自分の力とは、「集中する力」、「感じる力」、「振動する力」、「視覚化する力」、「経験したい現実について考える力」にある。
いろいろな「意識のエネルギー」が感じられます。
この「意識のエネルギー」は、「信じる力」により自分のものとなり、発動すると考えます。
過去に於いては、多くの「信仰者」が体現して来たことですが、現在においては、その力を殆ど失いつつある様に思います。
では、「信じる」とは、どう言ったことなのでしょうか。
「信仰」というと、まずは何やら怪しげな宗教でも、「信じる」ことで力が発動される現象が考えられます。
これらは、「関係の意識」の思考とっては、有効な手段となりますが、「科学の時代」にあっては、取り立てて、有効な力とはなり得ていない様です。
「科学」とは、2元性(物質性)による「客観的な力」の集積であり、「信仰」にとっては、相反する「意識の方向」が含まれるのです。
「科学的な理性」にとっての「信仰」とは、単なる「力の明け渡し」に過ぎないのであり、それ以上でも、それ以下でもないのです。
さて、では、「信じる」とは、本当にそれだけのものなのでしょうか。
それは、「科学的理性の段階」の人間にとっても同様なのでしょうか。
「可能性を信じる」という言葉がありますが、これらは「信仰」とは違い、確率的な可能性を指します。
あくまでも可能性ですから、科学を無視した言葉ではありません。
でも「信仰」は、「科学」を完全に無視します。
否、「科学」を完全に無視しなければ、「宗教的な信仰」など到底あり得ません。
これらは、政治と結びついて、多くの害悪をもたらしました。
さてさて、では、何故、私は、こんな事をグダグダと書いているのかと言いますと、私は、「アルクトゥルス評議会」のメッセージから、多くの「励まし」をもらったからです。
この様な、シンクロするメッセージは、奇跡とも、偶然とも解釈が可能であり、何とも筆舌に尽くし難いものがあります。
では、これらは「信仰」なのかと問われると、彼らを信仰したことは、ありませんし、条件付きの信頼であり、盲目的ですらありません。
では何故、「励まされる」のかと言いますと、過去の体験が、それへと誘うからです。
体験から感じ取れたスピリチュアルな感覚が、まさに「アルクトゥルス評議会」のメッセージに含まれるからです。
これらは、「信仰」とは違っていて、「体験の意味」と「信じる心」から出来上がって居るのです。
そう言った意味でも、「私の位相軸」だけの「信頼関係」なのです。
こう言った、「信頼関係の集積」が、次元上昇した「場の意識」となり、そこで繰り広げられる「関係の意識」が、新たな人間関係を創り出すのです。
私が過去のブログに書いて来た、「偶然と奇跡」の数々は、しっかりとした証拠と共に、申し分なく機能するのです。
そして、それについてよく考え、「信じる心と証拠」を積み重ねながら、目に見えない力を感覚化し、視覚化してみることにより、創造されしアセンションに気付くのです。
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