「正義」の旗が強すぎる

都知事選の投票率の低さが話題になっている。
今回の投票率は55.00%で、前回から少し下がったらしい。仕方ないと割り切ってはいけないのだが、悪天候のせいもあっただろうか。
(出典、https://www.asahi.com/articles/ASN7600FDN75UTIL03N.html)

昨日は、多くの有名人が選挙に行ってきたとツイートをしていた。
私は都民ではないから今回の選挙には参加していないのだが、この間の衆院選の雰囲気からしても、おそらく都内の各所で「選挙行った?」などの会話が聞かれたのだろう。
そしてテレビやSNSでは、選挙に行こう、当日行けない人は期日前投票へ、などなど有識者やタレントが繰り返し述べていて、その甲斐あってか数年前より少しは投票率も盛り返している気がする。

日本は民主主義国家だから、主権者である国民は選挙に参加しなければならない。
理屈はよくわかるし、全くもってその通りで、事実、私も選挙権を得てから理由なく棄権したことはこれまで一度もない。
それはそうなのだが、最近、この圧力で少し息苦しくなってきているのを感じる。

開票後、恐らく支持者が落選したと思われる人々が、これも投票率が低かったからだと棄権者をなじるようなツイートを数多くしていた。
今日ウェブ記事を見ると、なぜ若者は選挙に行かないのかなどと投票率の低さを問題視するものがたくさん出ているようだ。
確かに国民は選挙に参加すべきという点で理は彼らにある。しかし、あまりにも「正義」を強く振りかざしすぎているような気がする。
道徳観や倫理観が絡む口論になった時には、基本的には正義が味方している方が強い。今回でいえば、理由なく投票を放棄した人は、面と向かって責められると反論しにくいだろう。
投票に行った人たちが、その強みに乗じて弱者を袋叩きにすることに、どれほどの意味があるのだろうか。

近年、文春砲などと言って、スキャンダルを曝露された芸能人がそのまま業界から消えていく、あるいは自粛させられるという風潮がある。
しかし、例えば不倫をした者が我々に謝罪したり活動を自粛したりするのは理由がよくわからない。大勢の視聴者は別にそこから迷惑を被ってはいないし、個人的な問題なのだから、勝手にそちらで解決すればよいではないか。
最近になって浮き彫りになってきたのが、どうやらこの手の問題があると悪者を集中的に叩く人が一定数いるようで、その圧力によって彼らはこれまで通りの活動をできなくなるらしい。
叩く方はそこまでして一体何の得があるのだろうか。個人的な恨みがあるわけでもないというのに。

寛容さとはまた違う、適切に無視する能力のようなものが、今の時代の我々には欠如しているのではないかと思う。
社会が生きづらいのは確かに政治のせいかもしれないが、いつになっても政治がよくならないのは、些細な問題にまで敏感に反応する社会の圧力があるせいではないのだろうか。
こんなことを繰り返している限り、どれだけ経とうが私たちの生活から不満がなくなるようには思えないのだ。

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