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「場の意識」の体験について2

『場の意識』の体験の中には、「禅」に通じるものが多くあります。それは、宗教としての「禅」と言うよりも、「空(無)意識の働き」としての意味合いが強くあります。「無意識」ですから、私の『関係の意識』は何も知らない、つまりは「無自覚」なのです。

ただ、その体験の後には、心の何処かで、それを求めていた感覚が沸き上がってきます。

それは、鳥取から京都に転職した際の偶然の巡り合わせの後に感じた「京都に住みたい」との感覚もそうですし、過去に国道9号線を亀岡から京都市街に向って下った際に思った「この近くに住むことになる」との空想の感覚もそうだったのです。

そしてそれは、私の生誕の地(北九州)にまで遡って、「産土の土地神様」との「ご縁」となって、私の『場の意識』に、深く刻まれていたのです。

この様な体験は、私の「人生の暗黒期」の「見性体験」以降に、意識しだした出来事で、それ以前には、想像さえもしたことがなかったのです。

これを「信仰」と言うくくりで捉えようとしても、全く「無自覚」なうえに、「自分」の意思と言うよりも、もっと「大いなる自分」の意志としか、形容しようがない「出来事」なのです。

これを表現するのに「最も相応しい物語(理屈)」は、

【私の『関係の意識』の生誕時に刻まれた、基礎となる『場の意識』への「意識(意味)エネルギー」としての刻印】

との解釈です。

これらは、「意識」を「意味作用のエネルギー現象」として捉えた場合の、最も合理的で科学的な理屈と言えます。

何故今までこれらが、「客観現象」として「人間の思考(意識)」に登らなかったのかと言いますと、『関係の意識』でしか、物事を理解することが出来ていなかったからです。
言葉を変えると、その意識自体を相対化する『場の意識』が、顕在意識に登らなかったからなのです。

『場の意識』は、「無意識」の深層深くに埋もれてしまっていたのです。

まあ、殆どに人は戸惑うばかりで、受け入れられない事だと思いますが、それは体験した当事者である私でさえも、同様だったのです。

それが、「見性体験」から「覚醒の自覚」に至るまでに、20年近くを要した理由です。

今さらですが、今まで書いて来た「ブログの文章」は、全て「体験」から入ったもので、「思想」や「信仰」、ましてや「空想」から展開した内容は、一つもありません。

ここを語らないスピリチュアルリーダーは、信ぴょう性に欠けると、私は考えています。

さて、私が『場の意識』というコトバを口にする際には「方向性」という表現を多く使用します。それは、人間が持つ「視覚」と呼ばれるセンスが、『場の意識』の世界を「空間」として、認識出来ないからです。

『関係の意識』にとっての「空間」は、「方向」と同時に、「距離」と呼ばれる「量」を、「視覚」によって感知できますが、『場の意識』にとっての「空間」は、「方向性」しか認識できず、「距離」と呼ばれる「量」を感知できません。そしてその、「方向性」としての性質が、「言語文化」と呼ばれる、コトバに固有の「意味作用のエネルギー現象」として理解が可能なのです。

それはある種の「芸術性」と呼ばれる価値となって、「高次元の方向」を指し示しています。

これらのコトバによる表現は、まだまだ手探りの段階ですが、世代を追うごとに、新しいセンスとなって、進化し続けると確信しています。

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