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書き殴り『シン・エヴァンゲリオン』ネタバレ感想

これは、巨大感情で26年間リアタイでエヴァンゲリオンしてきた人の書き殴り、映画『シン・エヴァンゲリオン』感想である。

考察でも検証でもない。
むしろ26年分の積み重ねと年齢経過により、いろんな記憶は曖昧模糊としている。
TVシリーズ当初、シンジに近い年齢だったわたしはすっかりと、Qとシンエヴァの14年後のミサトの年齢に近くなり、謎や補完計画云々はもはや考察班に任せて、ひたすら
「もうなんでもいいからシンジくんをしあわせにしてくれ(もちろんみんなも)」
だけを祈るようになり、完結を願っていた。

シンエヴァンゲリオンを初日に観て、2日たった今日。
朝から突然になにかがこみ上げてきて、布団に突っ伏して声をあげて泣いた。

シンエヴァの感想を端的に言うと、最大の喪失感と最大の満足感だ。

この感じはなんだろう、既視感がある。
すぐに思い出した。「卒業」の時と全く同じ気持ちだ。
2日前、わたしは26年間のエヴァンゲリオンからついに卒業した・卒業させられたのだと、ようやく「本気」の喪失感と満足感が今日になって遅れてやってきたのだった。

この2日間、自分の中でぐるぐると渦巻き湧き出る感想と感情と、オタク友だちとの鳴り止まないLINE、過去の考察を読み、頭の中では宇多田ヒカルだけじゃなく今までの全てのエヴァの楽曲が延々と無限リピートされていた。

で、泣いたのだ。
いい大人が、アニメ観て、2日経って、声をあげて、朝起きた途端に泣いたのだ。

ともかくいっぱいいっぱいだったのだろう。
吐き出したかったのだろう。
情報と感情が詰め込まれて限界になった身体が、意思とは別にそれを涙と声にして外に漏らしたくらいに。
これはもう文字にしないとダメになる。
落ち着いたらTwitterで感想を書こうと思っていたが、どうやらそんなボリュームではない。今までも何度かオタク感想を書くために作ろうかと思っていたnoteのアカウント。でもそんな時間ないよな~なんていう長年の逡巡なんてなかったように朝の1秒で決定した。
けれどあまり時間がないので、まとめるのは夜にして、書きたいことをメモしようと紙のノートに書き始めたら。結果、止まらなくなった。それならペンと紙よりキーボードに直接打ったほうが早い。
まだ朝だ。出かける準備もある。けれど、とPCを開けて打ちはじめた。

お前の話はいいから、はやくエヴァの話をしろよ。

わかる。
わたしもそう思う記事もある。
でもほとんどは、お前の正直な気持ちが聞けてうれしい、語彙なんて無くていいから時系列じゃなくてもいいから、その感情を聞かせてくれ、叫びを聞きたいんだ、わかるんだ、となって読んでいる。
わたしはアニメや漫画や小説で気が狂い、情緒不安定になり、人生まで語りだすようなオタクが好きなのだ。そしてそれはもちろん「わたし」なのだ。
だから、ここでは自分の話も盛り込んでめちゃくちゃに書く。

もう一度書く。
これは、巨大感情で26年間リアタイでエヴァンゲリオンしてきた人の書き殴り、シン・エヴァンゲリオン感想である。
考察でも検証でもない。

パンフレットさえもまだ開けれていない。
特典のアスカが表紙のチラシを開けるのがやっとだった。
完全に心身がキャパオーバーなのだ。

(記憶がしっかりあるものは、TVシリーズや旧劇や貞本版など出典を書くつもりですが、こちとら26年分の年月と二次創作に考察などが混じり合ってるので、そこらへんぼんやりとしてますのをご了承ください)

