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『鬼滅映画』から見るキャラがしゃべるタイプのあらすじ紹介が持つ功罪

『鬼滅の刃 無限列車編』(以下、鬼滅映画)観ました。

私が観たのは、初日24時20分の回でしたが、それでも席が埋まっていたあたり「さすが社会現象……!」といった感じで。ほとんどカップルでしたが。終電もないだろうし、このまま渋谷の入り組んだ路地に消えていくんだろうなと思うと、スクリーンにうまく集中できませんでした。でも、面白かったです。どうしても二時間ちょっと限りのぽっと出になってしまう煉獄へどのように感情を移入させるのかが、この映画のキモでしょうが、まあ、ほどよくスポット当てられていて。ちゃんと面白かったですよ?私、すごい好きですからね、この作品。善逸推しですし。

ただ、私の前に座っていたカップルは、彼女の方がファンで彼氏はその付き添いだったのでしょう。一時間経ったあたりから、彼女にスキンシップを求めだしあしらわれ、ラストの方には少し怒られていました。猗窩座(あかざ)殿も同情するレベルです。

さて、ここからが本題。「鬼滅映画、良くも悪くも初見に優しくないところから考える、あらすじ紹介の功罪」というお話。

開始5分での私の感想は、「強気!」でした。なんていったって、あらすじ紹介がない。炭次郎も善逸も、伊之助にも。禰豆子ちゃんがどうして本物の箱入り娘なのかも説明がない。あれじゃあ、兄の炭次郎はマジもんのシスコンです。伊之助は全編通して被り物を外さないから、件みたいな化け物だと思われる方もいたのではないでしょうか。

まあ、そんなんだからキャラの名前も会話の中から探っていくしかない。炭次郎がなぜ鬼と戦うのかもわからない。わからない尽くしです。

この、わからない尽くしで進めていくのが悪かったところ。着いていけず、置いてけぼりになってしまった人は私の前に座っていた彼氏さんみたいに寝てしまうことになる。

こんな風に、付き添いで来た初見さんをフォローするのが本編前のあらすじ紹介。有名どころだと『名探偵コナン』シリーズ。

日本に10年も生きていたらイヤでも知ることになるであろう秘密を、彼は毎年のように語ります。優しい。語らぬ愛は美しい。ですが、語る愛は美しく優しい。

で、良いところは?

第一に言えるのは世界観を壊さなかったこと。鬼滅アニメはナレーションを使用しない(あれだけ漫画には多いのに)タイプでしたから、やるとしたらキャラクターにさせるしかありません。しかし、そうすると、キャラクターが観客に語り掛けることになります。これでは、劇中と、我々の世界を隔てる、いわゆる『第四の壁』を壊すことになる。

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代表的なものだと、『デッドプール』でしょうか。本編中、何度かデップーが我々(カメラ)に向かって語り掛けてきます。虚構を描く手法として、たしかに確立されていますがしかし、得てしてコメディタッチになってしまうもろ刃の剣です。

想像してください。炭次郎がいきなり「俺は竈門炭次郎!街から帰ると、家族全員鬼に殺されていたんだ!」なんて言い出したら。悲哀よりも別の感想を抱いてしまいそうでしょ?

コナンがコメディにならないのは、ある種の様式美として成立しているからではないでしょうか。もしくは探偵物語は、虚構の中であっても『探偵物語』であると人類のDNAに刻まれているので、もはや我々は気にしていないのかもしれません。この話はまたどこかで出来たらいいな。

もちろん、『鬼滅映画』もやれば壁を壊さぬ程度にできたでしょうが。結果として行っていないのだから、世界観を壊さぬ選択をしたとも言えます。

「それでも置いてけぼりくらった人はいるし……」

まったくもってその通りです。ゆえに、強気だと言えます。

ここまで社会現象になった作品。知らぬ人はいないだろう。いたとしても、連れてこられる側は、連れてくる側が説明するだろう。それぐらいのタカをくくっていたとも考えられます。

まあ、こんな感じで、【『鬼滅映画』から見るキャラがしゃべるタイプのあらすじ紹介の功罪】でした。オチはないです。

ただ、私の隣に座っていた女性が開始20分ほどして、煉獄さんが動き回ったあたりから泣き出していたことだけ報告させていただきます。わかる……、終わりがわかっている始まりほど悲しいものはないからね……。

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