見出し画像

コンフォートゾーンから抜け出すなら、今だ(点を紡ぐ日々)

本当はサンディエゴに行こうと思っていた


毎年の夏休み、子どもたちを連れて「遠く」に行くのが恒例行事となっていた。「遠く」行くイベントの発端は、単純に旅が好きだったし、非日常を味わうことの楽しさや、知らないところで起こる未知なことになんとか対処する経験を子どもにもさせたいと思っていたからだ。

って、「なぜか」が言語化されたのはこの文章を書いているたった今だけれど、子育ての指針として「いろいろなことを実際に経験する」「本物を五感を総動員して味わう」ことが大切だという思いはいつも心にあったし、「いつでもなんでも対応する臨機応変さと前向きさ」を身につけてほしいとも思っている。
「VUCA」なんて言葉を知ったのはその何年も後のことだけど、ともあれ、そんな「夏に『遠く』に行くイベント」は下の子が3歳の時から毎年続けられ、2018年の夏で4回目だった。

過去3回の「遠く」への旅は、友人が住んでいる土地を訪ねることでセーフティネットを作りつつ、ケガや事故もなく滞りなく楽しむことができた(一回、下の子が海外で40度近い高熱を出したのには焦ったけれど)。

4回目となる2018年、下の子も6歳となりだいぶ体力も付いた。友人の住む地も訪ねつくしてしまったので、初めて全く知らないところに行こうと考えた。

そこで候補に挙がったのがサンディエゴだった。
きっかけはこの絵本。

『木のすきなケイトさん―砂漠を緑の町にかえたある女のひとのおはなし』。
実在の女性科学者、キャサリン・オリヴィア・セションズがサンディエゴのバルボア公園を「世界の庭園」と呼ばれる緑豊かな場所に変えた偉業と、彼女の好きなことに対する情熱についての絵本

この本は、実在の科学者で園芸家、教育者でもあったケイト・セッションズ(1857年–1940年)についての絵本。

女性は家庭的であるべきとされ、外で土をいじることや科学を学ぶことなど全く一般的でなかった時代に自らの情熱に動かされ女性初のカリフォルニア大学卒業生となり、教育者・園芸家として地域社会に対して植物の重要性について啓蒙活動を行い、サンディエゴのバルボア公園を緑であふれさせ、多くの人々に影響を与えた「ケイトさん」。

ケイトがかたち(職業)を変えながらも幼少期からの「木が好き」という情熱を持ち続けたという「諦めないこと・継続することの素晴らしさ」がバックストーリーとなっているところがいいなあ、と、数ある「女性科学者」の本の中でもとりわけ感銘を受けた。

そんなバルボア公園に行ってみたくて、「サンディエゴに行きたい」となった。この絵本が好きな娘も乗り気だ。

でも、アメリカは遠すぎるし広すぎる。で、どうする?

ところが、調べれば調べるほど、「サンディエゴは厳しいかも」と思うようになった。なにしろ知り合いが一人もいない。土地勘もない。私の英語も中途半端。北米で車を運転できるほどの運転技術もない(ペーパードライバー)。せっかくはるばるサンディエゴまで行くならあそこもここも行きたいけど、北米で車なしで子連れではいろいろ無理があるのでは……。

そこで急浮上した代案が、同じように緑あふれる東南アジア。
マレーシアにイギリスの名門校が分校を開校し始めて数年が経ち、教育移住が一般的にも話題になり始めていた頃で、それについてもちょっと興味があった。この国の教育ビジネスインフラが整ってきているように見えたし、短期的に通える子ども向けの英語サマープログラムも多数見つけられそうな様子。私の中途半端な英語力でもなんとかなりそうな親日国。シンガポールには行ったことがあるから気候や過ごし方の注意点もわかる。

もしかして将来、留学とかしてもいいかもしれないしね。
という思いもわいてきて、その下見も兼ねて、この年の「遠く」に行くイベントの目的地はマレーシアに決まった。

エージェントがあてにならなすぎる!

そこでさっそく、ちょうどあるエージェントがマレーシア短期留学の説明会を行っていたので話を聞きに行ってみた。当時の子どもの年齢ではインタナショナルスクールへの留学はあてはまらなかったし、基本的にそれらの短期留学は子ども単身のものだったので親子で行くプランはそのエージェントは扱っていなかった。そのため語学学校に通うプランを検討した。

そのエージェントが扱っている語学学校の中でいいな、と思うところがあり、申し込むことにした。しかしこの語学学校、授業の時間が午前中と言われたり午後と言われたり、言っていることが二転三転する。プランに含まれるホテル代も妙に安すぎる(3人が泊まれる部屋で1泊2,000円~3,000円だった)。しかも、どうもマレーシアへの注目度があがったことでそのエージェントの想定以上に問い合わせが入っている様子で、一人しかいないと思われる担当者からはなかなか問い合わせへの返事が返ってこない。

「大丈夫???」と思いながらも、その語学学校について調べてみると、日本語での情報がまったく出ていなかっただけあって生徒の日本人率が非常に低く、小規模でレッスン内容も悪くなく、生徒の国籍も先生の国籍もなかなかバランスよくばらけていた。都会のど真ん中でなかったけど、電車で簡単にアクセスもできる場所なのにも惹かれた。混雑する都会に行きたかったわけではないし、マレーシアの電車にも載ってみたかったのだ(鉄道好き)。中心地から外れていて、中心地に電車で簡単にアクセスできるというのはまさに理想の立地だった。クアラルンプール郊外の当時聞いたこともない地名だったけどグーグルマップのストリートビューを見まくり、ググりまくり、安心できる地域であるのを知った。

