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たまたま見つけたホロコースト否定論への反論記事を翻訳してみた。

タイトルのまんまですが、ネットの海を漂っていると、ホロコースト関連のウェブサイトの数は実感として、

普通にホロコーストを扱っている(メチャクチャ多い)>>>ホロコースト否定論(少ないけどそこそこヒットする)>>>>>ホロコースト否定論を反論している(かなり少ない)

のような感じになります。日本なんかだと、私以外にホロコースト否定論に積極的に反論している人はいないんじゃないかと思うくらいですが、海外は少ないとは言え、それなりには存在します。なので、普段知ってるアンチ否定論サイト以外のサイトのアンチ否定論記事を見つけると、何故だか少し嬉しくなるというか、ほっとした気分になります。

ネットにアンチ否定論があろうがなかろうが、否定論信者は勝手に増えていくようなものなので実際にはアンチ活動がどれほど効果があるのかは全然わからないのですけど、それでも否定論の存在を知って、どうにかならないか? ってな気持ちになる人が存在するのは知ってます。

今回は、否定論に対してそんな風に感じて、否定論を執筆して公開した人の記事を翻訳紹介します。イスラエルのことを紹介するサイトのようですが。いろんなニュースの中の一つとして記事になっていたものです。いつものHCブログサイトほどには専門性は高くないものの、私が知らない情報もいくつか含まれていて、興味深く読めました。全部で四つに分かれた記事なのですが。一つにまとめたので24,000字くらいありますので、ご了解ください。

▼翻訳開始▼

嘘を否定する


ホロコースト否定派への反論 - 犠牲者の数は加算されない

2019年6月7日 イリナ・ローズ 

私はこのウェブサイトに出会い、そこに書かれている嘘を否定しようと再び決心した。何度も論破されていることは知っているが、まだ十分ではないようである。読者も私も疲れてしまうので、1つの記事にまとめることはできないが、何回かに分けてお届けする。

(註:否定派の主張)
1947年のワールド・アルマナックによると、1939年当時、世界のユダヤ人人口は15,688,259人だった。この数字は米国ユダヤ人委員会が提供したものである。次に、1948年2月22日付のユダヤ系新聞「ニューヨーク・タイムズ」によると、この年の世界のユダヤ人人口は「パレスチナに住む60~70万人に加えて、1,560~1,870万人に達する」と書かれている。600万人もの人々を失ったのに、戦時中にユダヤ人の人口がこれほど急増したのはなぜだろうか。

まず第一に、アルマナックの記録へのリンクは存在しない。第二に、アルマナックの記録で報告されている1939年の人口は、1938年の報告書から引用されたもので、出典はアメリカユダヤ人委員会(American Jewish Committee:AJC)の150ページで、その数は15,748,091人である。(たった一つのセンテンスで3つの間違い)

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(註:表タイトル部の翻訳)
国内外のユダヤ人、1938年
出典:米国ユダヤ人委員会および米国シナゴーグ評議会のユダヤ人統計局(H.S.リンフィールド所長)が、入手可能な最新データをもとに作成。
世界のユダヤ人(国別)
下の表の数字を作成したアメリカ・ユダヤ人委員会は、1939年の世界のユダヤ人人口を次のように推定した。ヨーロッパ、8,930,508人; アフリカ、598,339人; アジア、839,809人; オーストラレーシア、27,016人; 南北アメリカ、5,343,319人; 世界合計―15,748,091人

ニューヨーク・タイムズ紙の主張だが、タイムズ紙は後に、この記事の著者であるバルウィン氏からモーリス・コミンスキーに宛てたこの手紙の中で、彼らのデータは1948年の『世界年鑑』から来ていると説明している。

"親愛なるコミンスキー様。
"1月6日付のお問い合わせのお手紙、ありがとうございました。
"「この記事に掲載された世界のユダヤ人人口の数字は、『世界年鑑』の1948年版から得たものです。 その後、我々は米国ユダヤ人委員会やその他の情報源と照合し、前回の手紙であなたに指摘したように、戦時中にヒトラーがユダヤ人を大虐殺したことで、ユダヤ人の人口は今日ではおそらく1200万人にまで減少したというのが当局の見解であることを訂正で述べました(1948/2/26)。

では、1948年のワールドアルマナックの249ページを見てみよう。

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推定値は、1939年のアメリカのユダヤ人の推定値から取ったものだと書かれている。

1933年のアルマナックには、数字は推定値であると書かれている。否定派がページを持ってきても、すべて推定値であるという記述が省略されていたり、アルマナックがどこからそのデータを取ってきたのか言及していないこともある。

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ワールド・アルマナックが言っていたように、彼らは数字を推定し、1938年の国勢調査と自然成長を仮定した以外のデータを持っていなかった。

戦争が終わると新しい調査が行われた。より信頼性の高い数字は、1949年になってからワールド・アルマナックが入手できるようになった。アメリカのユダヤ人委員会が1947年の人口を11,266,600人と推定したと書かれている。

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(註:表タイトル部の翻訳)
ユダヤ人人口、米国および海外
出典 米国ユダヤ人委員会、米国ユダヤ人年鑑1947-48、および米国シナゴーグ評議会ユダヤ人統計局、H.S.リンフィールド所長による1948年の最新入手可能なデータを編集したもの。
世界のユダヤ人(国別)
アメリカ・ユダヤ人委員会は、1939-1947年の世界のユダヤ人人口を次のように推定している。

AJCのアーカイブスを見ると、以下の通り。

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(註:否定派の主張)
ヒトラーが台頭した後、第三帝国が最盛期に占領した地域に住んでいたユダヤ人はせいぜい400万人程度であった。しかし、1965年6月30日、西ドイツ政府は、ホロコーストを生き延びたユダヤ人「生存者」約337万5千人が賠償金を申請したと発表した。国際赤十字社は1946年に、登録されているユダヤ人収容所の収容者のうち、30万人以上は死亡していないと報告していたが、1984年12月31日までの監査では、ドイツの全強制収容所の全収容者の全原因による死亡登録数は28万2077人と記録されている。

400万人という数字は嘘であり、何の参考にもならない。1933年のヨーロッパにおける推定値は、上述のように9,494,363人である。1939年には8,939,608である。上記の数字から、占領されたすべての国で計算すると、上記の主張よりも多いことがわかる。

彼らが参照している赤十字社の文書は

(註:元記事の画像は消えている)

これは、バート・アロルセンにあるSonderstandesamt(特別登録局)という機関からの手紙である。この手紙は、この機関によって登録されたナチス強制収容所での死亡者のみに関するものである(収容所自体で公式に登録された死亡者数とは混同しないで欲しい)。英語の翻訳はオリジナルの文書の一部ではなく、間違っていることに注意して欲しい。"Anzahl "は "count"、"number "を意味し、書かれているような "Total Deaths "ではない。

いわゆる赤十字監査の主張をクリックすると、このような文書が表示される。

(註:元記事の画像は消えている)

これは赤十字の文書ではなく、前の文書がバート・アロルセンのSonderstandesamt(特別登録局)から来たのと同じ組織のものある。そしてまた、収容所での総死亡については言及されていない。

