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アウシュヴィッツの犠牲者数のまとめ

今回は、アウシュヴィッツ収容所の犠牲者数に関する小論です。


1.110万人説(フランチシェク・ピーパーの研究結果)

アウシュヴィッツの犠牲者数については、2024年6月現在、110万人と言われることがほとんどのようですが、この数字は、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者を務めていたフランチシェク・ピーパー(Franciszek Piper)博士による研究結果です。ピーパーは、ネットで時折、主に修正主義者によって、「館長(Director)」と表現されていることがあるのですが、ピーパーが館長をしていた事実はありません。以下、ピーパーの個人サイト声明から。

1992年のデビッド・コールとのインタビューで、アウシュヴィッツ博物館で見学者に公開されているガス室は戦後に建設されたものであると私が述べたという情報が、さまざまなインターネットのポータルサイトに掲載されていることに関連して、私は、これは事実ではなく、そのような情報を誰かに伝えたことは一度もないことを宣言する。

ビデオに録画されたインタビューにはそのような情報は含まれていない。

また、このインタビューに関連して掲載された情報に反して、私はアウシュビッツ博物館の館長を務めたことがないことを宣言する

アウシュヴィッツIのガス室棟と火葬場のドイツ側平面図とその詳細な説明は、収容所モノグラフの第3巻(Auschwitz 1940-1945. Knotty issues in the camp of the history, Auschwitz 1995)に掲載されている。

フランチシェク・ピーパー

ところで、アウシュヴィッツの犠牲者数として語られる「110万人」という数字がどういう数字なのか、しばしば誤解されています。例えば、バスティアン・ハイン著の『ナチ親衛隊(SS)』(中公新書、2024年)のp.159には下記のような記述があります。

一九四五年一月二七日に赤軍が解放するまでに、アウシュヴィッツ絶滅収容所では約一一〇万名のユダヤ人が殺害され、そのうち約九○万名はガス室で殺された。

これはほんとによく見かける間違い(私自身が以前は同じ誤解をしていました)で、実はピーパーの研究では110万人はアウシュヴィッツ収容所での「全ての犠牲者数」であり、うちユダヤ人は96万人とされているのです。これは、私が以前に翻訳した、アーヴィングvsリップシュタット裁判に提出された、ロバート・ヤン・ヴァン・ペルトの報告書にその記載があります。元々のピーパーの研究結果の詳細(要約版)は、この記事のために色々と検索していたら、ネット上で公開されているのをやっと見つけました。

いずれは翻訳して読んでみたいものですが、今回はパスします。

しかし、取り敢えず知るには、ヴァンペルト報告書の内容で十分なんじゃないなかと思ったので、その部分を以下にコピペしておきます。ピーパーの個人サイトには、犠牲者数に関するピーパー自身の説明テキスト(研究論文ではありません)もありますが、ポーランド語なので訳しにくくて私はほぼ読んでません。


ピーパーは、1986年に作品を完成させた。欧米で提案されていたライトリンガーやヒルバーグの数字をほぼ支持していたこともあり、1980年代半ばのポーランドが軍政下にあったことを考えると、慎重に進めることにしたのだ。ピーパー氏は、まず博物館内でその結論を検証し、その後、ポーランドのナチス時代に関する代表的な研究機関である「ポーランドにおけるナチス犯罪調査主委員会」による徹底的な外部検証を受けた。1990年、共産主義後初の政府が誕生した後、ピーパー氏は110万人の犠牲者という新たな推定値を国際社会に公表した。この数字は、アウシュヴィッツの複雑な歴史を詳細に研究してきた本格的なプロの歴史家や、エルサレムのヤド・ヴァシェムとワシントンD.C.の合衆国ホロコースト記念博物館のホロコースト研究機関のすべてが支持している92

この仕事を始めたとき、ピーパーは、SSが収容所を放棄する前にほとんど破壊してしまった収容所管理局の残りの書類が、収容所に強制移送された人と収容所で殺された人の総数を確定するのにほとんど役に立たないことに気づいた。到着時にガス室用に選別されたすべての脱落者は収容者として登録されていなかったので、収容者の労働配分の責任者がベルリンの上司に報告する以外には、収容所内の管理記録は存在しなかったが、そこには、これだけの数の脱落者を乗せたこのような輸送列車から、ある数の脱落者が「労働に適している」と選別されたという記述があった。これは明らかに殺害の婉曲表現であり、第一に、収容所には「労働不適格」とされた人々に「特別な宿泊所」を提供する施設がなく、第二に、これらの人々はその後、跡形もなく消えてしまったからである。 93そのうち3つのレポートが残っている94。アウシュビッツの政治部で働いていたSSのペリー・ブロードによると、同様の報告が彼の部署からユダヤ人殺しの作戦全体の中枢であるアイヒマンに送られていたという。国家保安本部のことである。これらはいずれも残っていない。先に見たように、ブロードは、数字がベルリンに報告された直後、政治部はすべての記録を破棄するよう指示されていたと宣言している95

ピーパーはまた、目撃者による殺害人数の推定値を利用しないことにした。ルドルフ・ヘス司令官という一人の例外を除いて、戦後に告白したドイツ人関係者も、収容所内のレジスタンス組織に属していた者も、管理事務所で働いていた者も、火葬場でゾンダーコマンドとして働いていた者も、収容所の歴史の全期間にわたって、信憑性のある数字を確立するのに十分な集計データを集めることができなかったのである。