直接学校に問い合わせることで最低限の不安をクリアにし、ホテルがとんでもなかった場合に備えて予備のホテルの候補を見つけて申し込み寸前の状態にしておき、と一つひとつ不安と疑問をつぶし、出来得る限りの「プランB」を用意して申し込んだ。詳しい値段は忘れてしまったけど、2週間の子どもの語学学校、親子3人分の2週間分のホテル宿泊、空港送迎までセットと必要なものがほどよく含まれていてかなり安かったのも決め手になった。

それがどうなったかというと、ふたを開ければとにかく珍道中で、結果的にいろいろな「プランB」がものすごく役立ったのだけど(本当によかった)、とにもかくにもマレーシアに2週間超滞在し、いろいろなすったもんだを経験しつつも「マレーシアなら住めるかも」という感触を得て、翌年2019年からの移住に繋がる経験となった。


視野が狭くなると、どうでもいいことに腹が立つ

絵本→サンディエゴ→マレーシア、とへんてこな思考回路でつながったマレーシア行き。
根底にあったのは「このコンフォートゾーンから一度抜けてみた方がいい」という確信だった。それがいつか、というなら「今?かも?」というのがその当時のアイデアだった。

コンフォートゾーンは狭い。狭い世界にいる限り、視野は狭くなる。

視野が狭くなれば、本来重要でないことにたいしていちいち腹を立てたり不安になったり、文句を言いたくなったりする。

そういう感覚から逃れたかった。

毎週の子どもの漢字テスト。10点満点で、ひとつハネるのを忘れるだけで、欄外に線がほんの少しはみ出すだけで「×」が付き、ほとんどできているのになかなか10点満点を取ることはできない。なんとなく「うちの子は8点以上とらないといけない」感じがしてしまう感覚。

冷凍食品はよくなくて、子どもに「ちゃんとした」ごはんを作ってあげることが正義。

大人も子どもも、効率よくムダなく、「やるべきこと」をやる日々。

共通認識としての「正解のかたち」がある社会。

他でよく「難しい」といわれる「ママ友付き合い」に関しては、周囲に大変恵まれていたので、窮屈だとは思わなかった。
学校のいろいろな決まり事も、「様式美」として楽しんでいた。これだから「和」が保たれたり、サービスやコミュニティの質の高さが担保されることに繋がっていて、日本っぽくていいよね、と。

子どもは「日本の小学生ライフ」を、私は「日本の小学生の親ライフ」を、それぞれまずまずうまくやっていた思う。
入園入学のバッグ類なんかも「この子らしいデザインを♪」なんて楽しく考えたりもしたし、母親参加の学校行事も、日々子どもの宿題も見るのもコミュニケーションの時間として概ね嫌いではなかったし、
いろいろな日本の学校の特殊な「謎ルール」も特に疑問なく従っていて、うまくこなせていたと思う。これもまた「様式美」だよね、と。

でもどこか「本当はそんなに重要じゃないことに腹を立てている、一喜一憂している」感覚からは逃れられなかった。これはちょっと違う、とわかっているのに逃れられない。

だから、取り返しがつかなくなる前に、一度ここを出たい。
そう思い続けていて、それがずいぶん膨らんでしまっていたような気がする。

そして4年の月日が流れ

一度、と思った「ここを出たい」の思いは現在も継続し、紆余曲折を経て丸4年が過ぎた。でも外から見た「その世界」のよさもまた見えてきた。

あのとき、思い付き通りサンディエゴに行っていたら、今はなかったのかもしれない。

マレーシアにいく選択をし、3年経ってカナダに場所を移して現在に至り、今まだ何かの「途中」のような気がしている。
目指しているのは華やかな観光地やレストランをめぐる、インスタ映え抜群の「キラキラな海外生活」でもないし、「北米名門大学進学必勝」でもない。

でも、それぞれのやりたいことを少しずつみつけて小さなチャレンジを重ねていければいいと思っているし、「結果が見えていなくても、小さな一歩であっても、チャレンジを重ねる」ことを許容できる心の大きさが身についてきたた感覚がある。

後からconnectするための点を紡ぐ


「点と点がつながるのは、振り返った時だ。予見することはできない」
と言ったのはスティーブ・ジョブズだけど(「You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards.」の意訳)、
今まさに、その点を紡いでいるような気持ちで毎日を過ごしている。

1日1日を切り取ってみれば、「それが何になるの?」と言われる日々を送っているのかもしれない。
でもきっと後でこれは繋がるはずだと信じられる。
子どもが小さい時に買った「点つなぎ」のワークブックのように、最終的には何かのかたちになるんじゃないかな、という予感がある。

何も確かでなくても、ちゃんとしたレールに乗っていなくても、少なくとも何かから逃れたいと思って毎日を生きてはいない。

まだ予感しかない日々だけど、コツコツと「点」を紡いでいこう。
そして、子どもに対しても「今は『点』を紡いでいるのだ」と信じて見守ろう。
そうと思っている。


スキやコメント、サポート、シェア、引用など、反応をいただけるととてもうれしいです☕