私達は全てに「意味づけ」して生きている。
こんばんは、イラストレーターのマルオです。
今日は、「意味づけ」について。
私達は普段、
全てのものに「意味づけ」をして
生きています。
実は。
「実は」というのは
多くの場合、このことに気づかずに
無意識に行なっていることだからです。
「意味づけ」は、
自分を取り巻く世界を構築するのに
必要なことですね。
私にとって、
誰々はこういう存在である。
これこれはこういう意味を持つものである。
と自分の価値観フィルターを通して
意味づけし、定義しています。
もし、その無意識の意味づけが
自分にとって苦しいものであったなら
その前提を一度見直してみるといいと思います。
ほんとうに
それは
自分が意味づけしている
価値だけの存在なのか?と。
案外そんなことないんです。
やってみると良いのが、
全く反対側から眺めてみるということ。
苦手な人がいたとしたら
その人と問題なく心地よく付き合っている人の
見ているであろう側面を想像してみるとか。
すると、
自分がいかに一面的に
人を、物を見ていたかが
わかったりする。
合う合わないは
もちろんあるけれど。
「絶対的にその人が悪い人」と
意味づけするのか。
「私にとってはこの側面が苦手な人」
と、ちょっと見てみるのか、
というところかなと。
最近思うのですが
全て身の回りに起こることについて
「自分の身に起こっている」と見ずに
「〇〇さんという人に起こっている出来事」
と俯瞰的・客観的に見ると
とても良いということ。
俯瞰的に見ることで
「私」を
面白く見ることができたり
愛おしむことができたり
応援できたりするんですよね。
そして
感情が直接的に揺さぶられないことで
冷静に状況を眺めていられたりする。
ちょっと話がずれましたね。
意味づけの話。
近視眼的に意味づけすると
全体像が見えない。
少し引いて
俯瞰的に 多角的に
意味づけすると
面白く全体像を把握することができる。
物事の意味づけは
俯瞰的で多面的であることで
面白みを含んだものになると思います。
力を抜いた方が何事もうまくいく、とか
いいますよね。
なんか、感覚的にはそんな感じです。
ゆる〜っと引いて
自分が付与できる意味を
いろいろ想像してみる。
ああかもなぁ、
もしかしたら、こうかもなぁ、と。
後半、何の話?ですね。笑
今日も読んでくださって
ありがとうございます!