ピーパーはまた、1945年にソ連とポーランドの法医学調査官が行った、火葬場の焼却能力に基づいて犠牲者の総数を確定しようとする初期の試みも破棄した。前述のように、専門家たちは、火葬場が存在していた期間に、最大で512万1000体の死体を焼却した可能性があると判断していた。念のため、火葬場の稼働率を5分の4と仮定して、最終的に400万人としたのである。調査官たちは、おそらく、火葬場の焼却能力を過大評価し(各火葬場のドイツの公式数値と稼働時間を掛け合わせると、260万体の死体という数字になる96)、火葬場が休止していた時間を過小評価していたことから、ピーパーも、それだけでは結論を出すのは難しいと結論づけている。

彼は、ナハマン・ブルメンタールの方法に従って、様々な国からアウシュビッツに移送された人々の数の調査に基づいて進めるのが最良の方法だと主張した。輸送列車の分析は、ライトリンガーが収容所で約90万人が死亡したと推定した根拠であり、ウェラーズがアウシュヴィッツで147万1595人が死亡したと結論した根拠であった。しかし、ピーパーはウェラーズの数字には懐疑的だった。ウェラーズは、恣意的な前提条件を用い、重要なデータを考慮せず、概算値と正確な数字を組み合わせていたと彼は主張した。収容者の他の収容所への移動、釈放された収容者、脱走した収容者などを考慮に入れず、生存者の数を8万人も過小評価していた。それに加えて、ウェラーズはアウシュヴィッツへの移送者の数を32万人ほど過大評価していたが、その主な理由は、収容所に連れてこられたポーランド系ユダヤ人の数を過大評価していたことである(30万人ではなく62万2935人)97

ピーパー氏は、各国の学者によるアーカイブ調査、特にポーランドの学者ダヌータ・チェヒ氏がアウシュビッツのアーカイブで行った「カレンダリウム」と呼ばれる30年に及ぶプロジェクトを基に、アウシュビッツに強制移送されたユダヤ人の数を推定することができた。カレンダリウムは、収容所の歴史を1日ごとに完全に注釈付きで記録した大規模な参考書で、1956年以来、国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の長期的な研究方針の中核をなしている。カレンダリウムの初期作品は、1950年代後半から1960年代前半にかけて出版された。しかし、1960年代、1970年代、1980年代にも作業は続けられ、より多くの資料が入手できるようになったため、常に改良が加えられた。最終的には1989年にドイツの出版社Rowohltからドイツ語版の大規模な『Kalendarium』が出版され、その1年後には英語版の『Auschwitz Chronicle 1939-1945.』が出版された98。この作品は、12ページの序文の後、805ページに渡って、開戦から1940年春の収容所設立までの前史と、1945年1月27日の解放までのほぼ毎日の収容所の運営状況を記録している。これに加えて、主要な加害者の略歴19ページ、4ページの用語集、152項目を含む8ページの参考文献が掲載されている。

典型的なエントリーをランダムに選ぶと、次のようになる。

1942年11月14日

・囚人No.69656は、午前5時40分、本陣の監視塔BにいたSS見張り番に「逃走中」に撃たれる。
・待機部隊は午前1時45分、輸送を担当するために荷揚げ場に行くよう命じられる。
・2,500人のユダヤ人男性、女性、子供がRSHAの輸送に乗って、Zichenau地区のゲットーから到着する。選別の結果、男性633人、女性135人が収容所に入れられ、74745~75377番、24524~24658番が与えられる。残りの1,732人はガス室で殺される。
・1,500人のユダヤ人男性、女性、子供がRSHAの輸送列車でBialystok地区のゲットーから到着する。選別の結果、282人の男性と379人の女性が収容所に入れられ、75378~75659番と24659~25037番が与えられる。残りの839人の国外追放者はガス室で殺される。
・クラクフ地区のSipoとSDから収容所に送られてきた男性71名と女性2名の囚人には、75660~75730、25038、25039番が与えられる。
・SS収容所医師は、囚人の診療所で選別を行う。彼は110人の囚人を選び、彼らはビルケナウに連れて行かれ、ガス室で殺される99

カレンダリウムは、アウシュビッツへの強制移送の歴史を研究する上での基礎とみなされなければならないが、完璧ではないことを指摘しておかなければならない。特に、ウッチ・ゲットーが最終的に清算され、その後、残った人々がアウシュビッツに移送されたことについては、12の輸送手段のうち、11の輸送手段の規模が明確に示されていないことが問題である。1944年9月18日の輸送では、2,500人の移送者がいた。これが典型的な輸送であれば、リストアップされた10台の輸送列車で合計25,000人の強制退去者がいることになる。しかし、ウッチの統計局によると、8月と9月には73,563人のユダヤ人がウッチから強制移送され、そのほとんどがアウシュビッツに送られたという。つまり、少なくとも『カレンダリウム』の記録では、最大20本の輸送列車(約5万人)の記録がすべて失われているのである。この最大20本の輸送列車の「消失」こそが、『カレンダリウム』の唯一最大の異変であると私は考えている。