赤十字は、戦時中、公式の収容所統計を入手することはできなかった。また、そのような統計情報を集めようとしたこともない。それは、赤十字社の活動の範囲外だったからである。赤十字は、そのことを長年にわたって多くの声明で明らかにしてきた。例えば、以下のように。

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上記の1976年の手紙によると、ここで言及されている統計は「異なる出自の犠牲者の総数」ではなく、ドイツ人に限定されたものであり、この具体的なケースでは赤十字からの数字でさえないことがわかる。(B.バイラー=ガランダ『真実と「アウシュヴィッツの嘘」』148頁)。

例えば、"赤十字による「虚偽のプロパガンダ」の暴露, Patterns of Prejudice, 1978, vol.12, issue 2, p.11"を参照して欲しい。

したがって、ICRCは、自分たちがこの種の統計を発表したこともなければ、まとめたこともないという事実を明らかにしなければならないと考えています。ICRCの仕事は、戦争犠牲者を助けることであり、犠牲者を数えることではありません。いずれにしても、ICRCの代表者たちは、このような統計のためのデータをどのようにして入手したのでしょうか? 彼らが強制収容所に入ることができたのは、戦争末期になってからで、わずか数カ所に過ぎませんでした。[...]最近では、国際追跡サービスが収容所閉鎖時に発見した文書に基づいて記録した死亡者数という別の数字を使って、同じ宣伝を行っています。明らかにこの数字は、強制収容所での総死亡者数とは無関係です(プロパガンダの著者はそうではないように装っていますが)。第一に、ナチス政権が去る前にかなりの量の文書資料が破壊されてしまったこと、第二に、一般的に記録が残されていない絶滅収容所で起きたような多くの死が記録されなかったことです。

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1975年8月22日のICRCの手紙(A.スズマン、D.ダイヤモンド、『600万人が亡くなった: 真実は勝つ』、 1978, p.10にファクシミリで掲載)。

この冊子の著者が引用している数字は、私たちがこの種の情報を公表していないにもかかわらず、明らかに信憑性を持たせる目的で、私たちに誤って帰属させられた統計に基づいています。私たちの機関の主な目的は、武力紛争の犠牲者を支援することであり、調査機関としても統計局としても機能していません。

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1979.5.10のICRCの手紙

残念ながら、お求めの数字を提供することはできません。なぜなら、ICRCは戦争の犠牲者に関する統計をまとめようとしたことはなく、第三者が作成した統計の正確さを証明したこともないからです。実際、ICRCの基本的な目的は、武力紛争の犠牲者を助けることであり、調査委員会や統計サービスの役割を果たすことではありません。

この赤十字社の記事には、「赤十字社はすべてのキャンプにアクセスできなかった」と明記されている。

1944年9月27日、ロッセル博士はアウシュビッツに行った。そこで彼は収容所の司令官と話をしたが、収容所内に入ることは許可されなかった。

(註:否定派の主張)
興味深いことに、ユダヤ人の本当の「聖書」であるタルムードでは ハドリアヌス帝の時代に80万人のユダヤ人がローマ人によって虐殺されたと主張している。

ユダヤ教の聖書は「Tanakh」と呼ばれ、Tora-「モーセの5つの書」Neviim-「預言者」Ktuvim-「著述」の略である。

タルムードはラビによって書かれたもので、タナックとそれに対する彼らの解釈、そしてタナック以降の歴史に基づいている。ユダヤ人はタナックに従っており、これがユダヤ教の聖書である。そうでないと言う人は、明らかな嘘つきである。

800,000人については、申し訳ないが参考にならなかった。

(註:否定派の主張)
1945年、ユダヤ人が所有するニューヨーク・タイムズ紙に、ユダヤ人作家として有名なC.L.サルツバーガーの記事が掲載された。それによると、400万人のユダヤ人が「アウシュビッツのガス室で殺された」という数字を出したのはソビエトロシアであると公言している。このように、今日では「福音の真実」として受け入れられているこれらの数字を最初に生み出したのは、ユダヤ・共産主義者とユダヤ人だったのである。

アウシュビッツ解放から数ヵ月後の1945年5月12日、ソ連の国家委員会が「400万人を下らない人々が殺害された」と報告したことに由来する。この数字は、1980年代までアウシュビッツ博物館で使用されていたが、当時の共産主義国ポーランドでは、プロパガンダのために敵の残虐行為を誇張していた。その後、欧米の学者がアウシュビッツで400万人が死んだと主張したことはなく、もっと少なかったことを証明するものがもたらされたため、この数字は減らされた。ですから、これらの数字は今日では受け入れられていない

註:翻訳者としては、欧米の論者がよく言う「400万人説はソ連が誇張していた」説は採りません。理由は、「誇張していた」という事実の記録は証言すらどこにもないからなのと、単にアウシュヴィッツのゾンダーコマンド生存者の証言数値にあるから、単にそれを採用しただけの可能性が高いと考えるからです。証言のうち大きい数を採用した可能性はなきにしもあらずですが、単にちゃんと調べていないだけだと思います。ただし、共産圏は言論の自由度が低いので、400万人をいじることは出来なかったのだと思います。

ユダヤ共産主義者と、この数字の元になったユダヤ人についての嘘は、もう一度論破する価値もないナンセンスなものである。しかし、一つだけ例を挙げてみよう。

1945年11月、第三帝国のオーストリア出身の官僚であり、歴史学者として親衛隊の要職を歴任したヴィルヘルム・ヘットル博士は、ナチスの戦争犯罪者として告発されたニュルンベルク裁判で検察側の証言を行った。その後、1961年にイスラエルで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判でも、オーストリアの法廷から宣誓して、検察側からの長時間の質問に答えている。

いずれの場合も、1944年8月にブダペストで、ユダヤ人虐殺の後方支援の責任者であるSSの幹部アイヒマンと交わした会話の内容を語っている。1961年の証言では、ヘットルは「アイヒマンは...自分の情報によると、それまでに約600万人のユダヤ人が死んだと言った。400万人が絶滅収容所で死に、残りの200万人が作戦部隊による銃撃や病気などの他の原因で死んだ」と回想している。

ヘットルは400万人をロシアのように1つの収容所だけでなく、絶滅収容所にも使った。

なお(2019年6月8日編集)共産党はアウシュビッツの犠牲者がすべてユダヤ人であると主張したことはなく、ソ連のアウシュビッツ報告書にもそのことは書かれておらず、「ソ連、ポーランド、フランス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国の400万人以上の市民」というオブラートに包まれた記述があったが、それだけである。

(註:否定派の主張)
(ベルゲン・ベルゼンの大収容所では、1934年から1945年までに約5万人が亡くなったと言われている。この数字は誇張されていると考えられている

ホロコースト博物館に記載されているように、ベルゲン・ベルゼンは1943年4月に設立された。(どうして1934年からと主張できるのか?)

