今もどこかで

考えがまとまっているわけでもなく、書かなければいけないわけでもないのでこのまま胸にしまっておこうかとも思ったのだが、どうにも思った以上に感動してしまって、外へ出さずにはいられなくなったのでここに書く。

二年前のことだ。大学三年生から四年生にかけて、個別指導塾でアルバイトをしていた。
そこは大学受験をする中高生に教えるという学生にとってはややハードルの高い塾で、二年目になった私はどういうわけか塾長からの信頼がそれなりに厚く、一人の高校三年生の女子生徒を専任で担当していた。

その子が入塾したのは高校二年生の終わり頃で、運動部の活動も夏までは忙しいものの、そう言っていては受験に間に合わないと、恐らくは渋々、通うことに決めたのだった。
当初は授業は週に一回、二コマで科目は英語と国語。
それなりの進学校のようだったが成績は惨憺たるものだった。学内での順位もかなり低い方だったらしい。単語や慣用句を覚える習慣がないし、習ったはずの英文法や古典文法も覚束ない。現代文も感覚で選択肢から選んでいるだけで内容が全然とれていない。
まだ一年以上の時間があったから、私と塾長が長期的な計画を立てて少しずつ遅れを取り戻していくつもりだった。途中で時間が足りないとなり、授業の時間数を増やし、週に二回の通塾にもした。
彼女は部活動にかなりの熱意をかけていた。そのあたりの出身ではない私は知らなかったが、どうやらなかなかの強豪校だったらしい。三年に向けて悔いは残したくない。授業よりも雑談が好きらしい彼女は、毎回顔を合わせる度にそんなことを言っていた。それに圧されて、私が出す宿題の量を減らすことも度々あったほどだ。
結局、最後の試合で満足のいく結果が出せたのかは私は知らない。次に会った時には彼女は過去のことを語ろうとはせずに、しっかりと受験に視線を据えていたからだ。
そこから彼女は毎日、聞いたところによると私がいなかった日にも塾へきて、追い出される夜十時までずっと自習をしていたらしい。そのような生徒はその子ともう一人だけで、すっかり他のスタッフとも顔馴染みになってしまった。
私がアルバイトをしていたのは生活費の足しにするためだったが、それでも頑張っている人を本気で応援することは楽しかった。休日には本屋に行って、無給なのは承知の上で彼女の受験校の赤本を全て立ち読みして対策の立て方を考えたものだ。

結果としては残念ながら、第一志望に合格することはできず、一番下の滑り止めになんとか引っ掛かった形だった。
私はその事を塾長から聞かされ、あれだけ毎日頑張っていたのにとか、私のサポートがまずかったのだろうかとか、色々なことを考えたのだが、もう勉強をする必要のなくなった彼女が塾へ来ることはない。
センター試験や第一志望の試験の前日に、珍しく緊張して口数も少なかった時の固い表情が瞼の裏に浮かぶ。聞きたいこともかけてやりたい言葉もたくさんあったのだが、どちらも叶わないまま時間だけが過ぎていった。

ようやく会ったのは彼女の最後の通塾日で、塾長がなんとか私の都合と合わせてくれたのだった。落ち込んでいるかと思った彼女の表情はもう晴れ晴れとしたもので、何のわだかまりもなく、先生、ありがとうございました、と笑顔で言ってくれた。
その時の私はあまり長く話をできなかった。大学ではどんなサークルに入るのだとか、アルバイト先がもう決まっているのだとか、そういう話を塾長としているのをずっと隣で聞いていた。
帰り際になって、先生これ、と封筒を手渡された。ありがとうございました。表には何も書いていなくて、あとで見るよ、とだけ言ってそのまま別れた。

私はその手紙をもちろん帰ったあとすぐに読んだ。中にはA4のレポート用紙で二枚分、塾に入った直後からの感想と感謝の気持ちが、現代文の苦手な彼女らしい拙い文章で綴られていた。
初めは部活との両立が辛かったこと。焦っていたときには励ましてもらって嬉しかったこと。合格することはできなかったが、自分で予想していたよりも最後まで頑張れたと思うこと。
表現や漢字の誤りをいくつも見つけたが、そんなことはどうでもよかった。習字をやっていたという綺麗な字の中に彼女なりの強い自信を見た気がして、私は救われたのだろう。

あれから二年が経った。
私がその生徒の連絡先を知ることはなかった。もしかしたら男子生徒であれば、塾としても問題なく聞くこともできたのかもしれないと思うと、なんとなく悔しい気もした。
強いて会いに行く手段を講じるつもりはないが、今、大学二年生になった彼女が何をしているのかを知りたいと思う。あの時にあれだけ自制して最後まで戦うことができた彼女だから、このコロナ禍でもいろいろと工夫をしてうまく乗り切っていることだろう。
そう思いながら、二年間なんとなく読み返す気になれなかった手紙を久しぶりに開いてみた。
綺麗な字で書かれた間違いだらけの文章に、私は一息に二年前まで連れ戻され、目頭が熱くなった。


私もあの時に数々のことを学ばせてもらったのだ。願わくば、今もどこかで戦う彼女の中に少しでも、私の話した言葉が残っていればと思う。

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