ハン・ガン「すべての、白いものたちの」(読書感想雑記)


「すべての、白いものたちの」は自伝であり、詩である。散文と一言でまとめてしまうにはあまりにも見過ごせない形式の創作が認められる。

作品のなかで語られるふたつの事実がある。
ひとつは「姉の死」、ひとつは「ナチスドイツによるワルシャワ空襲」。

作者の姉の死は特に繰り返されるイメージのひとつとなり、作者の根本に深く刻みつけられた事実であることがうかがえる。
一方、ワルシャワの空襲により多くの犠牲が出たという事実は、歴史的な事件の色合いが強い。

作者は知り合いのポーランドの詩人に招かれ、ワルシャワに娘とともに滞在する。ワルシャワの街で見聞したものを通して、崩壊から起き上がってきたその歴史に自らの体を流れる記憶を重ね合わせる。

姉の死といったが、作者はその死に立ち会っていない。姉は早産によって未熟児のまま生まれ、母親の「死なないで、お願い」という祈りも虚しく亡くなってしまう。作者はその事実をあとで知り、「姉の死がなければ自分は生まれなかった」という事実とともに身体的にも精神的にも深い記憶として抱えている。ここでは幼い姉の死は作者の時間に深く刺さる「個の死」である。

空襲による死や、今各国で起きている疫病による死は「集団の死」として捉えられる。それらは常に「死者数」として括られる。

ホロコーストの犠牲になったユダヤ人の数は600万人だという。「600万回の殺人がひとつの組織によって行われた」と言うべきかもしれない。いずれにしろ想像の難しい数の死者だ。

作者のこころみは、この集団の死から死者たちを浮かび上がらせ、無数の「個の死」として受け入れた上で、そのなかに自分の姉の魂を訪ねることだ。
その過程には常に「白いものたち」がある。もちろん魂もそのひとつだ。

人間はなぜ、銀や金、ダイヤモンドのような、きらきらする鉱物を貴いと感じるのだろう? 一説には、水のきらめきが古代の人々にとって生命を意味したからだという。輝く水はきれいな水だ。飲める水――生命を与えてくれる水だけが透明なのだ。砂漠を、ブッシュを、汚い沼沢地帯を大勢でさまよったはてに、白く輝く水面を遠くに見出したときに彼らが感じたのは、刺すような喜びであったはずだ。声明であり、美であったはずだ。

――(P113「輝き」)

作者の熟考が表面化したとても大切な言葉だと思う。

作者はまず、白いものを列挙し、それについて述べることで自身と姉、ワルシャワの死者たちの魂の解釈をこころみる。なぜ、傷つきどうしようもない過去を見つめるときには白いものたちが必要になるのか?
そのひとつの理由として見出せそうなものが、上に引用した言葉である。

ヒキガエルは蛇に見つめられると四つの足を踏ん張って少しでも体を大きくしようとする。しかしこれは蛇そのものに反応しているのではなく、「鎌首状の細長いもの」に反応しているだけだという研究結果が出ている。また、親鳥が雛鳥に餌をやるのは「黄色くて開いているもの」に餌を突っ込みたくなるからだという。そうすれば満腹になった雛は口を閉じ、腹の減っている雛には餌が与えられるという作用で、ほかの鳥が托卵しても育ててしまうのはこれが理由となっているそうだ。

人間にも鍵刺激があるのだろう。特に、人は清らかなもの、穢れているものを視覚ではっきりと判別する。集合恐怖症のひとがよくいう「蓮の種を見ていられない」「虫の卵が苦手」というのは、感染する皮膚病から自身を遠ざけるための鍵刺激だという。
それでは、人はどうして白いものを清らかなものだと感じるのか。その理由がおそらくは上に引用した文章なのだろう。

話が少し自然科学寄りになってしまった。

洗いあげてきっぱりと乾いた白い枕カバーとふとんカバーが、何ごとか話しているように感じることがある。そこに彼女の肌が触れるとき、純綿の白い布は語りかけてくるかのよう。あなたは大切な人であり、あなたは清潔な眠りに守られるべきで、あなたが生きていることは恥ではないと。そして眠りと目覚めのあわいで、順延のベッドカバーと素肌がさわさわと触れ合うとき、彼女はふしぎな慰めに包まれる。

――(P89「レースのカーテン」)

死には白いものたちが多く寄り添っている。
作者の姉の死には「おくるみ」「産着」「タルトック」「死んだ犬の白い毛並」「不要になった母乳」。ワルシャワの市街には「霧」「雪景色と見間違う瓦礫の街」「死者を弔うろうそく」。
死には白いものが寄り添っているという発見、いや発見よりも前段階にある深い眼差しが作者にはある。確信とも違う、それはひとつの自然となっている。

この世界の残酷さのなかで傷ついたものたちには、白いものたちの慰めのような寄り添いが必要不可欠なのだ。特に、どうすることもできない過去の傷を抱える人々には。

作者はひとつひとつ、棚のなかに仕舞われた道具を数えるように白いものたちを見つめていく。どれほど酷い死にも、必ずそばに寄り添うものがあってくれるのだと、信じるように。

それは過去だけにとどまらず、過去を抱えながら今を生きる人々にも寄り添う。

骨の髄まで凍るような寒さだったが、彼女の体がほんとうに凍りついてしまわないのは、あの光と熱のおかげだと知っていた。

――(P93「白い鳥たち」)

彼女はさまざまな骨の名前に魅了されていた。鎖骨、肋骨、膝蓋骨、踝。人間は肉と筋だけでは存在しえないと思うと、不思議に安堵するのだった。

――(P119「白い骨」)

死と向き合うとき、茫然とする。そこには無音の絶望だけがある。どうしようもないのだ。解釈というフィルターを通してしか私たちは死を語れず、そしてそれは多くの場合自己欺瞞である。自己欺瞞のまま人生が終わればいいが、その場合は虚しく、自己欺瞞もできずに生きることは棘を飲みながら生きるような痛みがある。死に意味はない。残酷なほどに無意味であり、そのために深い絶望がある。

だからこそ、寄り添うものがあり、人は白く輝くもののほうへ歩いていくはずだ。自然と、本能的に。白いものから受ける刺激によって慰められ、また生かされる。

しかし、その慰めは一時的なものかもしれない。

恢復するたびに、彼女はこの生に対して冷ややかな気持ちを抱いてきた。恨みというには弱々しく、望みというにはいくらか毒のある感情。(中略)
そんなとき鏡を見ると、これが自分の顔だということになじめなかった。
薄紙の裏側の白さのような死が、その顔のうしろにいつも見え隠れしていることを忘れられなかった。

――(P133「薄紙の白い裏側」)

死は常にそこにある。どれほどの祈りをこめた慰藉を受けようが、変わらずぽっかりと口を開けて呑み込もうとする。過去にあった死の事実はいっそう濃い絶望を伴う。

それら白いものたち、すべての、白いものたちの中で、あなたが最後に吐き出した息を、私は私の胸に吸い込むだろう。

――(P177「すべての、白いものたち」)

けれど、私たちの身体が自然の軽やかさで白さを求めるのであれば、私たちは記憶とともに歩み続けるしかないのかもしれない。どうして生きなければいけないのかはわからない。多くの人が罫線を失ったノートの上でさまよい、日々喪失のなかで生きていると思う。それでももがいて白さを求め、記憶にひきずられたり、ひきずったりして生きていることは貴いこころみといえる。

少なくとも、寄り添うものがあるのだと思うこと、光の方へ歩くことができるのだと知っておくことは、きっと深い絶望のストッパーになる。

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