【2021年3月7日(日)】

前日になって、突如といて情緒が不安定になる。
終わる?
エヴァンゲリオン終わる…………?
初日チケットを5日前、開かないサイトで午前2時を過ぎて必死で獲ったにも関わらず、明日わたしは本当に観に行くつもりなのか、明日本当に映画が始まるのか?と自問自答と現実への問いがはじまる(しかし大人なので普通の顔で仕事をした)。

【2021年3月8日(月)】

初回は一番良い席が取れなかったのでやむを得ず夕方の回だ。ど真ん中のエグゼクティブシートじゃないとイヤなのだ。
家にいても落ち着かないので早めに出て映画館最寄りのカフェに入ったら、後ろから「エヴァンゲリオンが終わるなんて」みたいなフレーズが聞こえてきて、あわててイヤホンを耳に突っ込んで音楽をかける。
怖くて、映画館に着席して電灯が消えて本CMが始まるまでイヤホンを外さなかった。夕方からだからリピート組がいる可能性は大なのだ。

【本編予告】
本編の予告がはじまった。
正直、ふるえてた。
心拍数が半端ない。
古いタイプ(オリジナル?)の東映の予告に、あぁ、庵野さんだなぁ……GAINAX……じゃなくてカラーだなぁ……と本当にはじまるんだ、とぼんやりする。

【稲刈り】

レイが稲刈りをはじめた時、一体ワレワレハ何ヲ見セラレテイルンダ?という台詞が浮かんだ。
けど、わかっていた。
この、ほのぼのとした日常。
やさしい気持ちが交錯する、人間の営み。
その次に何を持って来られるかなんて、エヴァファンじゃなくてもオタクならわかってしまう。
だから、頭の半分でぽかぽかしながらも、心拍数はずっと早いままだった。突然に何かが来るんだろう?っていう衝撃に耐えれるように。

終始この、半分はアニメに夢中、半分は26年分の思いや次に何を持ってこられるかの怖さで、100%物語にはのめり込めなかった。でもどうせ複数回行くのは確定事項なので、無理やり集中させることもなく、ただそのままに観ていた。

【レイと委員長】

委員長がちゃんとお母さんとして、レイを小さな子のように捉えていろいろと教えるところ。委員長は委員長のままだ。委員長は中学生の時から、いつだってみんなのお母さん役だった。
シンエヴァではTVシリーズからのそういった設定をちゃんと踏襲した上で更新してくれてるのが、本当に染みた。
そしてこの時に教わった「おはよう、ありがとう、おやすみ、さよなら」は、この映画を貫く重要なキーワードになる演出が心にぶっ刺さる。

【アスカとケンスケ(ケンケン)】

最後の最後になってからやっとピンとくる勘の鈍いオタクなのだが、アスカの全裸にケンスケが動じないのにも二人がそういう関係だとわかっていなかった。アスカは元からTVシリーズではパンもろでの登場だったし、露出度の高いキャラなのである。ましてや身体だけ14歳のままなら自分の裸体に頓着しなくなってもさもありなん。
ケンスケもそういう面にはあまり興味が薄い飄々としたミリオタのキャラだったので、そういうもんなんだろうって見ていた。
先に書いてしまうが、アスカとケンスケがそうなったのは非常に心に良かった。
最終回発情期マンセーなのである。
全員が地獄を味わう系の創作の救いには、結局それが最適解だろう?とも思うし、単純に見ていてうれしくなるから。
アスカも心は28歳(?)だからケンスケとは大人と大人なのだが、出会った当初からケンスケは自分の嗜好を完全に把握した安定した人物だった。
貞本版ではトウジの事に絡めて、ちゃんと自分の言葉でシンジに最後のメッセージを送れるくらいの人間。まずネルフにはいないよ、まともな言葉でコミュニケーション出来る人は。
それに、同じく貞本版での最終回、新しい世界でまっとうな人間の代名詞みたいに登場する。
それがニアサーを経た体験と経験からさらに大人になったのだろし、そこへまともな幼少期を遅れずに未発達部分が残っていたアスカはお似合いだと思うのだ。アスカに欠けたものを補完できる人間なのだ、ケンケンは。
(アスカファンには申し訳ないが、大人ケンスケと身体だけ14歳アスカのカップルは非常にもえる。いい。すごくいい。二次創作が読みたすぎる)
アスカとシンジが初恋(というか初めて異性を意識する)の相手同士で終わるのは、とても美しいし二人のキャラ的にも納得。そもそも純粋な性格の相性で言うと、親友が一番似合う二人なのだ。TVシリーズのシンクロ攻撃も、序で綾波を含めた三人で使徒を受け止めて攻撃する時も、仲間としての息が合う相手。恋人ではない、のだ。
けれどそこは14歳だから、そんな相性なんてわからなくて、目の前に近しい関係の異性がいたら、それだけで恋をしてしまうもの。それが14歳というものだ。

