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自分への反乱

みなさんこんばんは。僕はしがない学生です。いつもならスヤスヤ眠っている時間になぜ初投稿をかましているのか、それはある友人にこき下ろされたからです。やけくそです。何かを言葉にして、今日という日に僕が感じたことを残しておいてやろうという反乱です。

勢いはあっても何を書いていいのかさっぱりわかんない状態なので、とりあえず家にあったジムビームの力を借りて、指を動かそうと思います。

今僕が直面しているのは、「なぜ僕はこんな真面目なんだろう」問題です。

周囲の人にまじめレッテルをペタペタされていると気付き始めたのは、大学に入ってからです。面と向かって、もしくは冗談か本気か区別のつかないようなとりとめのない会話の中で、「○○は真面目だね」そう言われるようになりました。そしてその根拠はどうやら、例えば大学の講義・レポート、アルバイトといった、義務的なものを優先する僕の姿にあったようなのです。夜通し遊んで次の日は眠り続けるくらいなら、今日早く寝て明日もちゃんと生活したい、そういう僕の姿にあったようなのです。

思えば昔から、自分がしていて楽しいことなんかをする前に、目の前に積もっていく「義務」を消化することが、頭の中で常にスタメンをはっていたのかも。そんな僕を、学校の先生たちは「君は優秀で立派だね」と褒めました。友人は「お前は頭いいな」と評価しました。家族には、それ以上の期待を寄せられていたと思います。”社会的にまっとうで立派であること”が、自分の生きる上でのボーダーラインになってしまったのはこのころかもしれません。足し算を積み重ねるより、引き算を減らすような考え方が自分を包み込むようになったのも、このころかもしれません。

高校に入って、ラグビーを始めて、挫折して、助けられて、また挫折して、それでも喰らいついて。
…家のことで、いろいろあって。

そんなこんなから、高校を出て浪人する時分には、元々染み付いていた「THE 優等生」に加え、現状に何か不平不満があっても、自分は今生きているだけで幸せだ、今こうして家があって学校にも行けていて、家族が生きているだけで幸せだ、と、視点をずらして不平不満に蓋をするようになりました。じゃなかったら、浪人なんて乗り切れない、はず。

大学に入ると、高校まではあれほど勉強しろスポーツしろと諭してきた社会のざわめきが、今度は「勉強も大事だけれど、いろんな経験もしなさい」なんていう懐広きお言葉に変わるわけです。

もちろんそのお言葉に僕は耳を貸し、それ相応に「いろんな経験」とやらはするものの、あくまで僕の中の政権を握っているのは義務ファース党なのです。自分では、無意識に政権を握らせていてはじめは気付かなかったけれど、僕の周囲の人たちにはそれが見えていたようでした。

僕は内心、育ててもらって大学に入れてもらって金まで払ってもらって、でも学生としての「義務」をないがしろにしているようなやつを見ると、見下したくなるんです。「○○って成績めっちゃいいやん、頭いいな~」と言われると、今まで僕が経験した出来事を全部そいつの頭の上から浴びせてやって、これが俺がちゃんと真面目にやる理由なんだよ、その結果成績がついてきてるんだよ、と説き伏せてやりたくなるんです。け、れ、ど、最近はそこで自分にも聴き始めるんです。で、誰が一番人生楽しんでるの?って。

正直、どっちがいいかなんて分かりません。24年間生きてきた自分にべっとり染み付いた生き方を洗い流せる洗剤なんてどのメーカーも作ってないだろうし、僕の生き方を後々REVIEWしてあれこれ思えるのは僕だけだから。だけど、そんな自分の生き方に気付いて、迷いが生じて、今こうして言葉で残してるのは、自分年表の中で太字にしてもいいかなって思います。

明日も man in the mirror 聴こうかな。