カレンダリウムと、強制移送された各民族グループのユダヤ人の正確な数について各国の歴史家が行った調査(フランスの場合は、1947年初頭にヤコブ・レチンスキーが犠牲者の総数を確定した100)を利用して、ピーパーは、以下の民族グループのユダヤ人のアウシュヴィッツへの強制移送数を正確に推定することができた(1万人以上の数はすべて千人単位に切り上げまたは切り下げ)。

1. フランス:1944年3月27日から1944年8月22日の間に71回の輸送が行われ、輸送リストには約69,000人の強制移送者が記載されている。
2. オランダ:1942年7月15日から1944年9月3日までの間に68回の輸送が行われた。
3. ギリシャ:1943年3月20日から1944年8月16日までの間に22回の輸送が行われた。鉄道乗車券には、サロニキからアウシュビッツへの約49,000人のユダヤ人の強制移送が記載されており、輸送リストには、アテネとコルフからアウシュビッツへのさらに6,000人のユダヤ人の強制移送が記載されている。
4. ボヘミア・モラヴィア:1942年10月26日から1944年10月までに24回の輸送が行われ、輸送リストには合計で約46,000人の移送者が記載されている。
5. スロバキア:1942年3月26日から1942年10月20日の間に19回輸送、1944年秋にもさまざまな輸送が行われた。
6. ベルギー:1942年8月4日から1944年7月31日までに27回輸送。
7. イタリア:1943年10月18日から1944年10月24日までに13回輸送、輸送リストの合計は約7,500人。
8. ノルウェー:1942年12月1日から1943年2月2日の間に2回輸送、輸送リストには合計700人の強制収容者が含まれている。

これにより、比較的わかりやすい資料に基づいて、約29万人の強制移送者の小計が判明した。すべての強制移送者は、到着時に殺されたために登録されなかったか、収容所に入れられて登録された。

他の様々な国からのユダヤ人に関する数字は、より複雑な分析を必要とした。あるケースでは、強制移送者の数に正確な数字があるが、到着時に殺されなかったかなりの数のユダヤ人が収容所に受け入れられず、登録されなかった。これらのいわゆるDurchgangs-Juden(通過ユダヤ人)は、帝国内の強制収容所に派遣されるために、一時的に輸送中に保管されていた。

9. ハンガリー:ブダペストのドイツ大使がベルリンの外務省に送った1944年7月11日付の電報によると、合計437,402人(438,000人)のユダヤ人がアウシュビッツに移送された。輸送列車の総数は148本だった。438,000人のユダヤ人のうち、25,000人ものユダヤ人がDurchgangs-Juden(通貨ユダヤ人)として認定されていた可能性がある。

これにより、9カ国からのユダヤ人101の強制退去者数は72万8,000人に修正された。前述のすべてのケースで、ピーパーの数字はウェラーズの数字に近い。

最後に、さまざまな理由でデータが単純ではないことが判明した国、またはある時点で学者間で実質的な不一致があった国がある。

10. ポーランド:1942年5月5日から1944年8月18日のあいだにアウシュヴィッツに到着したポーランド系ユダヤ人(ウッチ出身者を除く)を乗せた定期輸送の数については、収容所のレジスタンス運動が保管していた記録にもとづいて、比較的信頼できる情報がある(142)。これらの輸送は、それぞれ平均して約1,500名であったが、5,000名を超えるものが3回(1942年6月にビエルスコ・ビアラから、1942年8月にベンジンから、1943年9月にタルノウから)、4,000名を超えるものが3回(1942年6月、1943年1月にロムザから、1943年11月にセブニから)、3,000名から4,000名の輸送が13回あった。ポーランドの輸送列車の通常の規模は、1,000人か2,000人であった。1,000人に満たない輸送列車は36本あった。これらの輸送列車からの退去者の総数は、約221,000人であった。この数に加えて、1944年8月と9月にウッチ・ゲットーを清算した輸送列車を加えなければならない。このうち10本の輸送列車がリストアップされている。1944年7月、ゲットーの人口は74,000人を少し下回っていた。9月の終わりには一人もいなくなっていた。輸送列車のほとんどはアウシュビッツに向かった。したがって、アウシュビッツに移送されたポーランドのユダヤ人の総数は28万人から29万人であった。ピーパーは、起こりうる矛盾を考慮して、これを30万人に切り上げた。

アウシュビッツに移送されたポーランドのユダヤ人30万人という丸い数字は、戦前のポーランドの全ユダヤ人の運命を考えてみても確認できる。戦前のポーランドには約310万人のユダヤ人が住んでいた。1939年のポーランド・キャンペーンの後、ドイツ軍は約180万人のポーランドのユダヤ人を支配下に置いた。バルバロッサ作戦により、さらに100万人のポーランドのユダヤ人がドイツ軍の支配下に入り、合計280万人のユダヤ人がいたという。そのうち生き残ったのは10万人である。ポーランドの歴史家チェスワフ・マダジュチクは、このうち約20万人がアインザッツグルッペンや警察部隊によって銃殺され、50万人がゲットーで死亡したと断定している。約200万人のポーランドのユダヤ人がドイツの収容所で殺された。マダジュチクは、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボル、ヘウムノで160万人から195万人のユダヤ人が殺されたと推定し、ヒルバーグは170万人と推定している。この170万人のうち、ドイツ、オランダ、チェコスロバキアからの犠牲者は10万人、残り(160万人)はポーランドからの犠牲者である。つまり、この時点で計算すると、(200万-160万=)40万人のポーランド系ユダヤ人が行方不明になっていることになる。マイダネクでは5万から9万5000人のポーランド系ユダヤ人が殺されたが、ここから、アウシュヴィッツでは少なくとも30万人、おそらく35万人のポーランド系ユダヤ人が死んだと結論することができる。