ブリタニカにはこう書かれている。
「ベルゲン・ベルゼンにはガス室はありませんでしたが、1945年1月から4月中旬までの間に、3万5千人以上の人々が飢餓、過労、病気、そして戦争末期には、ドイツのどの収容所よりも汚く、腐りきった生活環境がもたらしたチフスの流行によって亡くなりました。
1945年4月15日にイギリス軍が収容所を解放してからの数週間で、約28,000人の囚人が病気やその他の原因で亡くなりました。」

Sources: https://www.h-ref.de
Nizkor.org
https://holocaustcontroversies.blogspot.com

▲翻訳終了▲

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ホロコースト否定派への反論:ヒムラー ―「あらゆる犠牲を払ってでも死を減らす」

2019年6月7日 イリナ・ローズ

(否定派の主張)
強制収容所の責任者であるハインリッヒ・ヒムラーは、1942年12月28日、「強制収容所の死亡率を何としても下げなければならない」という命令を出した(ライトリンガー、『最終解決』)。収容所では、ノミや体のシラミによって広がる致命的なチフスが流行していた。胃痛、高熱、やせ細り、すぐに死に至ります。収容所はすべて工場であり、労働者がいなくなると戦争生産に支障をきたす。収容所の検査官であるリヒャルト・グリュックスは、1943年1月20日のヒムラーの命令に対して、「死亡率を下げるためにあらゆる手段を用いる」と回答した(ニュルンベルク裁判文書第1523号)。

ハインリッヒ・ヒムラーは、ナチス党(NSDAP)の主要メンバーであり、親衛隊(SS)の全国指導者であった。ヒムラーはナチスドイツで最も強力な権力者の一人であり、ホロコーストの主要な立役者でもあった。

1944年11月3日、ヒムラーは長年の友人である元スイス連邦大統領のジャン・マリー・ミュジー博士と出会った。

ミュジーは、1930年代からヒムラーと知り合いで、親ドイツ派の新聞「ラ・ジューヌ・スイス」の発行人を務めていた。ミュジーは1930年代からヒムラーと知り合い、親独新聞「ラ・ジューヌ・スイス」を発行していた。しかし、1944年になると、彼は立場を逆転させ、出版を中止し、ナチスは犯罪者であり、殺人者であると決めつけていた。

1943年10月4日、ヒムラー全国指導者ポーゼンSS幹部を集めて行った演説一つ

Ich meine jetzt die “Judenevakuierung”, die Ausrottung des jüdischen Volkes. Es gehört zu den Dingen, die man leicht ausspricht. – ‚Das jüdische Volk wird ausgerottet’, sagt ein jeder Parteigenosse‚ ‘ganz klar, steht in unserem Programm, Ausschaltung der Juden, Ausrottung, machen wir.
(翻訳)
今、私が話しているのは、「ユダヤ人の疎開」、ユダヤ人の絶滅についてです。これは、簡単に言えることの一つです。ユダヤ人は絶滅させられている」と党員の誰もが言います。「完全に明確だ、我々のプログラムに書かれている、ユダヤ人の排除、絶滅、我々はそれを実行する」と。

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1943年10月4日に行われたヒムラーの演説の最終版のオリジナルページには、ヒムラー自身の許可を得て、ナチス国家の政策であるユダヤ人の絶滅が実行されていることを、SS全国指導者が聴衆に向けて発言している。

ハインリッヒ・ミューラーは、ドイツの高位のSS、警察官である。彼はナチスドイツの政治的秘密国家警察であるゲシュタポの長官となった。ミュラーはホロコーストの計画と実行に関わっていた。
ニュルンベルク裁判の文書No.1523には、上記の主張にある名前ではなく、彼の名前が記載されているので、この手紙は彼が書いたものである可能性がある。また、この文書は、ユダヤ人ではなく、ポーランド人の囚人について述べている。(そう、これらの収容所にはユダヤ人だけがいたわけではないのである、既知の事実だ)。

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(否定派の主張)
1943年4月10日、収容所の経済管理室の責任者であるオズワルド・ポールは、結核患者が収容所に送られていたために「衝撃的なほど高い死亡率」になったとする書簡を発表した(ニュルンベルク文書)。その後、1943年9月30日、ポールは、収容所の死亡率が1942年7月の8.5%から1943年6月の2.8%に減少したことを示すことができた。

収容所にいた人々は、ガスや大量殺戮だけでなく、劣悪な衛生状態、飢餓、過酷な労働条件などが原因で死亡したことは周知の事実であるにもかかわらず、この文書ではさまざまな病気について述べられている。
2.8%に減少したという2つ目の主張については、参考文献を見つけることができなかった。

(否定派の主張)
ドイツのSSは1943年、ブッヘンヴァルト司令官のカール・コッホを、一部の囚人を虐待し、処刑したとして逮捕した。調査の結果、コッホはSS判事のコンラッド・モルゲンによって有罪とされ、銃殺された。これは「絶滅」を意味しているのだろうか?

カールは、1943年8月に偽造、横領、公務員脅迫などの容疑で逮捕された。囚人を殺したという理由ではなく、誰もユダヤ人だとは言っていない。

(否定派の主張)
戦後、ホロコースト疑惑が急速に高まる中、ニューヨークとパリのユダヤ人指導者からなる委員会が、ワルシャワの共産党指導者と会合を持った。そこで彼らは、「戦争犯罪・戦犯調査委員会」を設立した。ガス室はすべてポーランドにあると発表されたのはこの会議の後だった。

戦争犯罪を調査するための委員会を設立する会議のどこが悪いのか? ユダヤ人の命は重要ではなく、罪を犯した人は裁かれるべきではない、ということか?

結論は一つ。根拠のない主張に見られるのは、嘘と憎しみである。

https://www.yadvashem.org/

https://nuremberg.law.harvard.edu/

▲翻訳終了▲

▼翻訳開始▼

ホロコースト否定派への反論 - ガス室

2019年6月15日 イリナ・ローズ

(否定派の主張)
1945年には、ポーランド、ドイツ、オーストリア、アルザスのすべての強制収容所にガス死刑場が存在することが発表された。

誰が発表したのか? どこで? ソースは?

(否定派の主張)
ドイツ人は几帳面に記録を残す人たちであるが、ガス室の建設を指示したものは一つもなく、設計図もなく、ガス室やガスで処理された犠牲者の写真もない。ナチスの戦争犯罪者とされる人々の調査は何千回も行われ、何百回も裁判が行われたが、実際のガス処刑に関与したと非難された人は一人もいなかった。どちらの側からも、一人の人間がガス処刑されたのを見たという信頼できる目撃者は現れていないが、1万回以上の大量ガス処刑があったとされている。

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1941年10月14日に作成されたビルケナウ収容所の設計図。これは、アウシュヴィッツ中央建設局(Bauleitung)が操業開始から2週間以内に作成したビルケナウの2番目の青写真である。この設計図は、1940年6月にアウシュビッツに到着した最初の囚人の一人であるポーランド人囚人番号471のアルフレッド・プルジベルスキが作成したものである。プルジベルスキは生き残り、1972年にウィーンで行われた中央建設局の幹部2人の裁判で証言した。(ヤド・ヴァシェム文書館)

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1942年4月30日付のアウシュヴィッツIの拡張設計図、赤で示された収容所群の巨大な本部を含む。活動の中心がアウシュヴィッツからビルケナウに移ったため、この拡張は実行されなかった。(ヤド・ヴァシェム文書館)

