心の中の「怒り」と向き合うということ
朝4時。頭のなかでいつも手持ち無沙汰なときにやっているパズルゲームがずっと流れ、隣に寝ている妻の体温が暑く、寝苦しすぎて一睡もできなかった。
寝ることは諦め、リビングへ移動しコーヒーを淹れ、テレビをつけるとBBCが流れていた。どうやらイギリスでテロが発生したらしい。詳しいことはよくわからないが、警官が刺されたようだ。
ダメだ、頭が全然回らない。
昨夜はカウンセリングの日だった。いつもの金曜日はカウンセラーの都合が悪く今週は変則的に昨日実施することとなったのだ。
扱った感情は「喜び」と「怒り」であった。昨日、仕事上で自分で素直に喜べることがあった。その喜びについて、しっかりと「味わう」セッションと、今自分が強いこだわりを持っている「男性的な力」を掘り下げていくセッションだ。
「男性的な力」というのは、私が頭のなかでイメージする「大人としての男性」が持っている「様々な要素」のことで、代表的な事例をあげれば、経済性や性的魅力ということになる。
なぜ、それが代表的なものとして挙がってくるかというと、うつ病によって「大きく失った」要素であり、うつ病以前に私が強く獲得したいと願っていたからだ。
私にとって、「大人の男性」は20歳を過ぎるまで「サンプル不在」であり、どんな大人の男性になりたいかよく分からず生きてきた。一般的には、男性は父親をサンプルとし、1つの指針として自分に取り入れ、大人になるに連れて父親に良くも悪くも似てくるらしい。
しかし、私の父の場合は、そのような存在になりえなかった。
故に、20歳まで「目指すべき男性としての指針」が無いまま、漠然と「大人ってのは結婚してしぶしぶ仕事に生き、特に趣味もなく、淡々と生きていくつまらないもの」という認識をしていたため、大人として生きていくことに対して、とても不安であった。
そんな中、ある社長と出会う。その人は、当時40歳くらいだったろうか。100万円で自分の会社を作り、上場間近、というくらいまで育てあげていた。見た目は「オッサン」である。
その人は、若い頃、仕事一辺倒で、誰よりもハードワークし、従業員を第一に考え、面倒見が良く、人望も厚かった。そして、40歳になっても趣味を増やし、友人を増やし、奥さんを大事にする人だった。
私は、「大人になってもこれほど人生を楽しむ人がいるのだ」と衝撃を受けた。
「これが目指すべき大人」なのだと。
好奇心旺盛な私の性格にもマッチしたその生き方は、とても楽しげだが、一方で立場的な責任も大きい。しかし、その姿が素直にカッコイイ、と思えたのだ。
心の中の「父親不在」が予想しないかたちで「埋められた」結果となった。
それからというもの、大学を辞め、その人の会社に入社し、多くのことを学んだ。夢中だった。なにより、楽しく、充実していたと思う。
しかし、時がたつにつれ、その人の経営方針、言動に変化が見られるようになってくる。顧客不在の経営方針、現実ではなく自分の考えばかりを重視する新規事業、身勝手な人事異動。
一体どうしたというのだ?
私のなかで「アラート」が点滅した。このままでは会社がだめになるのではないか。
そして、私は社長と距離をとり、社長の意見を批判する役割を担わないといけない、と考え、仲良しグループからフェードアウトするように行動した。
自立の時だ。
それからというもの、経営層が打ち出すアレコレに対して、違うそうではない、顧客はこうだ、サービスの傾向はみなさんが打ち出している内容と大きく乖離している、現実感が無い、自己満足のサービスになりさがっているじゃないか、なんてことをいい始めるようになった。
どうも、これが良くなかった。
周りからは煙たがられるようになり、あいつは面倒くさいやつ、昔は良いやつだったけど落ち目だな、だめなやつだ。なんて声がアチラコチラから聞こえるようになり、最終的にはうつ病発症、休職、退職。という結果に。
遠回りしたが、今回のカウンセリングはこのことを取り扱った。これらのことをひとしきり話したあと、カウンセラーが
「父親的存在だった彼と、そのような形で離れていき、うつ病になったことはとても大きな出来事だったのではと思います。今どんな気持ちですか?」
と質問し、私はこう答える
「思い返すと、やはり『怒り』が先にきますね。なんでちゃんと顧客を見ないんだ、自分の考えにこだわって会社を私物化するんだ、そういう怒りです。しかし、今はそのような感情はもう無いのかもしれません。私の目指したい男性像、そして、そのような目指すべき人生を送っていても、人は傲慢になり、多くのものを失ってしまう、ということを学べたので良かったと思っています。」
と。しかしながら、随分長い間、彼に対しての怒りを抱えていたことは事実で、ことあることに彼に対して、脳内で怒りをぶつけ、友人に愚痴を吐き、溜飲を下げるような行動をしていた。
その行動は、結果的に周囲の人も自分自身の心を傷つけていたのだ。
私の周囲でも怒りが「私怨」となり、それに突き動かされて仕事している人がいる。しかし、それはオススメしない。人が離れていくことになる。私もそうであったように。
自分がなぜそんなに「怒り」を抱えているのか、その背景には何が横たわっているのかを考えていくことはとても困難を伴う作業である。昔負った傷を認め、自分の汚いところに目を向け、自分も相手も受け入れることが必要だ。
何度も書くが「怒り」は身を滅ぼすものだ。大切な人が離れていく前に、誰かに助けを求める勇気を持とう。必ず、誰かが助けてくれるはずだ。
一緒に、少しだけ足を進めてみようか。
しかし、眠いな。一日乗り切れるか心配である。
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