見出し画像

なぜ他者の苦痛に無関心でいられないのか?


はじめに

よくニュースなどで、何か困っている人を見かけたときに、助ける人もいれば、見て見ぬふりをしたりする人もいるみたいな話題を聞くことがあります。そうすると、世の中には親切な人と親切じゃない人がいるみたいに思っちゃう人も多いかもしれません。

私もそのような人間も1人でした。しかし、鷲田清一さんの「聴くことの力」を読んでから、こうした考え方は表面的な見方に過ぎなかったのだなぁと思うようになりました。


無関心ではいられない


どういうことかと言うと、私たち人間は痛みや苦しみを感じている人間を目の前にすると、デフォルトとして、相手に無関心ではいられない状態を体験すると言うのです。別の言い方で言うと、誰かが痛みを体験している場合には、こちらの眼差しがまるでブラックホールに引き寄せられるように相手の痛みに向くと言うのです。つまり、私たちはデフォルトとして、相手の痛みに対して無関心ではいられないような設定になっているようなのです。

本当に鋭い本質洞察だと思います。


これは生物学的に言えば、人間にはミラー細胞が備わっており、目の前の人間の状態を鏡のように反映して受容してしまうと言う言い方もできると思います。しかし、哲学的に言うと、人間は可傷性(傷つきやすさ)を持っており、それ故、相手が苦痛を体験していると、こちらもそれに感応して傷ついてしまうことがあると言う言い方をするようです。

​選択する前に何が起きているか


つまり、私たちも何かに関して、傷ついたり苦しんだりしている相手を見たときのことを思い出してみるとわかりやすいと思うのですが、まずはそうした人たちを目撃すると、何かこちらの心も苦しくなったり、重くなったりする瞬間を体験するのではないでしょうか。そして、その後にそれに対してどう対処するかの意識を巡らせると言うふうに考えると、非常にしっくりくるのではないでしょうか

冒頭で述べたように人に親切にするとかしないとかは、私たちがまず相手の苦痛に対して感応して、こちらも苦しさを体験している状況に対して事後的に対応する選択肢に過ぎなかったのです。平たい言い方で言えば、本当は誰でも他人の苦痛に対して無関心ではいられない状態を体験するにもかかわらず、その後にどう対応するかは様々な要素によって規定されると言うわけです。



責任の根

したがって、親切な人と不親切な人がと言う言い方は正確では無いわけで、本当は誰でも相手の苦痛に傷ついて、共に傷を共有する体験(全く同じレベルの傷であるとは言えないが)が訪れていると言うわけです。

「聴くことの力」の著者である鷲田さんの言葉を借りれば、私たちはその意味で、誰でも他者からの苦痛に対してどのような選択をするかと言う「責任の根」を体験していると言うことになるようです。言い方を変えれば、傷を共に体験した以上、責任持って自分がどのように行動するかを選択しなければいけないと言うわけなのです。


​世界の戦争をどう見るか

そう考えると、今現在世界で展開している戦争についても、さらに深い見方ができるのではないかと思うのです。すなわち、人間である以上、苦しんでいる人を目撃した場合、どう対処するかを選択する前に、すなわち自由意志を発動させて、どうすべきかを選択決定する以前に、既に他者の苦痛に反応して、自分も苦痛を体験していると言えるわけですが(どう対処すべきかと言う責任を負っているわけですが)、あのような行動をとっていると言う現実が浮かび上がってくるわけです。

つまり、多くの人々の痛みを体験しているにもかかわらず、あのような選択をして、さらに時代を深刻化させている人々が世界にはいると言うことなのです。


おわりに


もちろん、複雑な国際情勢の中では、戦争の動機や目的や、現場などは、無数の複雑な要因が絡み合っており、単純に論じることができませんが、人間の実存レベルに焦点を当てると、他者の傷に対して、自分もその傷に対して感応してしまうと言うこと(他者の傷に無関心ではいられないこと)は動かしようのない人間の性質であると言う事は言えるのではないでしょうか? どう思われますか?

野中恒宏




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?