この数字は、ウェラーズが想定していたポーランド系ユダヤ人622,935人の約半分である。

11. ドイツ・オーストリア:コブレンツのドイツ連邦公文書館の調査によると、アウシュビッツで殺されたドイツ系ユダヤ人は38,574人。その中には、戦前にフランス、ベルギー、オランダに疎開していた者もおり、それらの国からアウシュビッツに送られた者も含まれていた。また、ポーランドやボヘミア・モラビア(テレージエンシュタット)に移送され、そこからの移送に含まれていた人もいた。これらの人々を二重に数えないためには、彼らの数(約1万5千人)を38,574人から差し引く必要がある。その結果、約23,000人のドイツ系ユダヤ人がドイツから直接アウシュビッツに移送されたのである。


12. ユーゴスラビア:ユーゴスラビアのユダヤ人のデータは混乱している。6万人から6万5千人のユーゴスラビアのユダヤ人が戦時中に殺された。彼らのほとんどはユーゴスラビアで、公開処刑やポグロム、あるいはクロアチア人やセルビア人のファシストが組織した収容所で殺された。これらの収容所の中には、ドイツ軍がユダヤ人集団をアウシュビッツに移送したところもあり、その数は約5,000人にも上った。1943年にイタリアが降伏した後、クロアチアに残っていた4,000人のユダヤ人は、1943年5月にアウシュビッツに送還された。1944年の小規模な輸送を加えると、ピーパー氏はその総数を約1万人と推定している。

これにより、アウシュヴィッツに強制移送されたユダヤ人の数は、修正後の小計で106万1000人となる。

最後に、他の強制収容所(テレージエンシュタットや上述の各国の通過収容所は含まれていない)からアウシュヴィッツに到着したユダヤ人が、合計で約3万4千人いた。これで、アウシュヴィッツに移送されたユダヤ人は最終的に109万5000人(110万人)となった102

これらの移送者のうち、何人が到着時に殺されたのだろうか。登録された収容者の数については正確なデータがある。登録番号は連続しており、一度発行された番号は二度と再発行されなかった。6つのカテゴリーの受刑者に対して、合計400,207の番号が発行された。

a) 一般番号制、外国人とユダヤ人に与えられる(1940年5月以降):男性202,499人、女性89,325人。合計:291,824人の収容者。
b) ユダヤ人、Aシリーズ(1944年5月以降):男性20,000人、女性29,354人。

合計:49,354人の収容者.
103

c) ユダヤ人、Bシリーズ(1944年5月以降):14,897人。
d) 再教育のための囚人 男性9,193人、女性1,993人。合計11,186人の収容者
e) ソ連軍捕虜:11,964人。合計11,964人の収容者
f) ロマ人:男性10,094人、女性10,888人。合計20,982人の収容者

合計:40万人の登録者数

bとcのグループは合計64,251人のユダヤ人収容者がいた。1942年3月以前に収容所に登録されていたユダヤ人はほとんどおらず、その日以降に帝国保安本部から送られてきた輸送列車にはすべてユダヤ人しか乗っていなかったという事実を考慮に入れた計算の結果、ピーパーは、一般番号制で登録されていた291,824名の収容者の半分弱がユダヤ人であるという結論に達した。これで、登録されたユダヤ人は約20万5千人(6万4千人+14万1千人)となった。

アウシュビッツに強制移送されたユダヤ人が109万5000人、収容所の収容者として登録されたのが20万5000人であることを考えると、到着した89万人のユダヤ人は登録されていないことになる。このうち、約25,000人がDurchgangs-Juden(通過ユダヤ人)であったと思われるので、865,000人のユダヤ人が到着時に殺されたという結論になる。

登録されていたユダヤ人の死亡率を調べるのはもっと難しい。登録された収容者のうち、19万人が他の強制収容所に移送されたことは明らかであり、そのほとんどが1945年1月の死の行進の後であった。1945年1月27日に赤軍によって解放された収容者は8,000人、解放された収容者は1,500人、脱走した収容者は500人であった。つまり、登録されている収容者の約半分に当たる19万9500人の収容者が確認されていることになる。残りの20万人は、収容所内で死亡したはずである。ピーパー氏によると、一般の収容者(主にポーランド人とユダヤ人)の死亡率は、収容所の期間中、約50%であったが、ソ連の捕虜とロマ人の死亡率はそれよりはるかに高かったという。その結果、ピーパー氏は、収容所内で死亡した登録ユダヤ人の数を10万人と概算した。その結果、アウシュビッツでのユダヤ人の総死亡者数は96万人となった。

