オンラインでの哲学対話(哲学カフェ)について

 2020年4月11日(土)20時から23時まで、オンラインでの哲学対話の可能性についてZoomを使って実験をしたので、そのさい気づいたことや考えたことを以下にまとめておく。

 まず、SkypeにしろZoomにしろ、利用者がその使い方を知らなければどんなサービス、プラットホームもまったく役に立たないなと。道具はそれを使う人が使い方を知って、はじめて道具として機能する。

 昨晩はFacebookでZoomのミーティングに参加するためのアドレスを公開したので、国内外、津々浦々、いろんな人が参加してくれた。PC、iPhone、android、iPadなど参加者の機材はさまざま、インターネットの接続環境もさまざま。参加者数は累計で11名だったはず。

 ZoomはSkypeなんかと比べると総じて安定しており、映像や音声が乱れることもほとんどなかったように思う。これは設定の問題かもしれないけど、参加者をいちいち承認しないといけないのは面倒だった。承認しなくてもパスワードで入って来られる方法があったのではなかったかな。

 Zoomはミーティングを主催しているホストの権限で参加者がミュートにした設定を強制的に解除できるのだけど、プライベートで不特定多数の参加者がいるようなミーティングでこの機能はとても危険だし怖いなと。授業で使う場合なんかも同じく。会社の中で行う社内会議ならまた違うのかもしれないけど。

 ほかにもZoomはホワイトボードの共有や画面の共有ができたり動画を再生しながらPCの音声を共有できたりと多機能なんだけど、例えばホワイトボードは誰かがいたずらでぐちゃぐちゃにできるのがZoom爆撃で悪用されたりしているように、セキュリティ上で疑問に思うことが少なくない。

 まあホストの側から他の参加者に一方的に何かを提示するというスタイルなら、Open Broadcaster Softwareなんかをあいだにかませるというのが現実的だと思うけど、安定性やPCへの負荷が課題になってくるかな。それ以前にこれらの構造を理解してOBSなどを使いこなせる人はぐっと少なくなるか。

 すこし哲学対話の実験に引き寄せて言うならば、Zoomの機能にしろセキュリティ上の問題にしろ、そのミーティングがどういう趣旨のもので参加者同士の関係がどうで人数がどれぐらいなのかによって意味は変わってくるなと。もし哲学対話があとで書くように不特定多数の集まりだとすれば…

 哲学対話が不特定多数の参加するものだと考えれば、それを主催するホストが参加者のマイクを勝手にオンにできてしまうのはよくないし、そういう意味でZoomは哲学対話をおこなうためのツールとしてはあまり向いていないのかもしれないなと。これだけをもってそう断定することはできないけど。

 哲学対話におけるホストが参加者全員から見て信頼できる人であれば、マイクのミュートを強制的に解除できるホストの権限の意味もまた変わってくるのかもしれないけど、あくまで哲学対話は不特定多数が参加するものだという前提に立てば、この想定には無理があるなと。

 参加者が4、5人の場合で全員がアクティブ(つまり他の参加者の発言に映像や音声で相槌を打つなど応答しつつ自らも定期的に発言する状態)だと、個人的にはストレスなく対話に参加することができたのだけど、参加者の中にはアクティブにならなければという圧迫感を感じる人がいるかもしれない。

 この圧迫感にもつながる話なんだけど、参加者が少ないときに長時間パッシブ(映像がなく、他の参加者の発言を聞いたりチャットを見ているのかどうかもわかならい状態)の参加者が一定数いると、なんとも言えぬ居心地の悪さがある。まあストレスに感じるということかな。

 この経験は哲学対話における〈参加〉の意味をめぐる議論にある示唆を与えてくれた。個人的には哲学対話というよりも哲学カフェのことなんだけど、オスカル・ブルニフィエ的な全員が発言をして全員の理解とともに対話を進めていくという参加のあり方に私はずっと疑問を呈してきた。

 ざっくり言うと、哲学対話(哲学カフェ)における参加の仕方は多様であっていいというのが私の立場で、発言したい人は発言すればいいし、発言したくない人は発言しなくてよく発言を強制されるべきではない(だからミュートの強制解除も問題になる)というのが私の考え。

 傍観するということもまた対話に何がしかの影響を及ぼすし、沈黙するということもまた非言語的な態度表明になる。たんに手を挙げて発言するだけでなく、いろんな参加の仕方を許容する、手を挙げて発言する以外のこともまた参加と捉えるというのが哲学対話(哲学カフェ)における私の立場。

 じっさい、これまで私は対面でおこなう哲学対話(哲学カフェ)において一度も発言しない〈参加者〉がいたとしても違和感をなかったしストレスに感じることもなかった。それはそういう参加の仕方もあると最初に確認しているし、そういう参加の仕方なんだろうと理解していたから。

 参加者が黙って会場から出て行けば「何かまずいことでもあったかな」と心が少しかき乱されるけど、それもいろんな意味での態度表明で参加・不参加の仕方だと理解しているし、誰かの発言中に顔をしかめたり頻繁に首をひねる参加者がいた場合にも同様。