ビルケナウの建設は1941年10月に始まった。 この建物は、1941年10月1日に設立された「上シレジアのアウシュヴィッツの武装親衛隊と警察の中央建築局」が監督しており、親衛隊少佐カール・ビショフが長を務めていた。 建築計画の作成は、ヴィヒマン上級曹長が率いる青写真室が担当し、建築や工学を学んだSS将校と、適切な技術訓練を受けた数名の囚人が作成した。建築局で事務員として働いていた囚人のヘルタ・ソスウィンスキが回想している。

バウライトゥング(建築局)の仕事は、アウシュビッツ内の居住区、医療施設、火葬場、ガス室...など、すべての建築工事を総合的に計画することでした。バウライトゥングは計画だけでなく、労働力の確保、資材の割り当て、監督にも責任を負っていました。 計画に携わったSS隊員は、必要に応じて建築現場でも活躍した。

この収容所は、沼地のような露出した地形に建てられていた。 最終的には20万人の囚人を収容することを目標に、段階的に建設が進められた。 初期の段階では、土地の準備や建設のための労働力のほとんどは、ドイツ人の監督下で働いていた何千人ものソ連人捕虜によって行われた。 初期の段階では、準備作業や建設作業のほとんどを、ドイツ軍の監視下で働いていた何千人ものソ連軍捕虜が行っていた。 劣悪な労働条件で、特に冬場の死亡率は高かったという。ポーランド人囚人のアルフレッド・チェスワフ・ジィビルスキーはこう振り返る。

基礎を掘って作る過程で、囚人たちは秋、冬、霜の中で、水の中に腰まで浸かって立って作業しました。 ビルケナウの女子刑務所の女性囚人たちも同じ条件で働いていました。 乾いていて建設に適した地面に建てることができたにもかかわらず、濡れた地面に建てるという建築場所の選択は、プロによる選択...建設に従事した囚人と建物に住む人々を絶滅させるためのものだったと私は確信しています。

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Crematorium2の南側の排水溝を掘る作業(ヤド・ヴァシェム文書館、157/265)

ビルケナウの建物は、大収容所のレンガ造りの建物とは異なり、人間の居住には適さない画一的な木造の小屋がかなりの数を占めていた。排水設備もなければ、厳しい寒さをしのぐ断熱材もない。当初は1棟550人程度の収容を想定していたが、実際にはもっと多くの囚人が詰め込まれていた。小屋の中は非常に混雑していたため、言葉にならないほどの衛生状態で、そこに住む囚人たちの死亡率も高かった。 元囚人が語るビルケナウの小屋内の様子。

雨の日には、水はけの悪さから、土の詰まった小屋の床が沼のようになってしまう。

この小屋はもともと500人を収容する予定だった。 建物管理者のデジャコさんが、3段目の寝台を作るように命じたことで、収容人数が800~1000人に増え、1段の寝台に4人どころか10~12人の囚人が横たわることもしばしばだった...

特に冬場の生活環境は厳しく、その結果、多くの囚人が病気になり、死亡した。 著名な作家であるローマン・フリスターは、冬場の状況について次のように書いている。

自然の理にかなった季節の変化は、変わらない法則の存在を私たちに気づかせてくれる。夏が終わり、秋が来て、冬が始まり、霜のムチで私たちに襲いかかる。心地よい暖かさの工場とは違い、キャンプの小屋は暖房が効いていない。その中のヒーターをテーブルとして使用していた。夕方の点呼の後、それは永遠に、いや正確にはドイツ人がうんざりするまで続いたが、私たちが暖を取れる場所はどこにもなかった。服を脱がずに、時には靴を脱がずに眠りにつく。夜も苦しいが、私にとっては起きている時が一番苦しかった。彼らは私に選択を迫った。毎朝5時にブロックカエルトの笛で起こされた時 私はもう一度 闘うのか、諦めるのかを決めなければならなかった

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ビルケナウに550人ほどの囚人を収容するブロックを建設するための設計図。1941年10月8日の日付で、アウシュビッツで建設を担当していたカール・ビショフが署名している。1週間後、ビルケナウの収容人数を増やすことが決定された後、ビショフは同じ設計図の別のコピーの550という数字を消し、744という数字に変えている。(ヤド・バシェム文書館)

ビルケナウの建設が始まって間もなく、ビルケナウの名称を変更し、絶滅収容所にすることが決定された。 1941年の秋、基幹収容所でガスを使った最初の実験が行われ、その成功を受けて、SSはビルケナウに4つの常設施設を建設することを決定したが、その目的は特にガスで人を殺すことであった。建設は1942年に開始され、SSの監督のもと、トプフ・ウント・ゼーネ社が指揮をとった。 施設が完成するまでの応急処置として、ドイツ人は既存の建物を改造して、収容所の隣に2つの仮設ガス室を建てた。

註:これは通説とは異なります。通説では、ビルケナウの四つの火葬場のうちいわゆるクレマトリウムⅡとⅢは、最初は死体安置所及び火葬場として設計計画され、1942年12月頃までに死体安置所の一つをガス室にすることに変更されたとされています。これは設計図の変化(死体を安置所に下ろすスロープがなくなったり死体安置所(後のガス室)の扉が内開きから外開きの一枚ドアに変更される)でわかります。ⅣとⅤについては今のところは私には知識がありませんが、こちらについては計画時期が遅く、最初からガス室が設定されていたと思われますが、プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』の翻訳を中途でやめてしまったので、よくわかりません(追記:その後、翻訳は完成しています)。ともかく、上記説には全く根拠が示されていないので、どうしてそんな解釈になるのかよくわかりません。

4つの絶滅施設は1943年に操業を開始した。 それぞれの施設には、地下に脱衣所とガス室があり、殺された人の体を焼却するための火葬場もあった。 これらの施設により、ユダヤ人の殺害ははるかに効率的なプロセスとなった。

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ビルケナウのクレマトリウムIIの初期の設計図(1941年11月)。この設計図には、脱衣室とガス室を含む構造物の地下階の概要が示されている。計画書では、この2つのエリアをまとめて「死体の部屋(Leichenkeller)」と呼んでいる。計画書には、SS建設部門のC事務グループ長であるハンス・カムラー親衛隊長の署名がある。(ヤド・ヴァシェム文書館)

SS隊員のペリー・ブロードは、彼が目撃したガスによる殺人事件の一例を語っている。

多くの犠牲者は、(ガス室の)天井にある6つの穴からカバーが外されていることに気づいた。 穴の一つにガスマスクを被った頭が現れた時には、恐怖のあまり悲鳴を上げた。「消毒人」たちの作業が始まった.... ハンマーとノミを使って、「害獣駆除用ザイクロン 注意!毒物です。訓練を受けた者以外は開けてはならない」と書かれた何の変哲もない缶を開けていく。缶を開けるとすぐに中身を穴に放り込み、すぐに蓋をする......2分ほどすると、悲鳴は収まり、くぐもったうめき声だけが聞こえるようになった。犠牲者のほとんどはすでに意識を失っていた。 さらに2分が経過すると、グラブナー(SSの1人)は時計を見るのをやめた。絶対的な静寂が訪れたのである。

註:以上の引用のもっと長い抜粋はこちらにあります。その抜粋にも明確には書いていないのですが、記述されている状況からこれは基幹収容所のクレマトリウムⅠの記述だと思われます。ただし、クレマトリウムⅠの天井のチクロン投下穴は五つだと思われます

