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すべての『エヴァンゲリオン』ネタバレ感想

前の記事で映画『シン・エヴァンゲリオン』について書き殴った。
おかげさまで幾人かの方にスキも押してもらえて光栄だし、うれしいです。
エヴァファンっていいな。
最後のエヴァに思いっきり揺さぶられましたね、お互い。

脳内にはあれの何万倍もの感想と感情がまだまだある。書いても書いても書ききれないだろうけど、言語化するのは本当に心身にとても良いのだ。
教育学でも心理学でも、自分の思いや感情を端的に吐き出せないことはあらゆる不調を呼ぶという。
なんて。
嘘じゃないけど、そんな風にもっともらしく書くのは、もしかしたら根付いてしまったエヴァ的オタク気質なのかもしれない。

そんなわけで、まだまだ書く。
今日は感想というより「エヴァンゲリオンとわたし」的な個人史と感想のごちゃまぜで、マジで誰得かわからないが、自分の心身の健康のために書く。
もしかしたら「わかる」と小さくうなづく人だって1人くらいはいるかもしれない。いたら、それだけで書いたかいがある。うれしい。遠慮なくイイネを押してみてほしい。それで人ひとりをしあわせにできます。

【26年間のエヴァンゲリオンが終わる】

エヴァンゲリオン終わっちゃう。
そのこと自体が、もちろんしんどい。
26年間もハマりこんだコンテンツが完結する喪失感なんて味わったことがないし、これからも味わうことはないかもしれないのだ。だからもしかしたら、人生で一度きりかもしれない体験。

けれど26年間という時間は、ただエヴァンゲリオンという一つの創作物だけの話じゃないのだ。
こちらの26年分の人生も複雑に絡んで癒着して溶け合ってる。

前記事にも書いたが、エヴァTVシリーズが始まった1996年、わたしはシンジやアスカの年齢に近く、完全に彼らに自分を投影して見ていた。
2007年、新劇場版が始まった時にはミサトみたいな年齢で。
ついに2021年令和3年の今、当時のミサト(28)の年齢さえ通り越し、Qやシンのミサトの年齢に近くなった。
意図せず、エヴァンゲリオン主要キャラクターたちの全年齢分の気持ちが、なんとなくでも察することが出来てしまうようになったのだ。

【TVシリーズの頃】

シンジが好きでも嫌いでもなく、同族嫌悪みたいな気持ちが強くて見ていて辛かったし投影の度数が高かった。まだ学生だ。甘ちゃんだ。なにもかもを他人のせいにできるくらいに若かったからだ。
ゲンドウについても好きでも嫌いでもなかった。酷い親だな、も超えていた。なんなんだこの人、だ。
ミサトは大人の美人でスタイルの良い人、仕事ができるけど私生活がダメな人。大人は何かダメな感じがするけど、そこまでクズとか思ってない。わからないのだ。彼らの背景や「欠け」には気づけない、そんな年齢だった。

キャラとしてはアスカが好きだった。
人としてスペックが高い。言いたいこと言う、はっきりしてる。強く生きようとやれることを全部やっている。けど、さみしがり屋でデッカイデッカイ穴が心に空いている。同級生なんかじゃ埋められやしない。ましてや、本当はとてもやさしいけれど、自分のことで精一杯なシンジには手に負えない。人を引き上げる余裕なんてない。加持さんくらいじゃないと無理だ。けど加持さんはまともな大人なので、子どものアスカにそんなことはしない。ミサトも自分のことと仕事に手がいっぱいで、他人を思いやる母にはなれない。そういう意味でアスカとミサトは地続きだ。
ミサトだけじゃない、エヴァ世界には他人を慈しみ思いやり手を差し伸べる人が圧倒的に少ない。いない、と言ってもいい。
加持さんやユイはそういった面があるが、やっぱり自分の信念の方が強い人達だから、愛する人の手をとり続ける道は選択しない。消えてしまう。

