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アウシュヴィッツの「絶滅の痕跡は発見できなかった」とする赤十字の報告書について。

最近(2024年2月現在)、X方面を中心に、昔の赤十字のある一つの報告書画像がかなりの量、拡散されています。私が最初に見たのは、2023年頃から目につくようになった活発にホロコースト否定を行うアカウントが現れ、そのアカウントが投稿したポストです。多分すでに何回もポストしてるようです。

この文書は見たことがありませんでした。国際赤十字を悪用したホロコースト否定論についてはいくつか記事を、Holocaust Controversiesブログサイトなどから翻訳して紹介したり、自分で記事を起こしたりしてきてはいるのですが、

上のものは知りませんでした。どうやら2023年11月頃に公開された文書のようで、アウシュヴィッツ博物館がこの文書について、facebookやX上で述べているので以下翻訳引用します。

アウシュビッツ記念館 / Muzeum Auschwitz
2023年11月29日
最近、赤十字国際委員会が、1944年11月にIRC代表モーリス・ロッセル博士がアウシュビッツを訪問した際の文書を公開した。以下はその歴史的背景である:

事実、モーリス・ロッセルは1944年9月27日にドイツの収容所アウシュビッツに到着した。彼の証言によると、彼は収容所の司令官(文書にはその名が記されていないので、リヒャルト・ベーア司令官か、その職務で呼ばれる他のSS高官であったと推測できる)と面会した。会議は収容所のSS管理部にある収容所長室で行われた。その建物は、鉄条網の外側、アウシュヴィッツI囚人収容所の一角にある。場所柄、遠目にはいくつかの収容区画と数人の囚人しか見えなかっただろう。収容所内に入ることは許されず、3キロメートル離れたアウシュヴィッツII・ビルケナウ収容所はもちろん、そこの火葬場地区を訪れることもできなかった。したがって、彼がそこにある大量殺戮施設を見ることができなかったのは明らかである。

モーリス・ロッセルは、1944年9月29日の報告の中で、6-8棟の赤レンガのバラックを見たと書いている(司令官室の近くから見ることができた)。彼が注目したのは、以前に偶然見かけた囚人たちの土気色で不健康そうな顔色だった。(この旅のレポートはこちら: https://www.icrc.org/.../auschwitz-rapport-cicr-1944.pdf

この時期、赤十字は、アウシュヴィッツに食糧援助を送ることに同意するようドイツ側に働きかけたが、他方では、IRCが囚人のために介入する能力を持っているかのような誤った印象を与えることになるとして、この問題に関して公式の立場をとることを拒否した(これは、この文書の最後の部分に書かれている)。

ホロコースト否定論者は、この文書から、「私たちの代表団の一人がこの収容所に入ることができた」という脈絡のない文章を引用している。もちろん、彼らは、ロッセルが実際に収容所そのものを見たわけでもなく、ビルケナウやそこでの絶滅施設の近くにいたわけでもないという事実を無視している。

https://www.facebook.com/auschwitzmemorial/posts/752203100284390/

赤十字のモーリス・ロッセル代表が司令官室以外のアウシュヴィッツの収容所の中には入れなかったことについては、すでに示したリンク以外でも、以下などでもすでに紹介済みです。

従って、収容所内に入ってないのですから、そこでユダヤ人絶滅が行われているかどうかなんてロッセル代表にわかるわけないので、こんな文書、ユダヤ人絶滅がなかった証拠にもなりようがありません。取り急ぎ、まずは当該文書を翻訳紹介します。よくわからない部分は省きますね。

赤十字国際委員会
戦争捕虜のための中央機関委員会

1944年11月22日、ジュネーブ。総領事特別宮殿

親愛なるマクレランド様:
赤十字国際委員会の代表団がアウシュビッツの収容所を訪問したかどうかというご質問に対する11月17日付のお手紙へのお返事ですが、以下の情報をお伝えすることができます:

