いつだって「死なせて」くれない僕の心

ここ最近、比較的調子が良い。といっても、朝の抑うつ感が多少少ない、なんとなく自己効力感が感じられる、といった程度のものだが、それで日々の生き辛さは多少軽い。

こういった状態の時は、気持ちも盛り上がりやすく、心深くで眠っている好奇心やら向上心といった類のものたちが、目を覚ましフワフワと浮上してくる。

この本を読んでみよう、あのイベントに参加してみよう、なんて具合に。しかしだ、こういった感情を扱うことを忘れてしまっている私の心は、すぐに疲弊してしまうようだ。

まるで麻薬のように、一瞬の恍惚感からの抑うつである。

恍惚状態の時に生じるのは、「そんな価値はお前には無いんやぞ」「何を勘違いしておるんや」という声であり、「ま、そうだよね、ごめん勘違いしてたわ」となり、結果的に元通りという具合だ。面倒くさい。

私のような人間は、元来、自己肯定感が極端に低く、劣等感も強い。従って、外部からの評価を何よりも気にし、外部が求めることを優先的に行う「義務」を背負っていると勘違いしている。

つまり、「中身(自分)」を所有していない。

昔はあったのかもしれない。今でもあるのだろう。しかし、それを表に出すことが許されず、また出したことで外部との折り合いが悪く、結果的に心の奥底に押しやった。というイメージだ。

心の中に丸い空間があり、普通の人であればそこは「自分だけの空間」であり、自分のことで満たされているわけだが、私の場合は「満たすもの」が常時枯渇していたため「外部からの評価」で満たすしかなかった、ないのである。

そうすると、前述した「外部が求めることを〜」という現象が常態的に発生する。

周囲の動き、他人の意見に過剰に反応しては一喜一憂し、疲弊するというわけだ。面倒くさい。それで他人が離れていけば、「今までのは何だったんだ」と怒りや憎しみが湧き上がってくるという始末だ。

今では、そういった内面をメンテナンスする場所としてカウンセリングがあるが、その前までは一切表に出さず、誰に吐露するわけでもなく、ドロドロとした感情を溜めて、我慢するという日々を送っていたわけだ。

こういったケースは、今でもある。その度に、つらすぎて死にたくなる。もうこんな辛い状態から「解放」して欲しい。その一心で。

「死」というのは私にとっての「救済」になるのかもしれない。と。

しかし、「死」以外の方法があったならどうか。と考える。「死せずしてこの地獄から解放される方法があったなら」と。

私は手を出すつもりは全くないが、人によってはドラッグや酒に溺れる、という選択をするのだろう。

今何故生きているのか?たまによくわからなくなるときがある。何故死なないのか、と。その時出てくるものは、心のそこで眠ってる「モノ達」で、それは情熱や夢や希望や愛情というものなのかもしれない。

それらが、「死」を考えた時にモゾモゾと動き、「ま、ちょっとまだ早いんでないの」とボヤくのだ。

そうやってまた僕に一歩を踏み出させる。困った連中である。

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