1944年の春から夏にかけて、約43万人のハンガリー系ユダヤ人が収容所に送還され、その後、送還されたユダヤ人の大半が殺害されたことで、絶滅の危機がピークに達した。

この時期、絶滅装置へのプレッシャーは非常に大きく、ドイツは1942年に稼働していた間に合わせのガス室も再稼働させた。

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アウシュビッツの主要な収容所や絶滅施設の比較的正確な図面を含む具体的な情報が西側に伝わったのは、1944年の夏、ヴルバ・ヴェッツラー報告の形でであった。 ルドルフ・ヴルバとアルフレッド・ウェツラーは、1944年4月にアウシュビッツから脱走したスロバキア人ユダヤ人囚人である。 彼らは、アウシュビッツで何が起こっているかについて包括的な報告書を作成し、それを地下ルートで西側に送った。

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ヴルバ・ヴェッツラー報告書に掲載されている基幹収容所のスケッチ(周囲の監視塔の一つを含む)

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ヴルバ・ヴェツラー報告書に掲載された、4つの絶滅施設(実際にはIIからVまでの番号が付けられていた)を含むビルケナウの全体的なスケッチ

アウシュビッツの複合施設の建設工事は1944年11月まで続けられた。 この時点で、ヒムラーはそこでのユダヤ人の絶滅を中止する命令を出し、ドイツは犯罪の痕跡をすべて隠すために、絶滅施設の解体を始めた。
その後、ドイツはビルケナウのさらなる部分を解体していったが、1945年1月27日に赤軍が到着したときには、ビルケナウ収容所のほとんどがそのままの状態で残っていた。

ドイツはソ連が到着する少し前に収容所の資料を焼却したが、別の建物に保管されていた建設資料は見逃していた。その結果、ソ連人は建設の設計図を含むかなりの量の技術文書を発見したのである。

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アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が建設された、ソラ川とヴィスワ川の間の地域の地図。1941年2月に描かれたもの。基幹収容所と、アウシュビッツの町(オシフィエンチム)を含む様々な村の位置だけが、もともと地図に記されていた。1941年11月11日には、ビルケナウのスケッチが地図に加えられた。このスケッチには、収容所に通じる線路の輪郭などが描かれている。線路が敷設されたのは1944年春のことで、この地図に描かれているのとは別のルートだった。(ヤド・ヴァシェム文書館)

これらの文書は、冷戦終了後、研究者や一般の人々が入手できるようになった。 アウシュビッツの建設設計図は、ナチスが絶滅させるために行った大規模な建築作業が、どのようにして中心的な役割を果たしたかを示す貴重な資料である。 アウシュビッツの建設設計図は、大規模な建築作業がナチスの絶滅政策の中心的な手段として機能していたことを示す驚異的な資料となっている。

もっとたくさんの体験談があるが、残念ながら1つの記事には収まりきらないので、すべてを紹介することは出来ない。

元SS軍曹のオスカー・グレーニング氏は、ドイツの裁判所で、自分が看守を務めたアウシュビッツ死刑場で、何千人ものユダヤ人が牛車から直接ガス室に連れて行かれるのを見守ったと語った。

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オスカー・グレーニング(Oskar Gröning、1921年6月10日 - 2018年3月9日)[1]は、アウシュヴィッツ強制収容所に配置されていたドイツの親衛隊伍長である。囚人から奪ったお金の数え方や仕分けを担当し、到着した囚人の個人所有物を管理していた。また、収容所内での大量殺戮を目撃したこともあったという。1944年10月にアウシュビッツから戦闘部隊に移された後、戦争末期にイギリスに投降したが、SSでの彼の役割は発見されなかった。その後、捕虜としてイギリスに移送され、農場労働者として働いていた。

ドイツに戻った彼は、アウシュビッツでのことを話したくないと思いながら、普通の生活を送っていた。しかし、それから40年以上経ってホロコースト否定論を知った彼は、アウシュビッツでの活動を公表することにした。彼は、自分が目撃した出来事や、自分が信奉していたイデオロギーを否定する人々を率直に批判した。グレニングは、SS隊員としての経験を公にすることを厭わないドイツ人として注目された。特に、彼は個人的な利益のためにガス室の犠牲者から宝石や通貨を盗んだことを告白している。

2014年9月、グレーニングはアウシュビッツ強制収容所での役割について、30万件の殺人の共犯者としてドイツの検察当局に起訴された。彼の裁判は、93歳の彼がまだ裁判を受けるのに適していると裁判所が判断した後、2015年4月に始まった。裁判はドイツのリューネブルクで行われた。2015年7月15日、彼は故意に大量殺人を助長した罪で有罪となり、4年の禁固刑を宣告された[2]。 実刑判決に対する何度もの控訴が不成功に終わった後、グレーニングは2018年3月9日、刑期に入る前に入院中に死亡した[3]。
Wikipediaより)

彼は、ユダヤ人を満載した牛車がアウシュビッツ死のキャンプに運ばれ、人々は持ち物を剥ぎ取られ、そしてほとんどの人々が直接ガス室に導かれた様子を冷酷に描写した。93歳の彼は、30万件の殺人共犯の罪で起訴された。

彼は、荷物の中に赤ちゃんが捨てられているのを仲間の警備員が発見し、泣き止ませるためにトラックに叩きつけたことを思い出した。その後、彼は転属を希望したが叶わず、ナチス占領下のポーランドの収容所での仕事をこなすために、ウォッカを大量に飲むようになったという。

その間、多くの列車が到着していたため、最初の列車が「処理」されるまで、2本の列車がドアを閉めて待たなければならないこともしばしばあった、とグレーニングはリューネブルグの州裁判所で証言した。

彼は、アウシュビッツIのセクションに配属されることが多かったが、ビルケナウのランプを3回警備し、そのうち1回は24時間勤務という多忙なものだったという。ビルケナウには主なガス室があった。

「ガス室や火葬場の容量はかなり限られていました。誰かが24時間で5,000人を処理したと言っていましたが、私はそれを確認していません。知らなかったんです。秩序のために、私たちは列車1が完全に処理されて終わるまで待っていました」と彼は言った。

ルドルフ・ヘスは、1941年半ばから1943年12月までアウシュヴィッツ・ビルケナウの司令官を務め、その後、全収容所を監督する管理局に昇進した。 1944年5月初旬、ヘスは一時的にアウシュビッツ・ビルケナウに戻り、ハンガリー行動で再び指揮を執った。戦後、ヘスは最終解決策に関与したとして逮捕され、裁判にかけられ、有罪判決を受け、死刑になった。処刑される前に書いた回想録には、こう書かれている。 「本来ならば、ヒムラーの命令により、(アウシュビッツ・ビルケナウ)に移送されたユダヤ人は、例外なくすべて処分されるはずだった。」しかし、軍需産業の労働力を必要としていたため、1942年までにナチスは健常なユダヤ人を労働者として温存していた。ヘスによると「鉄道車両は次々と降ろされていった。ユダヤ人は荷物を預けた後、一人ずつSSの医師の前を通らなければならず、医師は彼らの体力を判断しながら行進した。体力があると判断された者は、すぐに小グループに分かれて収容所に連れて行かれた。ガス処刑に選ばれたユダヤ人は、できるだけ静かに火葬場に連れて行かれた」。労働者に選ばれた者だけが番号を与えられ、ガス室に送られたユダヤ人には番号が与えられなかった。

