アカウントだったのでそれに紐づいたブログが特定され、クレームつけられてブログ削除の危機までありましたし。あとどうでもいいけど、いちいち返事返すとかめんどくさい(笑)

というわけで承前が少々長くなりましたが、次回は本論に入りたいと思います。#KuToo本への批判的感想文です。但し前もって言いますが、2章についてはあまり触れるつもりはありません。2章批判は吉峯弁護士等の指摘で尽きてると思っていますので。あと引用が今のところ手打ちするしかなく、お時間頂戴いたします。以上。






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