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発達障害の生存戦略 〜生きづらさと才能を超えて〜

はじめに

当事者が考える生存戦略

私は発達障害当事者です。
ADHDかつASDで、ASDの特性の方が強いように思います。

実際に診断も受けているので、自称ではありません。
他人とのコミュニケーションが難しく、衝動性が高く、こだわりが強い、のが私の特徴です。

そんな私が、自分の経験をふまえて、発達障害の方のための生存戦略を考えてみたいと思います。

発達障害の生きづらさ

昨今のメディアでは、「発達障害の生きづらさ」ばかりが取り上げられているように思います。

実際に、多くの当事者の方が「生きづらさ」を抱えておられると思います。
ただ、これは「生きづらさ」というよりも、「定型発達と発達障害との齟齬と考えた方がいいのでは?」と私は思っています。

当事者同士では、何の齟齬もない

不思議なことに、発達障害の当事者同士が関わるときは、何の違和感もありません。

急に全く関係のない行動をし始めても、「楽しそう」と思います。
よくわからないことを言い始めても、「こだわってるねぇ」と思います。
忘れ物が多くても気になりませんし、「あ、僕も忘れ物してたじゃん!」と気づくことができます。(むしろありがたい)

そう考えると、発達障害者が「生きづらい」のは、定型発達の人たちと関わるからだ、と考えることもできます。
当然、脳の構造が違えば、齟齬も起こります。

まあ、向こうのほうが多数派なので、数の圧力から「発達障害の側が合わせる」ってのが当然のこととされているだけなんですよね。

発達障害の才能

私自身、発達障害のおかげ(?)で、今まで他の人にできなかったことができていたようにも思います。

恋愛の経験人数は200人以上です。
大学在学中に起業しました。
他人の意見は無視して、挑戦できます。

イーロン・マスクやスティーブ・ジョブス、坂本龍馬なども発達障害である(あるいは、あった)と言われており、定型発達の方にはできないことができるのもまた、真実なのでしょう。

いや、そういうことじゃない

偉人などを引き合いに出す人もいますが、「いや、そういうことじゃない」って思いません?
「才能があるんだから、発達障害でも大丈夫」っていうのは、すごくウザいメッセージですよね?

だって、「発達障害にも価値があるから、仲間にしてやろうぜ〜」な感じが透けて見えてませんか?
(私が皮肉れてるだけでしょうか…?)

私は「いや、そういうことじゃないだろ」って思うのです。
別にわかってもらわなくてもいいから。
私は、求められたり、受け入れられたりすることよりも、自分が心地よい生き方を求めたいんだよ、って感じがします。

発達障害の生存戦略

ありのままに生きる

私は「発達障害者が、生きづらい」というのは、間違っていると思います。
齟齬が生まれ、それの原因が発達障害者の側に押し付けられているだけです。

と同時に、「発達障害者には、才能がある」というのも間違っていると思います。
認められるような才能がなくても、その人らしく生きればいいわけです。

発達障害だからといって、「自分を理解して、特性を弱めよう」とか、「薬を飲んで、特性を抑えよう」とか、考える必要はないのです。
ぶっちゃけると、発達障害の特性で困るのは、当事者じゃなくて他人です。笑

待ち合わせに遅刻しても、話が噛み合わなくても、仕事でミスをしても。
全部、他人がサポートしたり、困るだけであって、自分は関係ありません。

理解ある人だけで周りを固める

私は生存戦略として、理解ある人と関係する(友達・恋人・配偶者などになる)ことが、1番手っ取り早いと思っています。

「理解ある」というのは、重要です。

発達障害者の方の中にも、「自分は発達障害でも今まで頑張ってきたし、うまくいってきた」なんて言う人もいますからね…。
定型の方の中にも、「また忘れ物したの!おもしろ!」って言ってくれる人もいます。

理解ある人と共に生きていれば、別に特性を「治す」必要はなくなるわけです。
自分をおもしろがってくれて、そばにいてくれる人がいれば。

その上で、迷惑をかけているからこそ、その人たちをより大切にし、一緒に生きればいいのではないかと思うのです。

そんな人生、すてきやん?

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