アウシュビッツ・ビルケナウのゲシュタポに所属していたペリー・ブロードは、奴隷労働に選ばれた人たちが、選ばれた時点でどのような扱いを受けたかを語っている。「かつてはファッショナブルで生き生きとした女性や少女だったが、今では頭を刈られ、左前腕に囚人番号の刺青を入れられ、袋状の青と白のストライプのスモックを着せられていた」。これらの囚人は、死の帳に計上されている人たちである。企業の在庫のように、これらの囚人は今や第三帝国の財産である。そのため、在庫のように追跡する必要があり、いつでもその数と場所を確認することができた。この帳簿には、そのままガス室に送られた90万人のユダヤ人男性、女性、子供の記録はない。

ブロードはアウシュヴィッツ・ビルケナウのゲシュタポ事務所で働いていたので、死の帳票の作成を含む記録管理のプロセスについて貴重な情報を持っていた。ブロードはこう述べている。「過去の輸送に関する情報を帝国主席保安官事務所から求められても、原則として何も知ることができなかった。過去の輸送リストは破棄されていた。アウシュヴィッツでは、ある人物の運命について、誰も何も知ることが出来なかった...。. アウシュヴィッツから避難し、すべての書類と記録を焼却した後の現在、何百万人もの人々の運命はまったくわからなくなっている。輸送機関の到着リストはもう存在していない。」

スタニスワフ・ヤンコウスキーは、1943年7月、アウシュヴィッツ・ビルケナウのクレマ/ガス室5のゾンダーコマンドのメンバーであった。ヤンコウスキーは戦後、ロシア当局に供述している。「ここで強調しておきたいのは、様々な種類の仕事をすることを運命づけられた人物だけが、囚人の戦力登録に含まれ、収容所番号を与えられていたということである。収容所番号は与えられず、登録も行われなかった......輸送列車から直接ガスの中に入っていったすべての人々の場合には......」。ヤンコウスキーはさらにこう述べていいる。「当時到着した輸送列車(ハンガリー系ユダヤ人)の30%ほどが、収容所に入れられるように選ばれた。残りの人々はガス処刑され、火葬場のオーブンで火葬された」。

ビルケナウのガス室のいくつかで働いていたゾンダーコマンドのメンバーであるヘンリク・タウバーは、戦後、次のように述べていいる。「私たちは、日勤と夜勤の2つのシフトで働いていました。平均して、1日に2,500体を焼却した」。また、タウバー氏は、マッフルに複数の遺体が詰め込まれていたことを語っている。

手順としては、1体目は足をマッフルの方に向けて、背中を下にして顔を上にして置きます。次に2体目を上にして、やはり顔を上にして、頭をマッフルの方に向けて置く......。最初に入れた体はすぐに燃え始め、手足が上がってくるので、早く作業しなければならない。遅くなると、2番目の死体をチャージするのが大変だった。

子供の体を大人の体と一緒に焼いた。まず大人2人を入れ、次にマッフルに入るだけの子供を入れた。時には5、6人になることもあった。これは、格子状のバーが比較的離れているので、その上に子どもの体が直接乗らないようにするためである。そうすることで、子供たちが灰皿に落ちるのを防ぐことができた。女性の体は、男性に比べて燃えやすく、早く燃える。そのため、火の通りが悪いときには、女性の体を入れて燃焼を促進させることもあった。

一般的には1つのマッフルで4〜5体を同時に燃やすが、それ以上の数をチャージすることもあった。最大で8体の「ムゼルマン」をチャージすることも可能だった。

同じく火葬を行ったゾンダーコマンドの一員であるフィリップ・ミュラーは、回想録の中で複数回の火葬の過程を確認している。遺体の仕分けは

栄養のある人の体は、やせ細った人を燃やすのに役立つからである。カポスの指示のもと、担ぎ手は死者を4つのスタックに分け始めた。一番大きいのは主に屈強な男性で、次に女性、子供、そして最後にやせ衰えて皮と骨だけになったムスリムの死体の山である。この技術は「特急作業」と呼ばれていたが、これは1943年の秋に第5火葬場で行われた実験に由来するもので、小人長が考え出したものである。この実験の目的は、コークス(石炭)を節約する方法を見つけることであった...。このようにして、2人のムスリムの遺体が2人の子供の遺体と一緒に火葬されたり、2人の栄養状態の良い男性の遺体がやせ細った女性の遺体と一緒に火葬されたりしたが、それぞれの積載は3体、時には4体で構成されていた。

フィリップ・ミュラーはゾンダーコマンドで働かされ、クレマ/ガス室5の裏やコテージのそばの森の中に焚き付け用の穴を掘る仕事を任された。焼却穴は長さ40~50メートル、幅約8メートル、深さ2メートル(長さ131~164フィート、幅約26フィート、深さ6.5フィート)。最終的には全部で9つの大きな焚き口を掘ったので、「ほとんど無制限に死体を燃やすことができた」という。

チャールズ・ジギスムンド・ベンデル博士は、ユダヤ人医師で、アウシュビッツ・ビルケナウに派遣され、火葬場のゾンダーコマンドに配属された。1945年のベルゲン・ベルゼン裁判で、ベンデルはこの野外焼却場がいかに早く、効率的に機能するかを確認した。例えば、ポーランドのウッチから輸送されてきたユダヤ人が、このような方法で殺害され、焼却されたことを思い出していた。「朝7時に他の人たちと一緒に来てみると、まだ塹壕から白い煙が上がっていた。火葬場の後ろには、長さ12メートル、幅6メートルの大きな溝が3つ掘られていましたが、これは、夜の間に輸送がすべて消されたことを示している。しばらくして、この3つの大きな溝でも、十分な結果が得られないことがわかった。そこで、この大きな溝の真ん中に2つの運河を作り、そこから人間の脂肪や油がしみ出るようにして、作業をより早く続けられるようにした。これらの塹壕の容量は、ほとんど素晴らしいものであった。第4火葬場では、1日に1,000人を焼却することができたが、このトレンチのシステムでは、1時間で同じ人数を処理することができた。

アウシュビッツ・ビルケナウのゲシュタポの一員であったペリー・ブロードは、戦後、イギリスに捕らえられた。ブロードは、アウシュヴィッツ・ビルケナウについての詳細な報告書を書いており、その中で、大収容所での最初のガス処刑について述べている。ブロードは、ある輸送車から出てきたユダヤ人たちが、シャワーを期待して、かつての死体安置室に押し込められた様子を詳述している。「天井の6つの穴からカバーが外されていました。彼ら(SS)はノミとハンマーを使って、何の変哲もない缶を開けた...豆の大きさの青い粒がいっぱい入っていた。缶を開けた後、すぐに穴の中に放り込み、すぐに蓋をした。」