【ケンスケとシンジとトウジ】

本編で最初に泣いたのは、ケンスケがシンジを連れて町外れの自分の基地(家)まで連れて行くシーン。
そうだ、彼はTVシリーズのときだって、傷ついたシンジをこうやって郊外に連れ出して、一緒に街や夜空を見て、キャンプして、癒やしたのだ。言葉少なに。
また、シンジを元気づけるんだなケンスケは、って思って。
TVシリーズや映画も思い出して、こみ上げてきて泣いた。
そしてトウジは変わらない。ちゃんと大人になったてるけど、やっぱり男の子らしいやさしさでシンジを気づかう。義父さんの荒い当たりもさらっと流す。
ちゃんとした大人たちに、やさしくされるシンジに、「シン」なのだなとじわじわくる。。

【ミサトと加持さんの子ども】

顔を見た瞬間にミサトじゃん……絶対加持さんの子どもじゃん。って思わせてくれたキャラデザと作画に手を合わせた。
そして、これもまた単純に良かったなって思った。
これまた先取りになるのだが、加持さんは箱舟を残してニアサーの時に逝ってしまったのだが、前に出た林原めぐみさんが歌う曲のなかに「梶を失った箱舟が」というフレーズがあって、ハッとした。あの一連の歌詞の中もキーワードだらけだったのか、と今さらに気づく。きっともっとあるんだろうけど、そこは考察班に任せます。
父も母もいないのに、ミサトと加持さんの子どもは良い子のようだし元気そうだ(もちろん埋まらない悲しさは持ってるだろうけど)。
その子がまた14歳でシンジと出会う。14年、14歳、というキーワード。
ミサトさんは28歳から43歳になった。
これも先取りだけど、シンジに露出写真を送りつけたり、キスをしたり、大人のキスを予感させたりして、姉でも母でも上司にもなり切れない中途半端だったミサトではなくなり(批判ではなくて不完全な人間として描かれてたのもイイのだ)、完全に母親としてシンジと向き合えるようになったのだ。

そう。
「ちゃんとした大人がいる世界」
それがエヴァンゲリオンの最終話なのである。

エヴァンゲリオンには、ずっと、ずっと、ちゃんとした大人がいなかった。
ちゃんとした大人がいないから、子どもも大きな穴が開いたままで育っている。それは大人側であるミサトもリツコもゲンドウもそうだった。
ユイや加持さんなど、少しはまともそうだと思える人は消えてしまうし(欠点などは置いておいて)。

それが、トウジとケンスケ、委員長、村の大人たち、そしてミサトさんの子どもによって積み重ねられているのが、この第三村シーンだった。

【戦闘シーン】

あぁ、庵野監督は天才アニメーターであり、カラーはそういう会社なのだな、と改めて思った。
エヴァも使徒も背景も、ただただ気持ちいい。
アニメを見て高揚し、快感を得る。
素晴らしいアニメは多々アレど、この高揚と快感を得れる作品はかなり少ない。最高峰は宮崎駿。そして高畑勲、押井守、今石洋之、次点で作品によるが細田守くらいだ。
世界観や物語の深さも、設定の妙も謎も、キャラが立っていることも全部が全部素晴らしいエヴァだけど、このアニメーションとしての動きがずば抜けたところ。他に類を見ないこと。これこそが庵野監督でありカラーなのだよな。
と、あらためて思った。