この数に加えて、ゲシュタポ簡易裁判所によってアウシュビッツへの処刑に送られた未登録のポーランド人、登録されたポーランド人収容者、未登録のロマ人、登録されたロマ人、処刑に送られた未登録のソビエト人捕虜、登録されたソビエト人捕虜、その他(チェコ人、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人、ユーゴスラビア人、フランス人、ドイツ人、オーストリア人など)の被害者グループがある。

1. ユダヤ人:未登録者86万人、登録者10万人。合計96万人の犠牲者。
2. ポーランド人:未登録者1万人、登録者6万4千人。合計74,000人の犠牲者。
3. ロマ人:未登録2,000人、登録済み受刑者19,000人。合計21,000人の犠牲者。
4. ソ連の戦争捕虜:未登録3,000人、登録12,000人。合計15,000人の犠牲者。
5. その他:登録受刑者1万2千人。合計12,000人の犠牲者。
合計:1,082,000人の犠牲者。


つまり、ここで語られているように概ね20万人の登録囚人は生存していると読めることから、約130万人がアウシュヴィッツ収容所に送られ、うち約110万人が死亡した、ということになるのです。

2.250万人説(ヘス「アイヒマンから聞いた数字」)

アウシュヴィッツ収容所の犠牲者を250万人とする説は、現在ではほとんど目にすることはないのですが、ピーパーの110万人説が登場するまでは、割と標準的に語られていたそうです。250万人説は、アウシュヴィッツ収容所の初代司令官であり、最も長く司令官を務めた、ルドルフ・ヘスがニュルンベルク裁判で述べたとされるものです。この証言も、私の方で随分と前に翻訳公開しているので、以下にコピペします。


カウフマン博士:犠牲者の数について正確な数字を書くことを禁じられていたため、あなた自身が正確なメモを取っていなかったというのは本当ですか?
ヘス:はい、その通りです。
カウフマン博士:さらに、アイヒマンという名前の一人の男だけが、このことについてのメモを持っていたというのは正しいでしょうか、その男は、これらの人々を組織して集める仕事をしていました。
ヘス:はい。
カウフマン博士:アイヒマンがあなたに、アウシュビッツでは、合計で200万人以上のユダヤ人が破壊されたと言ったことは、さらに本当ですか?
ヘス:はい。


このようにまず、ヘスはカウフマン博士からの質問にある「200万人以上」を認め、続いて、裁判に先立って作成されていたヘスの宣誓供述書が読み上げられます。


アメン弁護士:最初のパラグラフを省略して第2パラグラフから始めます。

「私は1934年以来、強制収容所の管理に携わり、1938年までダッハウで勤務し、1938年から1940年5月1日までザクセンハウゼンの副官を務め、アウシュヴィッツの司令官に任命されました。私は1943年12月1日までアウシュヴィッツを指揮していましたが、そこでは少なくとも250万人の犠牲者がガスと焼却で処刑されて絶滅し、さらに少なくとも50万人が餓死と病気で死に、合計約300万人の死者が出たと推定されています。この数字は、捕虜としてアウシュビッツに送られた人の約7、8割を占め、残りは強制収容所の産業で奴隷労働に利用された人たちです。残りの犠牲者は、約10万人のドイツ人ユダヤ人と、オランダ、フランス、ベルギー、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ギリシャ、その他の国からの多数の市民(主にユダヤ人)でした。我々は1944年の夏にアウシュビッツでハンガリー人ユダヤ人だけで約40万人を処刑しました」

それはすべて真実ですか、証人?

ヘス:はい、そうです。


ヘスはこのように、アイヒマンから聞いた数字として250万人説を述べています。しかし細かい話ですが、餓死と病死による死者数50万人が一体どこから出てきた数字なのか、ヘスは裁判以外でも一切述べていません。250万人はアイヒマンから聞いた数字だとしても、50万人はヘスが想像で勝手に付け加えた数字のように思われます。もしかすると、宣誓供述書作成時に、尋問者がヘスに、「殺したのは250万人だと述べたが、他にも餓死や病死で死んだ人間がいるんじゃないのか?」などと問い詰めたのかもしれません。

ともかく、250万人説は、ヘスがアイヒマンから聞いた数字だとしており、回想録でも次のように述べています。

アウシュヴィッツで虐殺に供されたユダヤ人の数を私は、以前の訳問の際、二五〇万人と述べた。この数字は、アイヒマンによるもので、彼は、ベルリン包囲の直前、 ヒムラーに対する報告を命じられた時、私の上長・師団長グリュックスに、この数字を伝えている。アイヒマン、もしくは、ずっと彼の代理だったギュンターは、一般に 虐殺総数に関する手がかりを握っていた唯一の人間だった。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社学術文庫、pp.398-399

修正主義者は一般に、ルドルフ・ヘスは、ヘスを逮捕したイギリス軍によって拷問されて自白させられたので、嘘をついているとします。しかし、ソ連はニュルンベルク裁判に008-USSRとナンバリングされたアウシュヴィッツに関する調査報告書を提出して、犠牲者数を400万人だと主張しており、判決にはその数字は書かれなかったものの、起訴状には採用されました。つまり、ヘスの250万人説は、少なくともニュルンベルク裁判で主張された400万人説と矛盾していることになります。