1963年にフランクフルトで行われたアウシュビッツ・ビルケナウ裁判では、収容所のゲシュタポ部隊に所属していたハンス・スタークが証言している。彼は、ガス処刑は「この目的のために用意された小さな火葬場の部屋」で行なわれたと証言した。スタークは、ガス室の部屋の上の屋根には開口部があり、そこから粒状のチクロンBが注がれていたことを思い出した。少なくとも一度は、スターク自身がその穴にチクロンBを流し込んだ。スタークは、「注入しているうちに、人々の上に落ちてきた。彼らは、自分たちに何が起こっているのかを知って、ひどく泣き出した。数分後、静寂が訪れた。10分か15分くらい経ってから、ガス室が開けられた。死者はそこらじゅうにゴロゴロと転がっていた。恐ろしい光景だった。」

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1943年6月28日付で、アウシュヴィッツ・ビルケナウの中央建築管理局の責任者であるカール・ビショフがベルリンのハンス・カムラーに送った手紙がある。そこには、52個のマッフルの24時間での理想的な火葬能力(清掃やメンテナンスのための停止時間を含む)がまとめられていた。

クレマ1          340人

クレマ2        1,440人

クレマ3        1,440人

クレマ4           768人

クレマ5           768人

24時間あたりの合計 4,756人

ビショフは、52個のマッフルで1時間に4体の火葬ができると仮定して数字を算出したが、そのためには一度に複数の火葬が必要となる。

Via www.hdot.org,

Yad Vashem

▲翻訳終了▲

▼翻訳開始▼

ホロコースト否定派への反論 - ガス室 Part 2

2019年6月15日 イリナ・ローズ

(否定派の主張)
ダッハウ収容所やベルゼン収容所の死体の写真は、チフスや栄養失調で死んだ囚人のものだ。

誰もこの2つの強制収容所が人々をガスで殺すとは言っていない。ガス処刑ではなく、飢えさせたり、ひどい扱いで死なせたりしたという事実は、犯罪のひどさを軽減させるのだろうか?

(否定派の主張)
また、多くのドイツ人がチフスで亡くなった。バチカンと赤十字は、戦争末期に解放された何千人もの収容者に、ガス室の疑惑について聞き取り調査を行った。その回答はいつも同じで、「収容者自身はそれらについて語っていない」というものであった(赤十字文書No.9925、1946年6月)。

誰もユダヤ人だけが絶滅したとは言っていないが、民族として絶滅したのはユダヤ人だけであった。

赤十字の主張について。

強調しておきたいのは、援助と保護のためのICRCの権限は、すべての強制収容所に拡大することはできなかったということである。ICRCが知らなかった、あるいは敵対行為が終わるまでアクセスを拒否された収容所や労働分遣所は数多くあった。第二次世界大戦中の活動に関する赤十字国際委員会の報告書(1939年9月1日~1947年6月30日)、第1巻、p.625)。

ユダヤ人専用の他の収容所は最後まで人道的な目的での検査ができなかったのに対し、委員会の活動は少なくとも、ユダヤ人の割合が少ないいくつかの強制収容所では効果的であった。[同上、643頁]。

ICRCは、1943年7月21日の書簡に見られるように、戦時中からアクセスの欠如を訴えていた(USHMM, Days of remembrance, April 18-25, 1993..., p. 267)。

同封の資料を見れば、国際赤十字委員会がドイツおよび占領国のユダヤ人を支援することは、残念ながら極めて困難であることがわかると思う。前にも書いたように、ドイツ当局は、フランスを含む占領国で逮捕された民間人を民間人抑留者とは考えておらず、そのため、捕虜に関するジュネーブ条約の(類推による)適用から除外されている。国際赤十字委員会の活動分野には、残念ながら、「抑留された民間人」として知られるこの大きなカテゴリーは含まれていない。
国際委員会がこれらの人々が収容されている収容所を訪問することが不可能であるため、国際委員会は救援物資の分配を確認する立場にない。このため、これらの強制収容所は、封鎖当局が海外からの救援物資の送付を認めている収容所のカテゴリーには含まれていない。さらに、国際赤十字委員会は、抑留された民間人の名前のリストを受け取っていない

したがって、赤十字の代表モーリス・ロッセルがアウシュヴィッツ(実際の絶滅収容所があったアウシュヴィッツ第2ビルケナウではなく、アウシュヴィッツ第1ビルケナウ)を訪問しようとしたとき、彼に許されたのは、30分ほど司令官と話をすることだけであった。このことは、主張が「文書#9925」と呼んでいる、まさにICRCの報告書に詳細に記述されており、もちろん、主張では完全に歪められている

報告書の日付は29.09.1944 - "June, 1946 "ではない。この報告書には、戦後の被拘禁者に対する尋問の結果は一切書かれていない。むしろ、前述したアウシュビッツ訪問の失敗談が書かれている。収容所を視察することは許されず、司令官と話をすることしかできなかったことを説明した後で(ロッセルの後の回想によれば、司令官は彼にこう言ったという。「いや、これは被抑留者だから、君には何も見る権利はない。しかし、もしあなたが診療所に助けを求めたり、薬を送ったりしたければ、そうすることができる」と言った)、ICRC代表は、テッシェン(チエシン、アウシュビッツから50km以上離れている)のイギリス人捕虜と話したことを語った。

自然発生的に、テッシェンの信頼のおけるイギリス人の中心人物が、「シャワールーム」のことを知っているかと尋ねてきた。収容所内には非常に近代的なシャワー室があり、そこで収容者が連続してガスを浴びるという噂がある。このイギリス人の自信作は、アウシュヴィッツのコマンドーを通じて、この事実の確認を得ようとした。何も証明することはできなかった。保護拘置所の囚人たち自身も、このことについては語っていない。

アウシュビッツを出ると、またしても謎が守られている印象を受ける。

ロッセルは、アウシュビッツから遠く離れた場所にいたイギリス人捕虜に話を聞き、事実を立証しようとする彼のあまり実りのない試みについて語った。もう一つの不発弾。もう一つの否定派の嘘。

このイギリス人捕虜が、彼の「アウシュヴィッツ・コマンド」、つまりアウシュヴィッツのサブキャンプの一つの鉱山で働いているイギリス人捕虜のグループを通して、収容者と間接的に話そうとしたことがあったとすると、収容者がこのことを外部の人間に話したがらないのは容易に説明がつく。

たとえば、モノヴィッツのコマンド178で働いていたフィズゼル・シュピロ(アウシュヴィッツ収容者番号157291)は、仕事に出てこない労働者が「ムスリム」(死期の近い疲労困憊した人々を指す収容所スラング)になって火葬場に行ったと民間人の上司に話したために、10回の鞭打ちを受けた(NI-11019参照、またI.Strzelecka, "Kary i tortury", p.282 in Auschwitz 1940-1945. Węzłowe zagadnienia z dziejów obozu, vol.II, 1995; GARF f. 7021, op.108, d. 33, l. 103参照)。絶滅の過程をより詳細に記述した場合の罰を想像することができる。

後のICRCの書簡にある「我々の代表の1人がこの収容所に入ることができた」という表現は、9月の報告書に基づいており、ロッセルが本収容所の一部である司令官室に入ったことを指している。しかし、報告書にもあるように、ロッセルは本収容所さえも実際に視察することはできなかったし、ましてやビルケナウの実際の絶滅の現場を視察することはできなかった。