しかし繰り返し言うが、様々な奪還作戦とかエヴァ機体や補完計画については言及しない。
あくまでキャラの人間関係や成長みたいなものへの感想です。

【そして、マリ】

マリは鶴巻さんのキャラなんだと思っている。フリクリやトップを狙え2の作風と鶴巻さんのロングインタビューからの推察だから本当のところはわからない。
けど、陰鬱で内向きでぐちゃってしまいがちな庵野ワールドに、明るく軽薄で強くて案外と世話好きで賢いフリクリ・ハル子のようなものをもたらしたのが鶴巻さんなのではないかと思っている。
序破を観た時に「あぁこれは新しい時代のエヴァンゲリオンで、明るくてみんなが救われるタイプのやつだ」と思って、それはそれは歓喜した。もちろんハマったのはTVシリーズなわけだし、それはもう当たり前に大好きだ。
けど、自分自身も年齢を重ねて大人になって、時代も変わった。
内向きに鬱展開して謎が謎を呼んで自家中毒みたいになるラストよりも、フリクリのような、トップをねらえ2のようなものを望んでいる。
うれしい!やったー!!!
と思っていたら、Qだ。
正直、Qだけは1度観た限りで何年も観なかった。
シンエヴァを見る前に、とようやく見返したくらいだ。
また、TVシリーズや旧劇みたいな感じに戻るのか、と嫌になってしまったのだ。雑にまとめるとクズみたいな大人たちが理由も説明せずにシンジをいじめてるだけの映画、と捉えてしまった。庵野さん鬱になっちゃったんだもんな、って思っていた。
もちろんそれでエヴァンゲリオンを見捨てるわけもない。嫌いにもなれない。単にQを何回も観たくなかったのだ、辛いから。
けれど。
シンエヴァを観て。
あくまで話の途中だったんだな、と。
それこそ第九の「絶望を突き抜け歓喜にいたれ」の絶望がQだったんだな、と。
そうか、すごいな、って。

そして、その新しいエヴァの物語を動かし、最後まで引っ張るのがマリだった。

貞本版がものすごく好きなのは、TV版よりもどこかやさしくて、かつわかりやすくて。最終回もすごく良かったから。そこに出てきたマリが、魂だけ新しい身体に移したのか、それとも若いうちにパイロットになって成長が止まったのかはわからない(しつこいがそこは考察班に任せる)。
けど、貞本版のマリなのだ。

マリの口ずさむ曲が良かった。根アカ、なんて古い言葉なのかもしれないけど、そういうものがぴったりの選曲。
「そうやっていじけてたって、なんにも楽しいことないよ」
これはマリがシンジに言った言葉だけど、これがマリを現してるとも言えるし、この台詞でわたしはマリの大ファンになってしまったのだ。
シンジくん(=エヴァンゲリオン世界)を救うキーになったのは誰でもなくマリだったのだ、とやっとわかったのは終劇の文字が出てからの馬鹿オタクなんだけど。

でもともかくも、マリは新しいエヴァンゲリオンの光であり、全てのエヴァンゲリオンを終わらせるための、確かにイスカリオテのマリアだったのだ。
だから、名前はマリ。
もちろん役柄はユダであり、マグダラのマリアである。
シンジはキリストなのだ。
人類の全ての罪を背負うのだから。
そして、新しい世界で、最終的にシンジの横に立つのはマリなのだから。
ユダは裏切り者であり、かつ、裏切り者という姿の裏にはキリストの一番弟子であり本当は最後までキリストに信頼と愛を寄せていた者とされている。
マリは何らかの理由でゲンドウや冬月(あるいはユイも)の人類補完計画を裏切った。
けれどそれは裏切りではなく、真に人類を救うための別行動だったとも言える。
だからユダでありマリアなのだ、やっぱり。

