うつ病は根雪のよう。それを溶かすのは新たに紡ぎ出す物語

火曜日にブログを書いてからと言うもの、急転直下、激しい抑うつ感で、火曜日は一睡もできずに朝を迎え、水曜日は一日眠り、本日も会社を休むというだめ加減を発揮している。

昨日、とても天気が良かったにも関わらず、ずっと家に引きこもっており、これはこれで良くないなと、今日は1時間ほど散歩しに外へ。

近くの大きな公園は、鬱で休んでいる時に良く行く場所だ。「また来ちゃったよ」なんて言葉を心でつぶやきながら、美しい桜に包まれながらボーッと時間を過ごした。

うつ病というのは心の根雪のようだ。なかなか溶かすことができない。心に怒りや憎しみ、愛情への渇望がこれでもかと思うほど根を張ってしまっており、あれこれと手を変え、力を加えたところで、うんともすんとも言わなかったり、すこし溶けたと思ったら、また凍ってしまったりと、大変厄介である。

非うつ病の人でも、心に雪が積もることはあるだろう。大切な人との別離や失敗、など人生にはそういったイベントが付きものだ。しかし、「根雪」にはならず、大抵は自力で溶かすことができたり、気がついたら溶けていたりするものだ。

うつ病の人、こと私の場合はそうではない。私には「愛情=安心感・自己肯定感」が不足している。通常、健康的な愛情を受けて育った人は、失敗しても大丈夫だよ、あなたなら出来るよ、といった安心感や自己肯定感が心に育つという。

それはとても大事なことで、その心があれば、大人になって失敗や失恋などがあって心に雪が積もっても、心の体温で溶かすことができるのである。

私は、そういったものを無意識的に求めているためか、それを「外部」から得ようと必至になる。少しでも良い評価を、少しでも好意を、少しでも愛情を。なんて具合だ。

その為には自分を押し殺してしまうことは厭わない。どんなに本心と違っても、上記のことを得るためには、心に傷を追うことになろうと頑張るわけである。結果、うつ病になったりするわけだ。

うつ病になって、こういった自分の傾向に気がついても、それを治していくのは生半可な作業ではない。

「幼少期に得られなかった愛情を求めてしまう心を治しましょう」

と言われたところで、もう33歳ですが、それってどうしたら。。。と絶望的な気持ちになるのだ。

「まず、そう思っている自分を受け入れましょう」

と言われたところで、なんだよそれ、今更かよ。。。と絶望的な気持ちになるのだ。

とはいえ、生きていかねばならないわけである。絶望の中でも希望をみつけ、ボロボロになっても生きなければならない。私は、うつ病になってあと2〜3年で10年選手になりそうなのだが、なんとか生きている。

今受けているカウンセリングは、自分の中にある「愛情に対する渇望」や「家族に対する怒り憎しみ」と向き合い、受け入れ、本来の自分を見つめ直していく作業だ。

ワクワクした時、ドキドキした時、そういった時は本来の「自分が顔を出している時」だ。それを何度も何度も振り返り、その時の「感情」を掘り起こしては今の「心に定着させていく」ということをやっていく。

そうすると「あ、こんな自分がいたよな、これが私だよな」なんて小さな「自信」や「肯定感」、「安心感」が生まれていくのだ。

ふと、カウンセリングというのはカウンセラーと私とで「新しい自分という物語を紡ぎ直しているのではないか」と思うときがある。それには苦痛が伴い、一朝一夕では行かない。しかしながら、こうやって文章に書き起こせるくらいには、自分の「根雪」が少しずつ溶けていっているのではないかと思っている。

一昨日、昨日の絶望的な世界から、またちょっと頑張ろうかなと思えた、桜の空の下から、この文章を自分に送る。


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