レイは動物的な要素が多い。
彼女の圧倒的人気は、その「人外」要素、人間らしくなさ、しかし徐々に体温を獲得するようにシンジを愛するようになる、かわいらしさ。
言い方が難しいが、子どもや動物やペットを愛でる意識と近しいものがある。まだ自意識を完全に獲得していない(ように見える)もののかわいらしさ。
日本人の若者信仰、おさなく無垢なものを最良とするものに刺さるのだろう。
(もちろんそれだけじゃないけど、レイだけで長文になるのでここでストップ)
もちろん貞本さんの作画の素晴らしさは大きい。
貞本さんの生み出したエヴァキャラの以前と以後では、日本の創作物の景色が一変した。現実世界にもあるように、漫画にもアニメにも流行り顔があるが、明らかに貞本さんのエヴァ以降、あのタッチが爆増した。それくらい大きなシーンとなった。
そして林原さんの声だ。天の才が結集した神の造りし御子だ。
わたしだってレイが大好きだ。とにかくしあわせになってくれ、ゲンドウなんてほっぽりだして、みんなでニコニコお弁当食べててくれって、ずっと願ってる。

TVシリーズは、一歩遅れてのリアタイだった。
オタクはオタクだけど、今のように深夜枠を押させておけば良いって時代じゃなかった。ネットを調べれば「冬アニ」一覧記事なんて出てきやしない。紙の新聞欄をくまなく見るかアニメージュなんかを買うしか、新しいアニメを知る手段がない。
そもそもネットが普通にはない。
パソコンが100万円の時代からちょっとだけ安くなったくらいの時代である。回線は遅く、そういうものに長けた人だけのものだった。
そんなわけで、うっかりとつけたTV(大阪でいう19ch:大阪のTV東京枠)で2話のさかりだけをチラ見たのだ。
シンジがトウジに殴られていた。
ロボットに乗りたくないのに乗せられて、挙句の果てに何も悪くないのに同級生に殴られるシンジくん。
あーはいはい、アムロね。また、そういうロボットものね。
なんて言って、見なかった。
ちょっと見ただけで全部わかった気になる、若かりしゆえの傲慢さ。ばか。
そうこう言う間に話題になり始め、そこからあわてて見はじめた。異例の盛り上がりに、同局で深夜にたくさん再放送をしてくれたのだ。
夢中になった。
あらゆる雑誌が特集を始め、ムック本などが出て、貪るように読んだ。それに羅列されている、エヴァンゲリオンの設定元とされる映画や宗教や心理学や歴史や、ありとあらゆるものを漁った。
ここで初めて、同人誌というものを手に取った。
日本橋の、同人誌を売る雑居ビルの店舗。
臭かった。
同人誌の見本は、ページをくるところが黒く汚く、触るのが怖かった。店内は男だらけだった。
同人誌即売会にはどうやって行っていいかもわからなかった。
家にネットがないのである。
調べ方もわからない。
やがて本屋に、よりすぐりの同人作家が作った出版社が出した同人本が並びだし、そちらを買うようになった。後にオリジナル漫画家としてデビューした人もたくさん載っていた。

生まれもってオタクだった。
初恋はドロロンえん魔くんとデビルマンだし(とにかく人間じゃない)、まだまだ本当に物心もついてないのに「うる星やつら」と「銀河鉄道999」に気が狂っていて、親に何度も映画館に連れて行ってもらった。
創作物を見て、絵を描いて、妄想して。下敷きとか文房具を買って、ポスターを部屋に貼って。
そういう当たり前のオタク。
エヴァにハマる前だって、何度となく気が狂う作品には出会ってる。

