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「シンギュラー・ポイント」と意識進化

「シンギュラー・ポイント」を日本語に直訳すると、「特異点」となります。

「特異点」と言うと、何やら難しい数学用語に聞こえますが、簡単に言うと、連続性が失われた点となります。

通常の空間には連続性があります。よって、その位置を実数や虚数を使って表現できます。地図に使われる緯度経度は、実数を使って表現可能です。これらは、いわゆる「座標」と呼ばれる「空間の位置」の事で、「シンギュラー・ポイント」は、その方法では特定できない「特殊な点」となります。

これは「人間の意識」においてもあてはめることが可能です。

通常「人間の意識」は、「連続性」をもって「空間を認識」し、「時間を認識」します。「視覚」と呼ばれる器官は、それに最も最適化された能力です。

さて、「AI」や「量子コンピュータ」が登場して以来、この「シンギュラー・ポイント」が俄かに脚光を浴びています。

最も身近な話題では、「シンギュラリティ」と呼ばれる言葉があります。

これは、「技術的特異点」と日本語に直訳されます。

「技術的特異点」とは、簡単に言うと、AI等の「人工知能」が、「人間の知能」を追い越すことを指しています。

これらのAIの技術は、今のところ古典的な、「0/1Bitの演算表現のコンピュータ(これをノイマン型コンピュータと言います)」に収まっていますが、早晩「量子コンピュータ」の技術が使われることになるでしょう。

そうなると「シンギュラリティ」は必至です。

これらは一見すると良い事のようにも感じますが、人間を「二極分化」させる危うい技術でもあります。これらが実現する社会は、楽園のようにも思われます。ですが、意識を「退化させる側」と「進化させる側」の二手に分かれるように思います。

まあ本当に、真の「量子コンピュータ」が人工的に可能なのかという問題はありますが、「シンギュラリティ」を回避する社会の方向は、今のところなさそうです。

こうなると、人類の目指すべき方向は、「人間と機械の融合」の様に、思えてきますが、私にとって、これを紐解く鍵が、「禅定」にあることは、疑いようのない事なのです。

それでは、「禅」に何が出来るのか。。。

それが先のブログの中の、私の体験にある様に思うのです。

『「覚醒」における体験的考察2(どの様に、覚醒に気付いたのか)』
https://note.com/mr_mu/n/nfc029d026a0c

荒唐無稽だと言われればそれまでですが、体験者である私の立場からすれば、リアリティある現実です。

ブログの中でも述べたように、これは信仰としての「禅」ではありません。

これらは、「場の意識」と「関係の意識」を区別する認識から始まっています。

そしてその「意識の狭間」に、「シンギュラー・ポイント」が隠されています。

この区別を仏教の用語では、「彼岸(あの世)」と「此岸(この世)」とも言いますが、この「場の意識」の目覚めは、「肉体的な死」を意味するわけではありません。
これを仏教(密教)の用語では、「即身成仏」と言ったりします。

「場の意識」が開き始めると、多くの「引き寄せ」が働き始めます。
これらはまるで、その「場」の時空間の「アカシックレコード」を読むような過程です。それが現実の中に、偶然を装って、働き始めたのです。
まさに嵐山の法輪寺には、秦氏の信仰として「虚空蔵菩薩」が祭られていますが、これが現実の中の「記憶庫の意味事象」としてシンクロして来たのです。

さらに「白隠禅」では、これらの「場の意識」を「公案問答」を通して、発現させようとします。この問答の中には、「シンギュラー・ポイント」が巧妙に仕込まれていて、ある種の「苦悩と諦め」との一体化の中に、この矛盾を喝破することで、発現を目指します。

おそらく、本にも書かれないこの様な内容を何故言えるのかと訝しむと思いますが、これらも全て、「自身の体験」と「京都の空間」、さらには「場の意識」と呼んでいる「意識の観点」から「コンステレーション(星座模様)」し、紐解いているのです。

これらの認識が、個人の「思想的な理解」で「実現不可能」な理由は、人間をポータルとする、高次の「意識宇宙」が、通常の現実(関係の意識)とは位相をずらして、隠されているからです。

「自己」と呼ばれる「場」の中に、物質宇宙より広大な、客観空間としての「意識宇宙」が隠されているのです。「人類」と呼ばれる「種」は、その全体性を通して、反転した「客観宇宙」を内包しているのです。

これが、「場の意識」と呼ばれる意識のおおよその観点です。

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