この矛盾が、嘘の自白強要説では説明できないため、否定派はヘスの述べた250万人説はヘスの在任期間(1940年5月から1943年12月)だけのものであると主張することがあります。とすると、ヘスの在任期間は概ね、1300日、アウシュヴィッツ収容所の存続期間をざっと1700日とすると、期間で平均的に犠牲者が出たと仮定すれば、アウシュヴィッツの犠牲者は大雑把に大体400万人くらいにはなるわけです、計算上。

しかし、ヘスは明確に「ベルリン包囲の直前」に250万人とアイヒマンが報告していることを聞いたと述べており、その説も否定されます。その上、この250万人説をヘス自身は認めていません。それが次です。

3.113万人説、あるいは最大150万人説(ルドルフ・ヘス自身の推計)

さて、前項で引用した『アウシュヴィッツ収容所』のヘスの記述の続きには以下のように書かれています。

大規模な作戦のあったあとではいつも、虐殺者数推定の手がかりとなりうるようなすべての証拠は、ヒムラーの命令で焼却された。DI局長として、私は、自分の部署にある手がかりはすべて、自分で抹殺した。他の部署でも、同じことが行なわれた。 アイヒマンの話によれば、全国指導者(ヒムラー)のもとでも、国家保安本部でも、 一切の手がかりが抹殺されたとのことである。

なお手がかりになるものがあるとすれば、それはヒムラーの個人文書だけだろう。かりに怠慢によって、あちこちの部署に、なお個別的な記録断片や、電話や、電信が 残されていたとしても、総数については何の手がかりにもならないはずである。

私自身も、総数については全く知らず、また、それを再現できる手がかりは何もない。今でもわずかに覚えているのは、アイヒマンやその代理からくり返し命じられた、かなり大規模な作戦の時の数字だけである。

上シレジアと総監管区(註:総督府のこと)から・・・・・・二五万人
ドイツとテレジエンシュタットから・・・・・・一〇万人
オランダから・・・・・・九万五〇〇〇人
ベルギーから・・・・二万人
フランスから・・・・・一一万人
ギリシアから・・・・・六万五〇〇〇人
ハンガリーから・・・・・・四〇万人
スロヴァキアから・・・・・・九万人

もっと小規模の作戦の数はもう覚えていないが、上記の数とくらべれば、比較にならぬほど少ない。私としては、二五〇万人でも、まだ多く見つもりすぎていると考えている。虐殺の可能性には、アウシュヴィッツでも限界があった。元抑留者と(註:「の」の誤り)いう申告者数は、途方もない数にのぼっているが、それにはいかなる根拠も欠けている。

同書、pp.399-400

述べられている値を合計すると、113万人になります。では、ヘス自身の推計は113万人かというと、それは微妙に違ったようです。ニュルンベルク裁判で勾留中に、心理分析官のグスタフ・ギルバートに以下のように述べたとされているからです。

私が今でも覚えている大規模な作戦の合計を計算し、なおかつある程度の誤差を考慮すると、私の計算では、1941年の初めから1944年の終わりまでの期間に、最大で150万人の作戦が行われたことになる。しかし、これは私が計算したものであり、検証することはできない。
1946年4月24日ニュルンベルク(署名)ルドルフ・ヘス

イスラエル国、法務省、『アドルフ・アイヒマンの裁判:エルサレム地方裁判所における審理記録』全5巻(エルサレム:アイヒマン裁判出版信託、1992年)、第3巻、1005ページ以下。:ヴァンペルト報告書より

また、ヘスの推計合計値はピーパーの値によく一致しているので、正確な推計値に見えるかもしれませんが、実はそうとも言えません。本記事冒頭で紹介した、ピーパーの犠牲者数推計報告書には、犠牲者数の国別一覧はありませんが、移送者数の国別一覧表がありますので以下に示します。

移送者数の表であり、若干範囲も異なることから、ヘスの証言内容とは直接は比較しにくいのですが、例えば、ヘスはフランスから移送された犠牲者数を11万人と述べていますが、ピーパーの表では、移送者数は69,000人であり、ヘスの述べた犠牲者数よりも移送者数が4万1000人も少なくなってしまいます。スロヴァキアに至っては、ヘスは9万人としていますが、ピーパーの表では2万7000人であり、全く異なります。

なぜ細かい部分的な比較でこうした大きな違いがあるのかについて、その理由は分かりません。しかし、ピーパーの示した犠牲者総数110万人と、ヘスの示した113万人が非常に近いからと言って、少なくとも「正確に一致する」とは言えないと思います。せいぜい、概ね合っていると言える程度でしょう。

とは言え、修正主義者のいうように「ヘスは嘘の自白を強要された」説では、ソ連の主張する400万人説の約1/4しかないヘスの犠牲者数に関する証言は説明し得ないことは確かです。しかも、ヘスは最大でも150万人と述べていたという事実は、詳細が異なるとは言え、ピーパーの推計値の最大値であるらしい150万人とピタリ一致しており、少なくともヘスは出鱈目なことは言っていないように思われます。

4.400万人説(ソ連の戦争犯罪調査委員会による報告書:008-USSR)