最初は、マリはユイを好きだったから、その子どもであるシンジを救いたいゆえの行動なのかと思っていた。
けれどそれだと、少しつじつまが合わない。
シンエヴァまで、マリはそこまでシンジに執着してるような気配がなかったからだ。
おそらくだけど、マリはゲンドウくんと同じ目的、ユイにもう一度会いたくて、違うアプローチでそれを叶えようとしていたんじゃないだろうか。
けれど、どこかで、おそらくシンエヴァの中くらいで、結局ユイはシンジの中に(エヴァの中に)いるから、ユイと再び会ったシンジを迎えに行く、が正解となったのではないのかな。
と。
これは考察ではなくて感想なので、正解でなくて全然いいのだけど。
そんな風に、マリのユイを好きな気持ちが自然とシンジに移行したのではないかな、と思う。

だから、最後の最後のシンジの横に立つのが、レイでもなくアスカでもなくカヲルくんでもなく、マリなのだと、至極納得した。
繰り返すがアスカはシンジにとっては仲間・親友ポジションが良い。
レイはやっぱりユイのコピーなので健全じゃない。
カヲルもまた健全じゃないように感じる(二次創作としては好むけれど)。
だから、マリなのだな、と。

だから、なのか。
宇多田ヒカルの『One Last Kiss』はマリ目線で聴いてしまう。
マリは新キャラなのに。
シンジでもアスカでもレイでもミサトさんでもカヲルくんでも誰でもなく、マリの気持ちで聴いてしまう。

だから健全じゃない(人間でない)同士のレイとカヲルが並び立つのもうなづける。
だってレイはユイの写しであり、カヲルはゲンドウの写しなのだとシンエヴァで示されたからだ。
写し、とはコピーとか人造人間と物理的な意味というより「投影」と言った方がいいのか。
ゲンドウが「ピアノが好きだ」と言ったことでカヲルがそれなのは決定となったように思う。そのカヲルがシンジにやさしく仲良くなったのは、なんだか複雑な気持ちだけど。

【謎は謎のまま、情報は全て開示しない、それがエヴァンゲリオン】

結局マリってなに?
って、TVシリーズと劇場版だけ観た人はわからないのかもしれないし、貞本版を読んでたってわからないっちゃーわからない。
ほとんど何も明かされてない。
でも、それがそもそもエヴァンゲリオンなんですよ。
学術用語、専門用語、普段使わない難しい言葉の連続、思わせぶりなキーワード……それが謎を謎を呼び、当時のオタクたちを死海文書を紐解かせ、ある者はキリスト教に詳しくなり、ある者はミリオタになり、そしてSFの古典小説からSF映画まで造詣が及び、本気の心理学本を読み漁り。
エヴァを知りたいがゆえにどんどん知識を肥大化させていく、ある意味まっとうなオタクの道を歩んだ。
かく言うわたしもまた、好きな創作を好きに甘受するだけでなく「理解のために」どんどんあたらしい創作と知識を吸収していった。
ある意味、庵野さんに積極的に獲りに行くオタクとして鍛え上げられたのである。
だから、友人間でも話したし、ネット上でも見たが「結局全部の伏線回収してないじゃん、謎わからないとこいっぱいある!」というのには「いや、それがエヴァだから」と言いたくなる。
いやいやむしろ、めっちゃ親切になったよ!
謎はともかく、みんなちゃんと「自分の気持ち」を言えるようになったんだもの。
あのゲンドウくんですら、だよ?