けどやっぱり、エヴァンゲリオンはエポックだった。

あんなに「アニメ」作品が、あらゆるメディアで取り沙汰されることなんてなかった。
あの時代、オタクは基本的には隠さないといけないものだった。気持ち悪がられるものだっった。
今だってわたし世代から上は、わたしがオタクを隠さないことを「すごいね」と言ってくる。みんなまだまだ隠している。わざわざ自分の大事な部分を全員にカミングアウトする必要なんてないけど、隠す必要もないことだ。
けど、隠すものだった。言い過ぎると、蔑まれる対象だった。
それが、エヴァで風向きが変わった。
アニメ雑誌じゃなくって、当時のおしゃれ雑誌「CUT」やサブカル雑誌や思想雑誌なんが特集を組む。芸能人が「好き」だと話す。ネットの時代、雑誌とテレビが力を持つ時代に、それは本当に革新的な出来事だった。
「オタクきっも」みたいな人だって「エヴァンゲリオンなら見たよ」って言うようになった。
非オタとオタクの共通言語が出来た。
日本のオタク筆頭みたいな人達が作った作品が、非オタとのコミュニケーション言語を作った。
すごすぎる。

【旧劇】

旧劇の頃、エヴァンゲリオンについて話せる友人はいなかった。
わたしは完璧にリア充に擬態、というかオタクは隠してはいないけど話せる人がいないので話す機会もなかった。ひとり粛々と楽しんでいた。非オタの人と、非オタなりに好きなアニメ・漫画作品を話せるくらいで良しとしていた。
ひとりで、旧劇を観るため、今は無き映画館・梅田ピカデリーの非常階段にまであふれた列に並んだことをクッキリと覚えている。
当時はネットなんてない。映画館のチケットは窓口で買うもので、席指定すらない。開場に並ばないと席を取れないのだ。最悪、ぎゅうぎゅうの中で立ち見。座れたか立ち見だったかも覚えてない。今みたいにクッションが良かったり、席と席もそこそこ離れてたり、ボトルホルダーがあったり、傾斜がきつくて前の人がどんなにデカくても画面を遮ったりしない、みたいな映画館じゃない。前に背の高い男が来たら終了。2時間とかずっと避けて観ることになる。
最低でも1上映分(つまり2~3時間)は並ぶのだ。
野蛮だ。
時代は逆行しほしくない、昔は良かったことなんて一ミリもない、今がいい。今が最高である。

ちょうどこの頃ようやくPCが買えるくらいの値段になり、家にネットが引かれ始め、2chが盛り上がりはじめた頃だったように思う。

そして観せられたのはアレである。
言い方が悪かったが、わたしは何の文句もなかった。
いつだって創作物に対しては、何の文句もない。
好きか嫌いかはある。
けど、なんというか、旧劇エヴァに対しては「きっとまた続きを創ってくれるんですよね?」という確信めいたものがあった(それか発表があった?かどうか記憶がない:筆が止まるので調べない)。
だから「続けてくれるなら、それでいい」と思った。
シンエヴァの感想でも書いたが、わたしにとっては謎解きよりも伏線回収よりも、アニメーションによる高揚感と興奮、そして物語の帰結、キャラクターみんなのしあわせが大事なのである。
もちろん物語は帰結しなかった。キャラも誰もしあわせにならなかった。
嘘のしあわせみたいなのがもたらされただけだった。
でも。
「これで終わりなんてないですよね、庵野さん」
って思ってた。

その答えは、23年経った3日前にもたらされた。

【新劇場版の頃】

シンエヴァ感想に書いたが、序も破も素晴らしかった。
みんながしあわせになりそうな予感、物語がちゃんと帰結しそうな予感、アニメーションの素晴らしさが存分に描かれていたからだ。
そしてQで絶望した。
けれど心はそこまで持っていかれなかった。
なぜなら、わたしはわたしで自分の人生が大忙しな時期だったからだ。ミサトが28歳からのQに至るまでの14年間だと想像してくれれば伝わるだろうか。
そのくらいの年齢の人間は一番忙しい。仕事、家族、いろんな責任、大人としてのありとあらゆる用事、心身の状態もどんどん変わってきて健康への意識も芽生え始めるほどだ。
だけど、わたしにとってオタクは趣味じゃなくって生まれ持った気質だから、やめるとかやめないとかの話じゃないし、その間だっていろんな創作物を愛でていた。
けど、やっぱり比重はちょっと軽かった。
そうしながら、エヴァの完結を待っていた。