アウシュヴィッツの犠牲者総数として、ニュルンベルク裁判にソ連が提出した008-USSRとナンバリングされた報告書に記載された数字が、400万人です。この008-USSRは、ネット上に一つだけそのテキストが公開されています。但し、公開した人物はカルロス・ポーターという修正主義者です。なんだか怪しい雰囲気もしますが、反修正主義者側からの異論は出てないようなので、おそらくテキストの内容自体は正しいのでしょう。

犠牲者数に関する部分については、以下で既に日本語訳を公開しています。


400万人以上が殺害された。
ドイツ軍は退却に先立ち、アウシュヴィッツで殺された人間の正確な数を全世界が知ることができるように、すべての文書を破棄して、アウシュヴィッツでの恐るべき犯罪の痕跡を払拭しようと慎重に試みた。しかし、収容所内に人命を抹殺するために建てられた巨大な施設、赤軍によって解放されたアウシュヴィッツの収容者の証言、200人の目撃者の証言、発見された文書、その他の重要な証拠は、ドイツの肉屋がアウシュヴィッツの収容所で何百万人もの人命を抹殺し、ガスをかけ、火葬したことを有罪にするのに十分であった。5つの火葬場だけでも、ドイツ人は52のレトルトで、設置以来、以下の数の囚人を絶滅させることができた。
24ヶ月間存在した第1火葬場では、毎月9,000体の遺体を燃やすことができたので、全期間で216,000体の遺体を燃やすことができた。
これに対応する数字は以下の通りである。
- 第2火葬場:19ヶ月、90,000体/月、合計1,710,000体。
- 第3火葬場:18ヶ月、90,000体/月、合計1,620,000体
- 第4火葬場:17ヶ月、45,000体/月、 合計 765,000体
- 第5火葬場:18ヶ月、45,000体 /月
5つの火葬場の合計収容人数は、月に279,000体、全期間で5,121,000体となっている。
ドイツ軍はまた、多くの遺体を焼却したので、アウシュヴィッツの人間を絶滅させるための施設の能力は、この数字が示唆するよりも、実際にははるかに高いと考えなければならない。しかし、個々の火葬場がフル稼働していなかったかもしれないことや、修理のために一部停止していたかもしれないことを考慮しても、技術委員会は、アウシュヴィッツ収容所が存在していた期間に、ドイツの死刑執行人が、ソ連、ポーランド、フランス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国々の市民を400万人以上殺害したことを立証している。


犠牲者数の推計を、火葬能力から推計しているわけですが、ともかくたったこれだけの根拠で犠牲者数を算定できるはずがありません。というか、これでは全然根拠が分かりません。しかしながら、この報告書をよく読むと、400万人の犠牲者数をソ連が主張するに至った理由が若干推測できます。上の部分よりもずっと前の方に以下のように書いてあるからです。

Written proof was found in the camp that 112 tons and 600 kg. of bone meal from human bodies were sent to the Strem company. The Germans also used hair cut off the heads of murdered women for industrial purposes. In Auschwitz camp, the Germans killed and burnt daily between 10,000 and 12,000 human beings daily, of whom 8,000 - 10,000 arrived by railway and were immediately killed, plus 2,000 - 3,000 camp inmates. Two former prisoners who were interrogated as witnesses -- SHYLOMA DRAGON (a resident of the small town of Zitovnin in the province of Warsaw), and GENRICH TAUBER, from the city of Krzanow in Poland), who worked in a special commando servicing the gas chambers and the crematoria -- testified as follows:
<日本語訳>
収容所では、人体から出た骨粉112トンと600kgがシュトレム社に送られたことを証明する書面が見つかった。ドイツ人はまた、殺害された女性の頭髪を産業用に使用した。アウシュヴィッツ収容所では、ドイツ軍は毎日1万人から1万2千人の人間を殺害し、焼却、そのうち8千人から1万人が鉄道で到着してすぐに殺され、さらに2千人から3千人の収容者がいた。証人として尋問された二人の元囚人--SHYLOMA DRAGON(ワルシャワ県の小さな町Zitovninの住人)と、ポーランドのクルザノフ市出身のGENRICH TAUBER(ガス室と火葬場の整備をする特別コマンドで働いていた)--は次のように証言している:

SHYLOMA DRAGONとはShlomo Dragon(シュロモ・ドラゴン)のことで、GENRICH TAUBERはHenryk  Tauber(ヘンリク・タウバー)のことだと考えられます、ていうかまず間違いないです。実はこの二人、犠牲者総数を「400万人」だと証言しているのです。

シュロモ・ドラゴン

他の国籍については、私は数字を知りませんし、アウシュビッツ収容所の火葬場で、個々の国や国の人が何人ガスを浴びたかは言えません。私は、バンカーと4つの火葬場の両方でガスを浴びた人の数は400万人を超えていたと思います。ゾンダーコマンドに雇われていた他の囚人も同じように考えていました。

