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「徳は教えられるか」をめぐる本質的な議論




私は今56歳だが、この年になってから哲学の古典を読むことになるとは思いもよらなかった。人生と言うのは本当に予測不可能なものだとつくづく思う。

私が哲学に出会ったきっかけは、古くは大学時代だが、大学を卒業してからしばらく哲学と言うものに触れる機会がほとんどなかったと言っても良い。しかし昨年ある事件に遭遇してから、自分の中に怒りや悲しさや切なさや辛さなどの様々な情念が蓄積し、そこから抜け出すために、哲学を学ぶきっかけになった事は間違いがない確信がある。

最近読んだ本(「人間は話している時、考えていない」)の中には、人間の情念が思考活動の動機付けやトリガーになると言うことが書かれてあった。さらに言えば、人間の思考活動と言うのは、日々の習慣の中にどっぷりつかっている状態ではほとんど発生せず、一方で、何が普段の習慣や枠組みから外れた出来事に遭遇すると、そこにある種の「驚き」が生じて、その結果、自分の中に情念が蓄積し、それがトリガーとなって、情念にとらわれている受動的な状態から抜け出すための主体的な取り組みの1つとして、思考活動が始まると言うのだ。考えてみれば、私の思考活動としての哲学は、まさしく自分の中にあった情念が出発点であった事は、深い確信とともに納得することができる

そんな私が今回で読んだ哲学書はギリシャ哲学のプラトンの書いた「メノン」と言う本だ。プラトンと言う名は知っていても、この本のタイトルを知っている人は少ないかもしれない。私もつい数日前までは知らなかった。ある哲学仲間からこの本の存在を知り、初めてこの本を読むに至ったのだ。





この本に書かれてある根源的な問いは「人は徳を教えることができるか?」である。

これは道徳教育に携わるものだけでなく、広く教育に携わる者にとって、避けることのできない問いの1つであると言っても良いのではないか

私の場合に限って言うと、私は日々オーストラリア人の小学生たちと接しているわけであるが、彼ら彼女たちが様々な行動を示す中で、それが必ずしも学校教育本来の目的に合致しない内容を含んでいる場合が多々あったりするわけであるが、そうした彼ら彼女の中にどうしたら徳が内面化するだろうかと言う問いは、実は言語化しなかったにせよ、ずっと私の心の中にあったような気がする。

先程の「徳は教えることができるか」と言う問いに対して「徳はどのようにしたら教えられないか」と言う逆説的な問いに関しては簡単に答えることができるように思う。すなわち、一方的に教師から叱りつけるような感じで「〇〇しなさい」とか「〇〇してはいけない」と言い続けても、そこで含まれている徳を教える事は絶望的だと言っていいということだ

ではどのようにしたら徳を教えることができるのだろうか? 別の言い方をしたら、どのようにしたら徳を身に付けることができるのだろうか?

この問いに答えるためには、まずこの問いの前提となっている考え方をしっかりつかむ必要があると思う。言ってみれば、それは「人間に自由意志があるかどうか」と言う議論である。今の時点で、この自由意思を自分なりの言葉で簡単に定義すると「意識的に自分の言動を選択•決断すること」ということができるのかもしれない。

すなわち、「徳は教えることができるのか」と言う問いかけの中には、根本的に人間に自由意志があるのかどうかと言う議論も含まれているように感じる。

つまり、もし人間に自由意志がなかったら、そもそも徳自体自分の意思ではどうにもならないものであり、したがって教えることもできないと言うことになってしまうからだ。また、人間の徳を含んだ行動が、運命や脳や環境や神様や仏教的な縁などで決定されてしまうとしたら、そもそもそれを身に付けようとする教育活動自体も、意味をなさなくなってしまうからだ

したがって、この「メノン」と言う本の中で展開されている議論の前提として自由意志があるということが指摘することができる。

私も個人的には自由意志はあると確信しているが、今日脳科学のある実験のために多くの人が自由意志は無いと信じてしまっている現状がある。すなわち、人間が何かをやろうと思って、自分の意思で決めたと思ったとしても、既にその意志の前に脳がその行動を促していると言う実験結果があったようで、そもそも自由意志があったから行動するのではなく、脳がそのように命令したから行動したと言う認識が結構信じられているのだ。

