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就活の収穫

就活というものが始まり、前々から薄々分かっていたことが明らかになってしまった。今、とても懺悔したい。僕は罪を犯していた。

そう、僕は何もできないということだ。無力なり。何もできないのに、つけあがっていた。実体のないもので自尊心を膨らませて、他人を下に見ていた。これは大きな罪だ。


この罪を懺悔するにあたり、まずは僕の主要つけあがりポイントを整理させてください。

その1、学歴・成績

僕の所属は、中部地方の学生に話すと10人中8人くらいが「おぉ~あそこかぁ!すご!」とリアクションするであろう、随分ふんぞり返ったところだ。そんな専攻で、僕のお勉強の通算成績は上から2番目だった。大層な表彰も頂いた。大学院には筆記試験なしで入ってよいというお許しも出たくらいだ。

その2、英語

おそらく僕は、一般学生よりは海外に行ったことは多いし、外国人の友達も多い。彼らと英語で話すことに抵抗はほぼないし、日本人には「留学とかしてた?帰国子女?」と聞かれることもある。TOEICは935点。傍目にはずいぶんとインパクトのある点数を取ってしまった。

その3、お褒めの言葉

今まで周囲から、お褒めの言葉を沢山頂戴してきた。

教授:「B4とかM1でこれだけできる人いないよ。君ドクター行かないの?」

お友達:「○○ってあの専攻で院試も免除なんだろ?やば!」

バイト先とかの大人:「優秀な人はウチを選んでくれると嬉しいなぁ」


僕は上記のようなつけあがりイベントが発生する度に、理性の上では謙虚にしてきたつもりだった。名前や点数だけでそれらに実体はないのだから、そんなお褒めの言葉をかけてくれるなとも思ってきた。ていうかそんなもので人の能力評価するなんてアホか、とも内心思っていた。

しかし実際は、そんなイベントが発生する度に、無意識下では自尊心を肥大化させていたようだ。その肥大化のプロセスは、ひょっとすると小学生の頃から始まっていたのかもしれない。そしてこれまでの「実績」と「お褒め」から、自分をできる人間と誤認定してしまっていた。

こうして膨れ上がった心のガンは、就活で企業の人と話す時、他の学生とグループワークに取り組む時に顕在化した。自分がパッとしたことを言えないと、

「彼専攻は○○で凄そうだけど、実際大したことないな」

「こいつ○○大学出てるのに、おれよりできないやん」

そんな風に思われているのではないかと、相手の心中が気になってしまう。他人に低く評価されたくない、高評価しか受け付けないというアレルギー反応だ。更に追い打ちをかけるのは、電車で目の前に座っていたら「何にもできそうにないな」と思ってしまいそうな学生が、実は自分なんかよりよっぼど考えることができて、発言もできて、知識も蓄えている。彼らが心の中で自分をあざ笑っているのではないかと思うと、ひどくこわい。

そして周りの就活生と自分を比較して、自分の無力さを痛感する。入れ物ばかりを大きくして成績やお褒めの言葉を得てきたが、肝心の中身を詰めることをしてこなかったのが僕だ。

どんなにお勉強ができたって、探究心や好奇心がなければ、得た知識理解は瞬く間に腐ってしまう。

どんなに英語が話せたって、肝心の話したいこと・伝えたいことが頭になければ、ただのゴミだ。


だからこのタイミングで、ずっと前から薄々気付いてはいたけれど、なんだかんだ目を背けて放置してきた、「自分の無力さ」を再確認したい。


僕には、エンジニアになりますとか言ってるくせに、機械を分解したり作ったりする好奇心もない。

そこから得られるものづくりの知識・経験・センスも皆無。

議論において、あれはこれはと意見をあげるための積極性も想像力もない。

評価は二の次にして、声を大にして発言するための勇気も度胸もない。

数秒で状況を理解し、決断を下すための頭の回転も瞬発力もない。

政治や社会問題に対して、独自の意見を持つわけでもない。

日々のニュースに対して、自分の角度から切り込むわけでもない。

夢を語るわけでもない。

自分の物差しで企業を測って、ネームバリューに縛られず取捨選択するわけでもない。


やば、へこむ。今まで何してたんや、ワイ。

泣きべそかいててもしょうがないから、現時点で僕にできて、他人にできないのは何だろうと考える。きっとそれは、目の前に与えられた課題に正面から向き合い、コツコツ時間をかけて理解すること。他人が頑張れないことを、普通のことのように頑張ること。極めて不器用だけど、今の僕にはそれしかない。

残念だけど、今はふっきれよう。無力さが明らかになっただけでも、就活の収穫だ。そしてこの無力さは、これからの伸びしろになってくれる。

入れ物を大きくして自尊心を膨らますんじゃなく、そこに詰まってる中身に熱意を感じるような生き方をしたい。

少なくとも就職は、その契機になると感じている。