 ただ、他の参加者の発言中に顔をしかめたり首をひねったりする動作は、ときとして威圧的だったり侮辱的だったり場合によっては差別的なものとしても機能しうるので、私が進行役の場合には状況によって制止したり真意を問うたり注意したりすることがある。この辺りの線引きはなかなか難しい。

 話を傍観や沈黙に戻そう。これまで私は対面の哲学対話(哲学カフェ)において参加者の傍観や沈黙に居心地の悪さを感じることはなかったけど、オンラインで哲学対話の実験をしてみて思ったのは、参加者が少人数のときに長時間パッシブな参加者がいるとすごく気になるということだった。

 何がどう気になっているのかを言語化するのはなかなか難しいんだけど、たとえば、ある参加者が映像はオフだしマイクもミュートで長時間発言していないとしても、じつは他の参加者の発言はずっと聞いていて発言することがないから発言していないだけなのか、そもそも聞いていないのかなどがわからない。

 参加者がパッシブな理由や原因は他にもたくさんあるだろうけど、ともかくその参加者がまだ対話の内容に興味を持って聞いているのか、聞いてはいるけど興味はないのか、あるいはそもそも音をミュートにして聞いてすらいないのかわからなければ、発言する際に誰に向けて何を発言すればよいかわからない。

 これは他人の内心を過度に気にするとかしないとかいう問題ではなくて、対話というのは相手があって成り立つものなので、端的に言うならばその相手がそもそも見えなければ対話のための発言もままならないということ。

 今回思ったのは、対面の哲学対話でも同様の理由で(か別の理由でか)居心地の悪さを感じる人がいるのだろうということ。いや、居心地の悪さを感じる人がいること自体は理解していたのだけど、問題は確認のために参加者に発言を強要することがよいのかどうか。私は発言を強いることに否定的。

 少しずれてるので言い直し。対面の哲学対話でも傍観や沈黙する参加者に居心地の悪さを感じる人がいることは知っていた(し居心地の悪さがオスカル・ブルニフィエ的な全員参加の唯一の理由ではないだろう)けど、これまでそれを実感することがなく、昨晩のオンラインで初めて実感できたということかな。

 オンラインでの哲学対話における経験を対面での哲学対話に当てはめて考えると、哲学対話がどういうものであるべきでどのように進行・運営がなされるべきなのかについての考え方に変更が迫られるものなのかどうなのか、それをいま考えている、ということかな。ここはまだ整理中。

 オンラインの哲学対話についてもう少し人数が多くなった場合はどうだろうか。人数が多くなると長時間パッシブな参加者がいても気になる程度は小さくなるように感じた。これは注意力とか認知の能力とも関係しているように思う。オンラインで少人数の場合、パッシブな参加者が目立つということなのかな。

 ちなみに、哲学対話から少し離れるけど、授業中に寝ている学生や音楽を聴いたりゲームをしたりその他スマホを操作している学生がいたら気になるという教師は、何を気にしていて、そうした教師がオンラインで講義をしたときにパッシブな受講生がいた場合どう感じるのかは気になるところ。

 携帯でツイートするのが疲れてきたのでパソコンから。パッシブな参加者についての問題はこれぐらいにしておいて、次は発言者と音声の問題について。まず使い方と技術的な問題なんだけど、スピーカーで音を出しながらマイクをつけっぱなしにしている参加者がいると、音がハウリングしてとても困る。

 これは技術的に回避できるものかもしれないし、利用者が技術的な特性を理解した上で道具を正しく使うかどうかということなのかもしれないけど、スピーカーから音を出すときにはマイクは原則切っておくようにするか、音はイヤフォンかヘッドフォンで聞くようにするというのをルールにした方がいいかも。

 基本的には話したい人が話したいときにだけマイクをオンにするというルールにしておいたら、音声が混線せずに済むし、対面の哲学カフェでもそうであるように、誰かが話をしているときに他の参加者は声を出すなどしてそれを中断しないというルールにもつながるのでいいかなと。

 まあ、Zoomの音声がほかの同様のサービスと比べて聞き取りやすいのは、複数の人がマイクをオンにしていたり、マイクをオンにしたままスピーカーから音を出していたり、あるいは周囲が騒がしかったりしたときに生じる問題を回避する技術が優秀だからなんだろうけど、現状ではそれにも限界があるなと。

 先ほど述べたようなルールをどの時点でどのようにして参加者と共有するのかについてもよく考えないといけい。アプリの使い方やサービス、機能について明るくない参加者がいた場合、特にそれが場の運営に支障をきたすような場合、そのつど立ち止まって説明する必要があるのか、あるとしたら大変だな。

 参加のハードルというか条件をどこにもうけるのか、それによって参加者の属性も大きく影響を受けるだろうからこれはこれでなかなか難しい問題。少なくとも哲学対話に関しては、たんに技術やサービスに明るい人だけを参加者として受け入れればよいというわけではない。授業の場合はどうなんだろう。