我々の代表団の一人がこの収容所に入ることができたのは事実です。彼は、そこにいる民間人囚人のために可能な救援物資輸送計画を手配する目的で、司令官に接触しました。彼の印象によると、収容所は一種の「広範な強制収容所であり、被収容者は、収容所外での労働を含め、さまざまな種類の労働を強制されていた」。私たちの代表は、民間人囚人を絶滅するための施設の痕跡は発見できなかったと語りました。この事実は、私たちがすでに他の情報源から受け取っていた報告、すなわち、数ヶ月前から、アウシュヴィッツではそれ以上の絶滅は行なわれていなかったという報告を裏付けています。いずれにしても、ここはユダヤ人だけを収容した収容所ではありません。

私たちは、この訪問が行われたという事実を公表したくないので、この情報を個人的かつ内密にお伝えしているのです。この事実が世間に知れ渡れば、国際委員会がこの収容所の被拘禁者のために自由に介入できる手段を持っているという印象を与えかねないからです。さらに、抑留当局は、国際委員会の代表団がこの収容所を訪問したと主張したくなるかもしれません……

で、次に国際赤十字による上のfacebookの投稿中にある文書を以下で翻訳紹介します。この文書はフランス語で書かれており、印字の掠れや不明瞭な箇所もあるので、うまくテキストを取得できない部分もあるのですが、翻訳はそのままDeepLで出力されたものを示します。

ベルリン、1944年9月29日
特別支援および CCC 部門へのメモ
件名:K.Z.アウシュヴィッツ訪問
シュヴァルツェンベルク氏の希望で、私たちはオラニエンブルク、ラーヴェンスブリュック、そして最後にアウシュビッツを訪れた。
この最後のキャンプでは、テッシェンへの旅を利用したので、それほど大きな気晴らしにはならなかった。
テッシェンからアウシュヴィッツへと続く道路、正確にはポーランドの線路沿いのいたるところで、私たちは、K.Z.の縞模様の制服を着て、小さなKommandosを形成している、SSに脇を固められた男女の集団に出会った。これらのKommandosは、時には農業に従事し、時には鉱山で働いていた。
屋外で働いているにもかかわらず、彼らは皆、青白い顔をしていた。小銃を腕に抱えた看守は、トーテンコップフ師団のSS隊員だった。この「雰囲気」を説明しようとは思わない。このような囚人の列には、もはや個人は存在せず、数字だけが並んでいることは、誰でも容易に想像できる。K.Z.の各収容者は、男であれ女であれ、色あせた青とグレーの大きなストライプの入ったキャンバス地の服を着ている。胸と左腕に番号が記されている。女性はスモック、男性はジャケットとズボン。全員がバスクのベレー帽のようなケープをかぶる。一団が親衛隊の黒い旗や将校、女囚とすれ違うと、被抑留者たちは機械化されたような素早い身振りでベレー帽を脱ぎ、恐ろしいほど同期して髪を梳き直す。
髭を剃った頭は、遠くから見るとどれも驚くほどよく似ている。近くから見ると、素っ裸かベレー帽を額にまっすぐに乗せた、くたびれた薄い顔は驚くほど知的だ。頭を動かさず、好奇心に満ちた目でこちらを見つめている。
収容所自体からは、赤レンガ造りの大きなバラックが6、8棟見えるだけだった。ようやくアウシュビッツに到着した私たちは、必要な忍耐をした後、収容所の主刑務所であるK.Z.の中に案内された。収容所自体からは、6つか8つのとても大きな赤レンガのバラックしか見えなかった。(翻訳者註:アウシュヴィッツ主収容所には25程のバラックがあるので明らかにロッセルは司令官室以外の敷地には入っていないことがわかる)これらの建物はまるで新築のようで、すべての窓には鉄格子がはめ込まれ、収容所はコンクリートスラブの壁で囲まれていた。
指揮官へのインタビュー:オラニエンブルクやラーヴェンスブリュックと同様、ここの将校たちは友好的でありながら寡黙だ。一言一言が注意深く計算されており、わずかな緊張の瞬間が漏れることを恐れているのが感じられた。
1. 委員会から送られた荷物の分配は、すべてのK.Z.に有効な一般命令によって受け入れられ、規制さえされているようだった。
2.司令官の話では、保護拘禁者宛の小包は常に全部配達されたとのことであった。
3. 各国籍(フランス人、ベルギー人、それ以外の国籍は言及されていないが、その他にも数人いることは確か)ごとに信頼できる部下がいた。
4. すべてのユダヤ人被抑留者を担当するユダヤ人責任者がいた。
5. 信頼された人々とユダヤ人収容者は、集団的な積み荷を受け取ることができ、それを自由に配給した。不明な名前で収容所に到着した個人の小包は、その国籍の信頼できる人物に渡される。
6. 委員会が行った出荷の分配は、われわれには確かなことのように思われる。証拠はないが、司令官が、このような配給は定期的に行われており、窃盗があれば非常に厳しく処罰されると述べているのは、真実であるというのが私たちの印象である。
7. ジュネーブからの寄贈品を受け取っていない国籍の被抑留者が、ICRCから送られた物品を所持しているのを発見されることがある。これを防ぐために、司令官は、すべての小包を配ったらすぐに消費するように命じている。司令官はこの命令に満足した様子で、特定の国籍に送られた小包はその国籍内に厳重に保管されるべきだという私たちの意図もあるのかと私たちに尋ねた。私たちは肯定の返事をし、司令官に感謝すると同時に、これらの荷物の人道的、非政治的性質を指摘し、荷物の一部が他の被抑留者に渡されても重大なこととは考えない、と述べた。実際、必ずしも知的でない見張り兵に管理されると、すべてをすぐに食べろというこの命令は、新しい、非常に洗練された形の拷問に変わる可能性がある。この件に関して、ジュネーブから書簡を送り、委員会の立場を示すのがよいだろう。
アウシュヴィッツに収容された保護拘禁者の名前、ファーストネーム、番号、および彼らの国籍をすぐにお送りできると思う。実際、イギリス兵捕虜のあるコマンドは、アウシュヴィッツの鉱山で、これらの人々と接触しながら働いていた。私たちは、テシェンの主な連絡担当者に、アウシュヴィッツのKommandoの連絡担当者から、あらゆる有益な情報を得るよう、最大限の努力をするよう要請した。
ふとしたことから、テシェンの主なイギリス人の腹心の部下が、「シャワー室」について何か知っているかと私たちに尋ねてきた。K.Z.には、非常に近代的なシャワー室があり、そこで囚人が連続してガス処刑されたという噂があった。アウシュヴィッツの彼のKommandoを通じて、その信頼できるイギリス人は、この事実の確証を得ようとした。証明することは不可能であった。保護拘禁者自身は何も言わなかった。
アウシュビッツを去るとき、私たちは再び、この謎はまだ守られているという印象を受けた。しかし、私たちは、可能な限り多く、可能な限り迅速に出荷されることを確信している。もう一度言うが、送られたものは囚人たちに全て渡されると信じている。
[モーリス・ロッセルの署名]

