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【小説】バニラムーン

お題:電子タバコ


 小さな月が差し込むような部屋だった。顔と顔が見えるくらいの暗さに、網戸から映り込む向かいのアパートの外廊下の明かりが星のように瞬いている。私の匂いがしないのに知っているような既視感があるのは、何度も夢で見たことがあるからかのか、それともあまりにも絵画的な光景だからなのか、どっちでもよかった。
「ここで吸ってもいいよ」
 小さな音がして、くすんだ灰皿が目の前に現れる。
「匂うの嫌いじゃなかった?」
「仕事に切羽詰まると吸うようになっちゃってさ」
 こういう瞬間、時間の流れを強制的に思い出させられる。知らないがたくさん積み重なった結果、今の私たちがいる。
「ゆみはまだ紙巻き?」
「吸えないところが増えてきたから変えたけど、今日はどっちも持ってる」
 なら一本交換しよっか、と右手が伸びてくる。私たちの間を隔てるものは空気しかない。そのまま絡め取って、口元まで運んだらどんな顔をするだろうか。想像するのは容易く、実行するのは理性が止めた。

 ねえ、知ってた? 本当はほとんど電子タバコなんて吸わないの。あなたに臭いって言われたくなくて持ってきただけ。あの頃も嫌われたくなくて会う前は吸わないでいて、今日もそれだけは変わってないんだよ。あなたがゆうみじゃなくてゆみって呼ぶのだけは変わってないのと同じように。
 交換した一本はバニラの味がほのかにして、恥ずかしくて「キャスターって感じ」としか言えなかった。
 本当はあなたの味を確かめたいねって、キスしたいけど、多分この部屋だけの夢だから、月明かりに免じてやめておく。

 夢から覚めても、たまにキャスターを買って今日を思い出すくらいは、きっと許されるはずだよね。

いただいたお金は、美味しいお酒と新しい本に使い、書くためのエネルギーにしたいと思います。