すなわち、その実験においては、人間の自由意志は、後から人間が自由意志だと思い込んでいるものを後付けしたに過ぎないと捉えているわけだ。

この実験に関しては、様々な観点から批判することができる。

まず第一にこの実験は自然科学の実験であり、人間の複雑な思考活動をこうした自然科学のアプローチ1つだけで断定することができないということ。

第二に、カント哲学が明らかにしたように、自由意志のような形而上学的な概念については、人間は主観の外に出られないので究極は到達することができないということ。別の言い方をすれば、自由意志があるかないかは、究極は人間にはわからないと言うことだ。

したがって、私は先ほどから自由意志があると言う前提で、この話を進めてきたが、哲学的•原理的に言ったら、実は自由意志があるかどうかは、人間である以上、誰も断定ができないということなのだ。

ではそこから話が全く進まないのかと言ったら、そうではない。これはドイツの現象学の哲学者である。フッサールが明らかにした方法によって話を前に進めることができる。

簡単に言えば、人間は主観の外に出ることができず、誰も客観的事実や絶対的真理、すなわち形而上学的なところには到達することができないのだとしたら、自分の主観の中で確信したことを持ち寄って、共に対話をすることによって、合意できるところで合意していこう(共通了解できるところで共通了解していこう」と言う方向によって前に進めることができると言うわけだ。

したがって、先程の自由意志があるかないかの議論についても、結局は人間である以上、結論が出ないわけであるが、では「どういう条件のもとであれば、自由意志があると確信することができるか」、また、「どういう条件のもとであれば、決定論を確信することができるか」と言うような問いかけにして、思考活動を進めると、より多くの合意を得やすくなるのではないかと言うことだ。

徳と言うことに関して言うと、いじめを見た場合に、そのいじめがなぜ発生したかと言うことについては、いじめっ子1人の自由意志の結果だとは言いがたいと思う。その子の置かれている環境や、人間関係や、その日の気分や体調の関係など、様々な複雑な要因が絡み合って、そうした行動が生み出されている可能性があるからであり、いじめっ子1人の責任であるとは断定する事はほぼ不可能であると言っていいだろう。

しかし、そうしたいじめを目撃して、それに対してどのような行動をとるかに関しては、100%の自由意志とは言えないものの、かなりの割合で自由意志を行使していると言えるのではないだろうか。目の前で展開してるいじめに対して「やめろよ」と言って止める行為はかなり自由意志が強いと思うし、それができなくても、担任の先生にそのことを伝えるのも自由意志の割合が高いと思われる。

そして、冒頭から触れている「徳を教えることができるか」に関して言っても、徳を教えるための授業の準備をしたり、徳について理解しようと思って、様々な人と対話しようと思ったり、徳についての本を読んだりすると言う行為の中にも、100%とは言えないまでも、自由意志がかなり入り込んでいると確信しても良いのではないだろうか

しかし、こういうことを言ったとしても、自由意志を否定する人たちにとっては、全てが絵空事のように聞こえて、全く同意をすることができないかもしれない。

しかし、だからといって決裂したり対立するのもあまり得策ではないように思う。なぜなら、私たちはこの社会においてどんな考え方を持っていたとしても、そういった人たちと共存していかなければならないからだ。自分と意見が違うからといって対立したり戦ったりしていては、これは戦争の歴史を繰り返していた人類の段階に逆戻りと言うことになってしまう。今現在も残念ながら戦争の時代に逆戻りしそうな動きはあるが)。

ここで、歴史上ヘーゲルによって生み出された「自由の相互承認の原理」が重要な意味を持ってくる。つまり、自由意志だけでなく、様々な形而上学的なものに対して、それが正しいか間違っているか、存在するかしないかで議論していると、いつまでも決着がつかないだけでなく、様々な深刻な対立を満たすことにもなるので、お互いがお互いの自由を著しく侵害しない以上、そうした自由を承認していこうと言うヘーゲルの「自由の相互承認の原理」を守っていくことしか方向は無いのではないかと言うことだ。

したがって、自由意志を信じようと信じまいと、もし徳欠ける行為があり(犯罪行為など)、それによって自分の自由が著しく侵害されることについては、それをよしとしないと言う点においては合意することが可能なのではないだろうか

したがって、そうしたことが起こらないように、あるいは少しでも減らすようにするために、どのようにしたら人々の中に徳が内面化し、それが実際の行動に反映されるだろうか、そのために教育に何ができるだろうかと言う点に関しては、話し合いができるのではないかと思っている。

皆さんはどう考えるだろうか。

野中恒宏

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