【父子喧嘩というエディプスコンプレックス(親殺し)】

で、シンジとゲンドウくんの喧嘩ですよ。
楽しかった。
笑った。
急にCGになって、街の風景がちゃちくなって、あれれ?って思ってたら家が模型みたいな動きをして。
そうか、特撮オマージュか……からの、等身大エヴァがいろんなところで暴れるの。
すごく良かった。
父と子で殴り合って喧嘩して、ちゃんと自分の話をして。
そしてシンジの方が大人で、ゲンドウをちゃんと受け取ってあげたから、ゲンドウは電車から降りることができた。
親殺し、を成し遂げたのだ、シンジくん。

と。

で。

【ともかくみんな成長して大人になった】

なのだ。
これが、シンエヴァンゲリオンだ。
だからこそQではあれだけ「大人は全員クズ」みたいな描き方をしたんだろう。
この成長を描くために。

これは旧劇でオタク達を揶揄したのと、ある意味近しい。
あのぐずぐずしたシンジくんも、感情がなにかもわからないレイも、心に大きな穴が開いたアスカも、そしてミサトさんも、ゲンドウですら。
みんな、みんな成長した、大人になった。
自分の思いをちゃんと人に伝えて、自分なりのやり方で人を思いやれるようになり、向き合えるようになった。
さぁ、みなさん、オタクのみなさん、どうですか。
あれから26年経ちましたよ。
成長しましたか?
まともな大人になりましたか?
GAINAXからカラーになり、庵野監督も結婚もして、鬱になり、けど克服して、シン・ゴジラもヒットさせて、GAINAXの訴訟問題も乗り越えて、あの頃よりは成長しました。
みなさんは、どうですか?
エヴァンゲリオンは終わります。
みなさんは卒業できますか?

そんな風に、受け取った。
いや、これは個人的な思いじゃないと感じるんだけどどうだろうか。
エヴァの話を出来るオタク友だちはいるが、リアタイでここまで狂った人と直接話せてないし、まだ長々とした感想も読めてないからわからない。

山口県宇部新川駅の実写を最後に持ってきたのも、そういう意味だと思う。
シンジの声が緒方さんじゃなくて神木隆之介になったのだって、きっと。
さぁアニメの時間は終わり。
ほら、「現実の風景」だよ。
って。

でも別にオタクを卒業しろってことじゃない。
アニメや創作物を好きでいることをやめろって意味でもない。これからだって庵野監督もカラーもどんどんをオタクな作品を創り続けるのだから。

現実にも向き合えよ、大人になれよ、っていうこと。

若い世代はそこまで思わないだろうし、思わなくていい。
それぞれの受け取り方でいい。

【そしてエヴァンゲリオンは終わった】

終わった。
本当に終わったんだ、と思った。
『終劇』
の文字が出て、劇場の灯りがつくまで信用できなかった。
最後の最後まで何か来るかもしれないと、身構えていた。
来なかった。

終わった。

気持ち的にはしばらく動けなかったが、トイレが限界だった。
本編は150分だが、予告など入れたら3時間。事前に済ませたにも関わらず、鑑賞しながら飲み物を飲んでたらアウトです。

終わって、呆然とした。
本当に何も浮かんでこなかった。

終わったんだ、としか。

そして、巨大な喪失感と、何の文句もない満足感だけがわいてきた。

そこから2日間経ってから、ようやくこれを書き上げた。
今で8000字である。
怖い。

まだまだ書けるけど、目的は「今日2021年3月10日」にコレを上げる、なのだ。
だからとりあえずこれで締める。

IMAXと4DXは必ず観るので、またその時に書けてない部分は書こうと思う。

もしこんなに長い長い書き殴りを読んでくれた人がいたなら、ありがとう。
本当にありがとう。
乱筆乱文、誤字脱字、申し訳ない。校正も推敲もほとんどしてない。

そしてエヴァンゲリオンの制作に関わった全ての人たち、本当にありがとう。
この大きな感謝をなんて伝えていいかわからない。
けど26年間も夢中にさせてくれてありがとう。
(もちろんずっとじゃないけどさ)
そして一緒に楽しんだ世界中のエヴァファンにも、ありがとう。
楽しかったね。
でも、まだまだこれからも全然楽しめると思う。

とりあえず今日はここまで。


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