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「生まれつき」論批判




何のために哲学を学ぶのか。

哲学を学んだことのある方であれば、この問いに出くわした事はあるかもしれません。

私にとってこの問いはとても重要で、少しでも自分の抱えている問題や人々の抱えている問題の解決に結びつくようなヒントを得たいというのが 1つの大きな動機となっています。

今回読書会で学んだ哲学者のヒュームの「人性論」には、「生まれつき」を理由に人々の知識のあり方を非難する風潮に対して、それを痛烈に批判する力強いパワーがあると感じました。

残念ながら私たちは社会の中で、様々なレッテルを貼られ、特に知識に関して「生まれつき」を理由にして、頭の良し悪しを決めつけられてしまうことが少なからずあります。

しかし、私たちは、人生の経験において、生まれたばかりの赤ちゃんと言うのはまっさらな状態で生まれてくると言う事は多くの人が実感してると思います。私たち人間が生まれながらにして持っている天賦の知と言う考え方を退け、私たちが身に付ける知識と言うのは経験の中で培われてきたものであると言うことを強調します。



古代ギリシャの昔から哲学の中では、人間の中に経験とは独立した「イデア」の世界があり、私たちの日々の考えなどは生来こうしたイデアの反映であると考えられてきたりしました。

しかし、ヒューはこうした経験から独立したイデアの知のあり方に対しても懐疑的でありました。こうしたイデアの世界では、私たちの日常の経験では、それを確かめられないからなのでしょう。

こうしたヒュームの考え方は、取り組み次第で、人間は誰でも知識を1から身に付けることができると言うことを示唆しており、多くの人を勇気づける考え方になるのではないかと思いました。

確かに、ヒュームの考え方に弱点がないわけではありません。実際には、数学の公式のように、人間の経験からは独立して存在している知が存在していることは否定できないと思います。

しかし、ヒュームの人間の知識に対する考え方は、生まれつきによって知識のあり方を固定的に決めてしまう決定論を揺さぶる上で、いまだに有効な力を持っていると思います。

ただし、ここで注意したいのは、ヒュームは経験によって獲得した知識というのを絶対視していたわけではないということです。つまり人間はその短い人生の中で経験できることも限られていますし、その限られた経験によって全てを知ることもできないわけで、経験によって得られた知識にも限界があると考えていたということは指摘しておきたいと思います。

その意味で、人間は絶対的真理に到達できないからこそ、地道に普段に学んでいく必要があるんだと言うふうにもメッセージを受け取ることができます。

野中恒宏

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