見出し画像

小学校生活

     3歳の弟と祖母の家に預けられてからは奇妙な生活が始まった。預けられてすぐだったのか、暫くしてからだったのかは覚えていない。

     まず、私の門限は16時だった。住んでいた団地には下にそこそこの広さの公園がふたつあったのだが、すぐ下なので特に急いで帰らせる必要は無い。同じ団地に住む子達と遊んでいても、私だけ門限が他の子より早かったので、「ごめん」と言いながら先に帰ってた。遅くなると団地の廊下から「帰ってこい」と大声で呼ばれるのでそれも嫌だった。

     その後17時頃までには夕食をとり、風呂に入り、19時頃には祖母・弟・私の三人で川の字で布団に入り消灯になる。なぜこんなに早く消灯になるのか。それは夜になると毎日のように借金取りが来ていたからだ。気配を潜めて居留守をするのだ。チャイムを鳴らされてもドアを叩かれても名前を呼ばれても徹底的に無視。業者が帰るまでトイレに行くことも許されない。いつも何分滞在していたか分からないが、静かになった頃に祖母が忍び足で玄関の覗き穴から外を確認し、やっと会話ができるようになる。たまにしつこく居座っている時は、祖母が仕方なくドア越しに対応している時もあった。「(父親)はここに住んでいませんし、今どこにいるのかも分かりません。連絡もつきません」と言っていた。祖母と母は父が闇金に金を借りたと言っていたが、詳しいことは分からない。固定電話に電話がかかってくることももちろんあったので、私は基本的に電話に出ないよう言い付けられていた。

     そんな日が続き、私が10歳の頃。母から急にこんなことを言われた。

「あなたと弟はすぐにタイの伯母(母の姉)の家に引っ越してもらう」

     青天の霹靂とはこのことなんだろう。何の前触れもなく言われた。単純に理由が気になったので聞いてみたら、「父の借金取りから電話があった。電話で『お前たちの子供がどこの小学校に通っているか知っている』と脅しのような電話があった」とのことだった。それからすぐに大使館で手続きやら何やら終え、クラスでお別れ会をやってもらって渡タイした。母も数週間タイの滞在したが、仕事があるからと言って私たちを残して日本へ帰って行った。

     ここからは私のさらなる地獄の始まり。私は何故かインターナショナルスクールに通わされることになっていたのだ。そこでは基本は英語、第二言語としてタイ語を学ばされる。私はそれまで英語に触れたことがなかった。タイ語に関しても母が話すタイ語を何となく理解できる程度で、自分が話すことは一切できなかったのだ。恐怖しかなかった。しかし母は「年間100万円も授業料がかかるのだから感謝しなさい」というスタンスだった。そんなこと頼んでいない。普通の日本人学校に通わせてくれ、と思うも言い出せなかった。一方弟はというと、まだ当時5歳だったために普通のタイ人が通う学校で良いだろうということでタイ学校に通わされることになった。もちろん弟もタイ語は話せない。しかも私以上に聞き取りも出来ない。だが弟は能天気なところがありさほど気にはしていないようだったのでそこは救いだと思った。

     余談:
     ここまで書いて思ったのだが、私は本当に自己主張をしない子供だったなと。祖母の家で暮らすこと、タイに飛ばされること、インターに通わされること、全てただただ受け入れた。なぜかって?母親に「子どもは親に従うもの。親は絶対」と教え込まれたからだろうな。



次からはインターナショナルスクールでの地獄の毎日について書く。
今日は終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?