というわけで、この当時の報告書を読んでも、ロッセル代表が司令官室以外の収容所敷地に入った、という風には全然読めません。戦後のインタビューで明らかなように、たった30−45分程度の訪問であり、火葬場(但しロッセル代表の訪問時には主収容所の火葬場のガス室は防空壕に改修されていたし、火葬炉も解体されていた)も見てません。当然ビルケナウなんて行ってもいません。

興味を引くのは、この報告書の最後には「シャワー室でのガス処刑の噂」について書かれていることであり、少々曖昧な表現ではあるものの、ロッセル自身は少なくともガス処刑がなかったとは思っていない様子であることです。ただ、彼の関心事は赤十字が収容所に送付していた小包の方だったようです。

さて今回の記事の主題にしているその赤十字の報告書ですが、どうも、ホロコースト否定派よりもむしろ、ネット上では2024年2月現在付近の世界での関心事であるイスラエルによるガザ地区侵攻に絡めて語られているケースの方が多いようです。イスラエルに賛同する側が、赤十字がガザ地区の病院でハマスの武器などを発見しなかったと報告したのと一緒だと。赤十字はホロコーストの時代から伝統的におかしいのではないか?というニュアンスです。

これは1944年の赤十字の文書で、ホロコーストの犯罪の証拠はないと述べている。
同じ赤十字 [パレスチナ赤十字] は2023年になっても、ハマスの大虐殺の証拠を発見していない。
赤十字は明らかに何かが間違っている。

現在のイスラエルに肯定的な人たち≒ホロコースト肯定派と見なすと、肯定派も否定派も、当該文書を互いに政治的に利用しようとする態度が一緒なのが興味深いところでもあります。

今回はそんなところですかね。

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