国境なき医師団の共同創設者であるベルナール・クシュナーは、自身の活動において過去が果たした役割について繰り返し言及している。強制収容所で何が起こっているのか知らなかったので、何もしなかった。ナチスの収容所の存在と目的を知っていた国際赤十字社は、沈黙を選んだのである。その隠蔽の説明は前代未聞の恥ずべきものである。その極めて重大な秘密を共有した人々は、何も行動しようとしなかった。
file:///C:/Users/HP/Downloads/irrc-888-farre.pdf

(否定派の主張)
ルドルフ・ヘスは1940年から1943年までアウシュビッツの司令官だった。ソ連に捕らえられたとき、彼らはチクロンBガスを使った大量ガス処刑の告白を引き出した。このような「告白」は、1936年のモスクワの公開裁判で、告白の証言台に立つ前に拷問された犠牲者からスターリンが強要したものと同じくらい信頼できるものである。共産主義者たちが「告白」を書き、ヘスがそれに署名した。後に彼は絞首刑となった。副司令官は署名を拒否し、彼は独房で死んだという。ヘスの供述書には、「ガスを放出してから30分後、彼らはドアを開けて、換気装置を始動させた。彼らは食事や喫煙をしながら、すぐに遺体の収容を始めた」。ヘスは「ガスは出ていない」というメッセージを伝えようとしたのだろうか。チクロンBは「換気可能」ではない。メーカーは、チクロンBは表面の衣服や皮膚に付着するとしている。最強のフィルターを備えたガスマスクを着用して24時間経過して初めて、作業員を殺さずに死体を取り出すことができると言っている。もしも、作業員がガス室に駆け込んで「食べたり吸ったり」していたというヘスの告白を信じるならば、ガス化の数分後にはガスマスクもつけずに、全員が死亡していたことになるのである。

換気ができないという主張は、否定派のウェブサイトでしか見られず、ソースも示されていない。私はそれを述べているソースを一つも見つけることができなかった。メーカーは換気について何も言っていない。

註:換気についてはそんなことはない。こちらの「XI Airing」で害虫・害獣駆除の標準作業時の換気に関する説明がある。

駆除室は、強制的に換気された。空気を入れ替えるには15分あれば十分であった。換気が行われない場合、死体を運び出すゾンダーコマンド(強制労働に使われた囚人)はガスマスクをつけていた。

親衛隊員のヘブリンガー。(ラングバイン)

私は輸送サービスに配属され、囚人を運ぶためのサンカ(Sanitatskraftwagen/医療用トラックの略)を運転しました....。

その後、ガス室に向かいました。医療班の人たちは、ガスマスクをつけてはしごを登り、ガス缶を空にしました。私は、囚人たちが服を脱いでいるところを観察することができました。囚人たちが何かを疑うこともなく、いつも穏やかに進んでいきました。あっという間に終わってしまいました。

ガス室にチクロンBを流し込むナチスは、用心のためにガスマスクを着用していた。1942年4月にアウシュビッツに到着したスロバキア系ユダヤ人のフィリップ・ミュラーは、クレマ/ガス室1のオーブンストーカーとして働かされた。その後、ビルケナウに移され、火葬場や焼却場で働くことになった。ミュラーはクレマ/ガス室1でのガス処刑を次のように回想している:「最後の1人が敷居をまたいだとき、2人のSS指導者が、ゴム製のシールが付いた重い鉄製の扉をバタンと閉めて、ボルトで固定した......当直の親衛隊伍長は、火葬場の屋根の上に行った......。彼らは、6つのカモフラージュされた開口部のカバーを外した。そこで、ガスマスクに守られながら、致死性ガスの緑青の結晶をガス室に流し込んだのである。

1944年にスイスで化学の勉強を始める機会に恵まれた私が、ガス室について最初に読んだ文献の一つに、ガス化のプロセスやガス化後の予防措置(換気など)についてのかなり正確な記述がありました。それは、ガス化のプロセスやガス化後の注意事項(換気など)についての、かなり正確な記述であった。ここでは、それをほぼそのまま引用することが有益であると考える。

(ピッチ・ブロッホ Ph.D.
化学エンジニア
連邦工科大学チューリッヒ校)

" 1943年2月末、ビルケナウでは、建設が完了したばかりの新しいガス処刑場とその近代的な火葬場が落成した....。[Aの火葬場とBの準備室の説明が続く]
" そこから、ドアと数段の階段を経て、狭くて非常に長い、少し低い位置にあるガス室へとつながっていた。ガス室の壁はカーテンで覆われており、巨大なシャワールームのような錯覚に陥った。3つの窓は平らな屋根に面しており、外から密閉して閉じることができた。オーブンルームに続くホールにはレールが敷かれている。
" ここでは、その「操作」がどのように行われたかを紹介する。
" 不幸な人たちはBホールに連れてこられ、「シャワーを浴びるから、自分のいる部屋で服を脱いでくれ」と言われた。実際にシャワーに連れて行かれると思わせるために、白い服を着た2人の男が、それぞれに石鹸とタオルを渡した。そして、ガス室に押し込まれたのである。約2,000人が入ることができたが、一人一人が立っているために必要なスペースしか確保できなかった。これだけの人数を部屋に入れるために、何度も銃声がして、すでに部屋に入っている人たちをさらに押し寄せるようにした。全員が入ったところで、重い扉に閂(かんぬき)がかけられた。部屋の中の温度がある程度に達するまで、おそらく数分間の待機があった。その後、ガスマスクをつけたSS衛兵が屋根に登り、窓を開けて、ブリキ缶数個の中身を投入した:粉末状の製剤である。缶には「Zyklon」(殺虫剤)と書かれており、ハンブルグで製造されたものであった。中身はおそらく青酸化合物で、一定の温度でガスになる。3分後には部屋の住人全員が殺された。今まで、ガス室を再開しても、生きている兆候を示す死体は一度もなかったが、逆に、ビルケンヴァルトでは、原始的な方法を使っていたために、このようなことが頻繁に起こっていた。このようにして、部屋は開放され、換気され、ゾンダーコマンドは死体を平らなカートに乗せて、オーブンに向かって運び始め、そこで焼却された。"

http://www.anti-rev.org/textes/VidalNaquet92a/appendix.html

▲翻訳終了▲

以上です。記事の特徴としては、直接的な反論にはなっていない箇所が若干目立ちます。例えばラストのチクロンに関する部分は、否定派が「証言なんか信用出来るか」とあっさり否定する証言が反論のメインになっており、否定派が「うっ、その反論は困る」というようなものにはなっていません。だからと言って、反論になってないわけではありませんが、反論としてはやや物足りない気はします。

でも、反論に証言が多いと、「こんな証言やあんな証言もあるんだぞ!」という怒りの気持ちが伝わってくる気がします。私も、多分自分なりの正義感みたいなものが湧いてくるから、アンチホロコースト否定論のような活動を行なっているところはあると思うので(しかし実際は知的好奇心の方がはるかに強いと思います)、共感はしますね。

ったく、どうして奴らは出鱈目なことばっかり主張するのでしょうね?

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