東北の震災があった。
仕事も変わった。
人間関係も変わった。
住む場所も変わった。
コロナが世界を変えた。
わたしも変わった。

【シン・エヴァンゲリオンを観る前に再度新劇場版を観た】

Qを観たくなかったけど、こればっかりは仕方がない。
重い腰を上げて、3本続けてTVでやってくれてたフル尺のを観て、配信でもう一回観た。
びっくりした。
わたしの中でのシンジくんは、TVシリーズのシンジくんのままで更新されてなかったということに。陰鬱にぐじぐじぐずぐずしてるシンジくんが、まだ心の中にいたのだ。

新劇場版のシンジくんは前向きだった。
超理不尽な親や大人の中で、自分で出来る限りの最善でエヴァに乗って戦っていた。
がんばっていた。
そして誰より、みんなにやさしかった。
シンジくん……いい子。がんばりやさん。
キミは何一つ悪くない。
いい子だよ。

それがわかってなかったのだ。
その、前に新劇場版を観た時の解像度の低い自分にびっくりした。
お前、何を観てたんだ!?ネルフのクズ大人たちと同じじゃないか!と。

そこからはもう「シンジくんだけはしあわせになってくれ(できればみんなも)」とだけ祈った。
それは親の気持ちだよ。
何年も経って、ようやく他者のしあわせを祈る親の気持ちになれたんだよ。
ギリギリ間に合った。


(でもそれはきっと、庵野さんもだよね?)


【そして、シン・エヴァンゲリオン】

ちゃんと物語は帰結し、何年も待たされたのは仕方がないよねと思えるくらいのアニメーションのクオリティーで高揚と興奮させてもらい、みんなしあわせになった。

長々と自分史みたいに書いたのは、オタク話が出来る人がほとんどいない中で静かにエヴァンゲリオンを楽しんでいたタイプのわたしが、今この時点で鳴り止まないLINEができるくらいにオタク友だちが周りにいるようになったという、26年間のオタク遍歴と様々な私生活の変化が、エヴァンゲリオンと共にあったという事。
それが終わるってことの重さを伝えたかった。

オタク友だちにはわたしより上もいるし、子どもと言ってもいいくらい下の友だちもいる。下の子たちはオタクであることに屈託がない。
いい時代だ。
本当にいい時代になった。
ネットを調べれば同じ作品を愛する人がすぐに見つかり、同じくらいデッカい感情を文章や絵や語りで浴びることができる。
年齢も何も関係ない。
好きなものの表現で世界中とコミュニケーションし合える。
しあわせだ。
そして、人生の忙しさを自分でコントロール出来るくらいに、さらに大人になったわたしは、再びオタク活動を活性化させれるようになった。
エヴァTVシリーズの時よりひどい。時間も経済も躊躇なく突っ込めるくらい、人生の優先順位や嗜好が定まっているからだ。
まるで中二の時点でそれを獲得していたケンスケみたいに。

余談だけど、当時は村上龍に夢中になった。
そう、相田ケンスケと鈴原トウジが出てくる『愛と幻想のファシズム』ももちろん読んだ。あの時代の空気が本当に盛り込まれているし、今に続くように思う。
もし気になる人は『コインロッカーベイビーズ』と共に、読むと良いように思う。新劇場版から入ってTVシリーズも見て、なんかもっと知りたいなって思った人にはおすすめです。エヴァの底に流れてるものの空気がわかると思う。

シンエヴァの感想は毎秒どしどし浮かんでくるのだけど、それはそれで別でまとめたい。
だってまだパンフレットを開けてない。
パンフレットを開けて、2回目のシンエヴァを見て、また書こうと思います。

古参オタの、こんな愚にもつかない文章を、もしここまで読んでくださった方がいたなら本当にありがとうございます。
26年間という年月はとても大きいですね。
同じように26年間をエヴァンゲリオン(と、あらゆる創作物と)と共に生き残ってきた人も、街のどこかにはいるのはず。
シンジくんや綾波やアスカが守ってくれた街のどこかで。

宇多田ヒカル『One Last Kiss』アルバムを延々とリピートしながら書きました。

また書きます。
もし気が向いたら読んでくださればうれしい限りです。

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