「自分を大切にする」ということが未だ分からない

ちょっと今日は調子を崩している。最近、調子を崩すキッカケで多いのが、「経済的」な諸事情が差し迫った状態だと感じるとき(実際には大丈夫なんだけど)。

私自身、基本的に物欲は最低限、消費も最低限に止めようと考えているので、彼女から洋服買ったら?たまには何か良い物食べたら良いじゃない。と言われても超絶拒否するケースが毎度のことで、「俺になんてお金を使ってくれるな」状態。

純粋に消費欲が減ったということと、「欲しいものはあるけど買える金も無ければ、稼ぐ気力も能力もない自分が情けない」といった心境が混ぜこぜになり、出来る限り「消費」を必要とする場面に出会わないよう、ひっそりと生活するようにしているのだと思う。(いや、全然情けなくないんだけどね。頭では分かっている)

ちょっと話は横に逸れるが、今の仕事につく半年前くらいのある日の出来事がそれを象徴している。浅草を散歩していたときに、久しぶりに回転寿司でも食べようか、という事でとある店に入った。普段良く食べる彼女が何故か小食で、それを見た私は「お金を稼がない自分のせいで、遠慮して回転寿司すら楽しめない」とかなり落ち込み、その思いを店を出てから彼女にぶつけた。

しかし、彼女は全くそんなことは考えておらず、単純に料金の割に味が全然ダメだったから、申し訳程度に食べた。ということだったのだ。いやはや、自分はなんて事を考えてしまったのか、どれだけ思考が歪んでいたのかを思い知らされる出来事であった。いやはや、情けない。

うつ病になり、収入が絶たれると、会社が支払ってくれていた保険料や年金などの諸手続に感謝しつつ、各行政機関から催促状や電話にビクビクしながら、さて金策はどうするか、万策つきるのか、自分は社会の最下層まで来てしまったのか、などなど先の見えない不安にとりつかれてどうしようもなくなる。

本来であれば、1つ1つ対処すればなんのとこない問題で、年金や保険料も免除できるし、生活保護でも良いでしょう。ということになるが、果たしてそこまでして生き延びたいのかな。と思ってしまうのだ。これは完全に自分の価値を見失っており、明らかに生きている価値なんてこれっぽちも無い、と考えている証拠である。

毎度毎度、こういう書類が届くたびに暗澹とした気分になりし、やっぱり世の中金なんだろうな〜と極端な結論に至り、そろそろ死んでもいいんじゃないの、というところまで飛躍する。

まあ、「死にたいな」というのはうつ病がよくなってきた今でも定期的に思うことで、今では一般の方にとっての「疲れたな」と似たような感覚で思っているかも知れない。

頭のなかでは、人生とは他人との比較ではなく、自分自身の幸せや愛する人の幸せを追求することだということはわかっていつつも、そもそも「その自分」に価値を見いだせないのだ。「あなたが居てくれて嬉しい、一緒にいると楽しい」と言われても、「大丈夫、他にも良い人は沢山いるし、世の中そんなもんでしょ」という考えをしてしまう。これはちょっと問題かなと思っているが、なかなか自分の必要性を高めていくのは難しく、苦労しているところである。

こんなことを言っていても、明日には普通に浮上しているのだと思うと、私のうつ病も良くなったものだな〜と毎度実感するのである。

それにしても、なかなか寛解しないものだね。。。

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