柚木麻子『けむたい後輩』

柚木麻子『けむたい後輩』(幻冬舎文庫)

「「忙しかった」は理由ではなく言い訳」
おかざき真里『サプリ』の名台詞を思い出しながら、わたしの大学時代のぬるい生活を思い出しながら、苦い気持ちで読んだ。

この物語は「ものづくり」の仕事を志す人々の心にチクリと、グサリと突き刺すものがある。0から1を産み出す「ものづくり」という行為は、自由であり無限であり、それ故に必然性がない。しかし仕事においては期限までに「ものづくり」を完遂する必然性が求められる。「ものづくり」を仕事にするということは、既存のものの応用がきかない上に、全身全霊をかけてもそれが「認められるもの」なのか想像がつきにくい。
柚木麻子『けむたい後輩』は、「ものづくり」という非常にエネルギーのいる行為を若くして関わることになった女の子たちの成長の過程を描いている。

「けむり。けむり。あなたとわたしをへだてるけむり。
けむりのむこうはおとなのせかい。あまくてにがいあなたのけむり……」
(10頁)

わずか十四歳ながら、年上の恋人との恋愛を題材にした詩集『けむり』を出版し作家デビューを果たした増村栞子。あれから六年経ち大学生となったいま、栞子は創作意欲をくすぶらせたまま、それ以来何も書けていなかった。
栞子は著名な翻訳家の一人娘であり「聖フェリシモ女学院」というお嬢様学校に通う生粋のお嬢様である。『けむり』の恋人のモデルとなった大学講師の蓮見先生と恋愛継続中。思春期に教師と禁断の恋愛関係になったためか、蓮見先生のこだわりぬいた文化教養を教わっていたためか、真面目なお嬢様たちの「女の子」の雰囲気に馴染めずに孤高をつらぬいた。十四歳で覚えた煙草「キャメル」は栞子の個性となった。
ある日、栞子のファンだという大学の後輩の羽柴真実子と出会う。真実子も生粋のお嬢様であり、病弱な文学少女であった。

「少女はお下げ髪をぶんぶんと揺らして、真剣な顔でうなずいている。
(中略)
「先輩っ、私、絶対に誰にも言いません。今日見たこと、絶対に誰にも言いません。私は栞子さんの一番のファンだもの!! 何があっても守り抜いてみせる」
 少女は勢い込んで身を乗り出しこちらの腕をつかんできた。先ほどとは打って変わって手が熱い。栞子はさりげなく振りほどきながら微笑んでみせた。
「ありがとう。あなた、名前はなんていうの」
「羽柴真実子です。はしばは羽柴秀吉の羽柴、まみこは真実の子供で真実子」
暑苦しい名前だな、と肩をすくめた。でも、この子と一緒にいたら何か生み出せるかもしれない。あの輝かしい日々が復活する気がして、栞子は期待を込めて、彼女を見つめ返した。」(13頁)

作家デビュー当時はずいぶんもてはやされていたが、それが無くなって久しくなったところに登場した熱烈なファン。栞子は得意気になり、蓮見先生との経験談や教わった文化教養を真実子に教えていく。真実子はそれをスポンジのようにぐいぐいと吸収し、栞子に心酔していく。

「真実子は十字路を途方にくれたように見渡した。石川町駅前で見かけた、手塚治虫そっくりの老紳士を、栞子の提案で二駅離れたこの根岸まで尾行してきたのだ。ポール・オースターの小説のモデルにもなったアーティスト、ソフィ・カルに倣い、栞子は日頃から興味を引く人を見つけたら、尾行することにしている。彼らに思いつくままに物語を与え、その人生を空想するのだ。そう打ち明けたら、真実子がたちまち目を輝かせ、やってみたい、と言い出したのだ。(中略)
栞子は、真実子を連れ歩くのが楽しくなっている。先生と見つけた横浜のお気に入りの場所を見せてやるのだ。古い喫茶店、中華街の裏の古本屋、デパートの屋上。真実子は何を見ても新鮮に反応し、素直な感動を口にする。相手をしていて飽きない。育ちが良さそうで、世間慣れしていないところも気に入っている。まるでスポンジが水を吸収するように、栞子の言うことを一つも聞き漏らすまいと夢中で身を乗り出す様がなんとも愛らしい。」(29頁)

お嬢様であり世間知らずでもある二人の間には、『赤毛のアン』のように空想を膨らませた、夢や理想が満ち満ちた描写が多い。しかしこの物語では、ロマンに満ちた栞子の目線のほかに、真実子の親友・浅野美里の目線も登場する。
女子アナ志望の美里はたぐいまれな美貌の持ち主だが、現実主義者であり、いつでも冷静にものごとを分析し、同じ女子寮に住む真実子に助言を与えていた。栞子にどんどん心酔していく真実子の様子を目の当たりにし、栞子の存在を不快に思っており、栞子の思想や行動を毒舌混じりにつっこんでいく。

「それにしても、栞子とやらは生意気そうで、どうも気に入らない。女子アナの世界でも二世だのコネだのはよく聞く話である。そんな抜け道を使う卑怯な連中に、美里は絶対に負けたくないと思っている。地道な努力と知性と美しさで、完膚なきまでに叩きのめしてやるのだ。
「作品通りの、すごく素敵な人なの。今もまだ創作活動を続けているのよ。物知りでね、本や映画にとっても詳しいの。稲垣足穂や萩原朔太郎が大好きなんですって。私も今度読んでみよう。あとね、すごく優雅に煙草を吸うのよ」
美里はお茶を噴き出しそうになる。
「煙草? あんた、そんな人とずっと一緒にいたの? ダメじゃない。肺が弱いからって、ちゃんと言えばいいじゃないの」
「言ったよお。でも、先輩、十四歳の頃から煙草が手放せないみたいで……」
おずおずと言い訳する真実子を見て、むっとした。
「はあ? 何、それ、理由になってない。あんたが病弱って知ってて、なんで煙草吸うのよ。その女、頭おかしいんじゃない。ていうか、隠れヤンキー?」」(20頁)