 チャットの機能をどう捉えるかというのもなかなか難しい。ひとつは発言者は誰なのかという問題に関わるから。声を出して話す人と文字を打つ人が同時に存在すると、いまこの哲学対話においてみんなが耳を傾ける、あるいは注意を向けるべき発言者は誰なのかということがわからなくなってくる。

 もうひとつは、仮に声を出して発言している人がみんなの注意を向けるべき発言者だったとしても、チャットはそれを無視して投稿したり、発言者が最後まで話し終わる前にその発言について投稿したり、あるいは現在の発言者よりも前の発言者の発言について投稿できてしまうところが難しい。

 世の中には発話をするのが困難な人もいるし私には参加者を発話に限定するような仕方で狭めたくないという思いがあり参加の仕方を音声だけに限るということはできればしたくないのだけど、かといって誰かが話しているときにはその人の話に耳を傾けましょうというルールは徹底したいというジレンマ。

 参加の条件設定問題と参加の手段・方法の問題から他者性の話につなげたい。これは昨日の哲学対話でも出てきた話。対話(ダイアローグ)というのは他者がいて初めて成り立つものなのでひとりしかいなければモノローグ(独白)になってしまう。複数の人がいても同質な人ばかりだとやはり対話にならない。

 対話が成立するためには、ひとりか複数かということではなく(むしろひとりで成立する対話概念の可能性についても考えたりしている)同質でない他者の存在が不可欠。だから哲学カフェの参加者は属性が偏らないように工夫することが求められるし、属性で制限しないことが重要だと私は言い続けている。

 このことから私はオンラインでの哲学対話において参加者を技術的な点で制限することはできるだけしたくないし、参加の仕方についても映像を出すことを条件にしたり音声で発話することを条件にしたりすることはしたくないのである。ただ、そのことによって哲学対話が成立しなくなるのも困るなと。

 たとえば、ものすごく極端な例になるけど、マイクをオンにしたままスピーカーから音を出している参加者が原因で音がハウリングして対話が続けられなくなったとする。その参加者に誰かが問題を伝えても、何が問題か理解できなかったりマイクをミュートにするなどの問題の解決方法がわからなかったら。

 まあ今回はオンラインであることをまずは前提にした上での議論なのでオンラインであることそのものの参入障壁は問題にしないけど、じっさいには技術や知識の点だけでなく通信機器の所有状況や通信環境の差などオンラインであることが排除する潜在的な参加者についても別の機会に考える必要がある。

 オンラインでの哲学対話についてもうひとつ思ったこと。対面で哲学対話(哲学カフェ)をおこなうとき、私は途中入退場自由という立場なんだけど、オンラインでも同じように考えていたら、対面のときとは少し状況が違うことに気がついた。

 お手洗いや飲食物を注文するために一時的に席を立つというのは別として、対面の哲学カフェで途中退場した人が再び対話の場に戻ってくるということはほとんどない。ところが、オンラインでの哲学対話においては、理由はいろいろあるにせよ退室や入室を繰り返すということがまま起こる。

 ここでも哲学対話に〈参加する〉とはどういうことなのかが問題になる。少なくとも私は途中入退場を認めているので対話の場に最初から最後までいることだけを参加の条件にしていないのは明らか。では、対話の途中に何度も出たり入ったりする人は対話に参加していると言えるのかと言われれば難しい。

 ざっくりだけど気がついたことはだいたい書いたので、とりあえず昨日のふりかえりはこれぐらいにしておこうかなと。また思い出したことがあればこのままぶら下げる形で投稿していこうと思う。

距離感がなくなる

 対面で哲学対話を行う場合、私は会場の広さや明るさ、天井の高さや窓があるかどうかなど環境について気を配るようにしている。中を見ることができないドアによって会場の内と外とが仕切られている場合、初めての参加者やある種の人たちにとってはドアがあること自体が参加を思いとどまらせる障壁になってしまう。だから哲学カフェを開催するときには、どうすれば参加しようと思っている人が参加しやすい環境を整えられるだろうかと考える。

 こうした環境のひとつに座席の配置がある。進行役と参加者、あるいは参加者同士の顔がよく見えることを基本としつつ、進行役や参加者から少し離れた周辺をつくっておき、がっつり哲学カフェの中に入っていくのは嫌だけど少し覗いてみたいとか軽く参加したいという人にも開かれた場をできるだけ実現できるようにと考えている。それは立ち見でもいいし、入り口付近に設置されたイスでもいい。

 こうすることで進行役にも参加者にも各参加者の参加の度合いというか積極性・消極性のようなものがある程度わかるようになるのだが、オンラインで哲学対話を行う場合、こうした距離感がほぼなくなってしまう。もちろんそれは映像を出すとか出さないとか、声を出すとか出さないとか、あるいは映像の先で別のことをやっているように見えるとか見えないとか、距離感をうかがわせる情報がまったくないわけではないのだが、対面でやるときの情報量と比べると格段に情報量が少なく、距離感を分かりづらいという問題がある。

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