https://note.com/ms2400/n/n599666083280

ヘンリク・タウバー

今日、火葬場やピットでガスをかけられて焼かれた人たちの正確な数を私は知ることができません。火葬場で働いていた人たちは密かに番号を書き留め、ガスを浴びた人たちに関する最も暴力的な事件を記録していました。彼らのノートは火葬場の近くの様々な場所に埋められていました。いくつかのノートは、ソビエト委員会がそこにいたときに回収され、持ち去られました。大多数はまだ土の中に隠されているはずで、探してみるのもいいかもしれません。埋まっていたものの中には、ガス室でガスを浴びた人の写真や、火葬場に運ばれてガスを浴びるために運ばれてきた輸送の写真などがあります。ゾンダーコマンドの一員としてアウシュビッツの火葬場で働いていた期間中、ガスを浴びた人の総数は約200万人と推測しています。アウシュビッツ滞在中、私は連れてこられる前にアウシュビッツの火葬場やバンカーで働いていた様々な囚人と話をする機会がありました。私が火葬場で働き始める前に、第1、第2バンカーと第1火葬場ではすでに約200万人がガス処理されていたと言われました。そのため、アウシュビッツでガスを浴びた人の総数は約400万人と推定しています。この数には、ユダヤ人とアーリア人の両方のヨーロッパの様々な国からの様々な輸送や、選抜の結果、ガス室に送られた収容所の囚人が含まれています。

https://note.com/ms2400/n/nf3704bf736d4

いずれも、ソ連による聴取以後のポーランドの法廷での証言(宣誓供述書)によるものですが、ドラゴンは「ゾンダーコマンドに雇われていた他の囚人も同じように考えていました」、タウバーは「私が火葬場で働き始める前に、第1、第2バンカーと第1火葬場ではすでに約200万人がガス処理されていたと言われました」などと述べていることから、おそらく収容所内の囚人の噂話としてそれら犠牲者数の数字が広まっていたのではないかと考えられます。

そして、ソ連はドラゴンやタウバーら元囚人から、400万人と聞いて、報告書にその数字を記載することにし、あたかも火葬能力から計算したように偽装したのではないかと思われます。008-USSRの調査期間はたったの2ヶ月ということらしいので、そんな短い期間で犠牲者数が算定できるわけがないので、適当にそれっぽく報告書を仕立て上げたのではないでしょうか。

しかし、ホロコースト全体のユダヤ人犠牲者数が概ね600万人であることは、戦後すぐぐらいには判明していたことであり、ソ連地域でのアインザッツグルッペンによユダヤ人大量殺戮や、ラインハルト作戦収容所での大量殺戮などのことを考えれば、アウシュヴィッツ単独で400万人を殺したなどということはあり得ない話です。ソ連はそんな簡単なことも考慮せずに、400万人などというあまりにも過大な犠牲者数を主張したことになり、いい加減過ぎると言えるでしょう。実際、ニュルンベルク裁判にも約570万人のユダヤ人の損失が報告されていたのですから、ソ連の400万人説を採用していたら辻褄があいません。だから判決に書かれなかったのではないかとすら思えます。

5.その他の説と、否定派の主張

他にも、アウシュヴィッツの犠牲者数の推計値はいくつも存在します。代表的な例を挙げると、ホロコースト史家として有名なラウル・ヒルバーグは100万人以下としています(『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』、柏書房、1997年、下巻、p.408)。ジェラルド・ライトリンガーは「75万人を超えることはない(1953年)」(ウォルター・ラカー編、『ホロコースト大事典』、柏書房、2003年、p.153)、ジョルジュ・ウェラーズは1,471,595人(Essai de détermination du nombre des morts à Auschwitz (Le Monde Juif, issue 112, 1983):プレサック『アウシュヴィッツガス室の技術と操作』、1989年、p.13)などです。

否定派は、現在、定説的に扱われているピーパーの110万人説について、「修正主義者の圧力に負けて400万人から下方修正したのだ!」と主張しますが、ヒルバーグは1961年に最初の主著で既に100万人としていたようであり、上記の通りライトリンガーが「75万人を超えない」としたのは1953年であって、修正主義者とは全く関係ないことがわかります。ピーパーの研究結果が広く認められるようになったのは、アウシュヴィッツの犠牲者数についての包括的かつ詳細な研究成果としてはほとんど初めてのものだったからであり、かつアウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者による発表だったからでしょう。

では否定派はというと、否定派は1990年前後頃のソ連邦崩壊か、ゴルバチョフのグラスノスチの影響下で、ソ連あるいはロシアの公文書館が西側研究者にも広く公開されて、その時に見つかったらしいアウシュヴィッツの死の本(Auschwitz Death Book)を使うことがほとんどのようです。これは、アウシュヴィッツの登録囚人についての死亡記録で、全期間を網羅してはいないのですが、概ね7万人弱の死亡記録をまとめたものであり、そこから類推して15万人弱程度の死亡者数を主張しているようです。もちろん、否定派以外の世界では、未登録囚人(囚人として登録すらされずに殺された)の死亡が大半であることはわかっているので、そのような馬鹿げた主張は否定派の出鱈目な世界だけでしか通用しません。

まとめ。

以上、非常にざっくりとしたアウシュヴィッツの犠牲者数に関する概括的な小論になりましたが、繰り返しますが、現在広く言われている110万人説は、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランチシェク・ピーパー博士の研究成果であって、そのうちユダヤ人は96万人であることを覚えておくといいかもです。プロの歴史学者ですら間違えるのですから、ちゃんと覚えておきましょう。いずれは、ピーパーの研究論文自体を翻訳してみたいとは思っていますが、翻訳してもまたわからないことだらけになるだけのようにも思えるので、今のところは翻訳するつもりはありません。以上。

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