栞子には真実子を心酔させる言葉やしぐさのセンスがあった。美里には周囲をよく観察し、目標のために何をすべきか分析する能力があった。真実子には他者に何を言われようと心酔する相手を信じきる純粋な心と、心酔する相手から教えられたことを素直に聞き従う集中力があった。栞子は真実子の目を夢や理想でぼやけさせ、美里は真実子を現実に引き戻そうとする。美里は栞子に心酔する真実子の集中力に屈してしまうが、勤勉な真実子は理想を追うだけではなくしっかりと実力を身につけ、ぐんぐんと成長していく様子が二人の目線から語られる。

「先生との美しい思い出の数々は、あらかた真実子に話してしまったのだ。もう持ち駒がなくなりつつある。伊佐夫の一件以来、男っ気がまったくない。恋愛話だけではなく、本や映画の知識のストックも限界がきていた。真実子がいつも身を乗り出して話を求めるので、調子に乗って披露しすぎたせいだ。最近、嫌というほど感じるのだが、彼女の吸収力はすさまじい。一人の作家の名前を出せば、翌週にはすべての作品を読破してくる。また、文章力をめきめき身に付けつつある。真実子の「横浜歴史散歩レポート」は、中村教授の推薦により幾度も文芸誌に掲載されていた。それを偶然目にした父親が、
「今度、このお嬢さんをうちに連れてきなさい。彼女はモノになるぞ」
と口にした時には、胃が締めつけられるようだった。もう娘が詩を出版したことなんて、すっかり忘れているような口ぶりだったから。目の前の真実子の無邪気な瞳が、もっともっと、と貪欲に光っているようにさえ見えてくる。」(160頁)

栞子はめきめきと実力をつけていく真実子をうっとおしく感じ始めていた。創作意欲はくすぶったままであり、将来設計も曖昧なまま不安を感じる栞子とは対照的に、水を得た魚のように輝く真実子。栞子は真実子のまぶしさに圧倒されてしまっている。
この物語にはところどころに「嫉妬」があらわれている。親友を栞子に奪われて嫉妬する美里、栞子を男に奪われて嫉妬する真実子、美里の美貌に嫉妬する栞子…。なかでも、栞子が真実子の才能を嫉妬する描写が目立つ。
学年が上がるとともに真実子は才能と実力を認められ、大学四年生の頃には本格的に「ものづくり」の仕事に就くことになる。栞子は創作活動をしないまま、ついに後輩に追い越されてしまった。栞子はみじめな気持ちを抑えられなくなり、真実子に自分の思いをぶちまける。

「この子のせいだ。いつも栞子の後をついてくるこの後輩が、すべての元凶ではないのか。創作意欲が綺麗さっぱり消えたのも、彼女が常に隣にいてちやほや賞賛するせいで、気持ちが満たされてしまったからではないだろうか。真実子から離れなければ、幸せは訪れない。おそらく一生。どうして四年間も、そのことから目を逸らし続けてきたのだろう。
(中略)
まくしたてるうちに心の中がどんどん整理されていく。本当にその通りだ。真実子はこれまでどれだけの人間の心をかき乱してきたことだろう。彼女の個性が、何気なく放った一言が、栞子や男たちのコンプレックスをどれほどえぐってきたことだろう。真実子ももう無邪気で済まされる年齢ではない。いかに才能があろうと、そばにいるだけで相手をみじめにするような人間とはこの先関わりたくない。
 初めて先輩らしいことが言えたと思った。これだけしてやれば十分だろう。この子にしてやれることはすべてやったのだ。」(272頁)

最終部で栞子は一方的に真実子との関係を断つ。突然別れを告げられた真実子は、心酔する相手に突き放された絶望を抱えながら美里たちが待つ女子寮へ戻り、本章は幕を閉じる。

栞子のくすぶった気持ちはよくわかる。栞子のように格好つけた言い訳をしたくなる。栞子のだらしなさと傲慢さを突きつけられ、自分自身に置き換えて恥ずかしい気持ちになり、誰かに懺悔をしたくなる。純朴で勤勉な文学少女の真実子や現実主義でストイックに目標に向かう美里の成長の描写は、栞子を見事なまでにみじめにさせる。お嬢様が集う女子校という舞台で、感動や嫉妬などの感情が交錯するなか、プライドが高く個性を捨てきれず孤高をつらぬいた栞子が一番女々しかった。栞子は最後まで他者に保護され続ける「お嬢様」の立場を崩そうとしなかったのだ。
エピローグでは、別れから数年後に栞子と真実子が再会する場面が描かれている。真実子は栞子との訣別を経て、さらに成長を遂げていた。成長した真実子が栞子に放った言葉が一番胸に突き刺さる。物語の表題「けむたい後輩」は「煙草のけむりをけむたがる後輩」と「先輩からけむたがられる存在となった後輩」の二通りの解釈ができるが、エピローグでは両方の意味を見事に際立たせている。

真実子たちの生活はいかにも「お嬢様」で、真実子の無邪気な様子がかわいらしい。かわいい読書でもあり、たたかう読書でもある。現実を突きつけられる一冊であるが、エピローグで作者の「ものづくり」に対する魂の叫びが聞こえたような気がした。

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