宗教2世問題はどこへ行ったのか

安倍元首相の事件から1ヶ月が経った。今やショックとヒステリーは拡大し、人々はその感情の着地点をひとつに絞り込もうとしているように見える。

旧統一教会を「カルト」とし、ここぞとばかりに政治家を糾弾すること。
これが今しばらくの決着だ。

しかし本当にそれでいいのだろうか。本来論じるべき点は「旧統一教会の2世として生まれてきたことがどのように容疑者を犯罪に向かわせたか」であり、もっと大きく捉えれば「(新興)宗教の2世問題」だったはずだ。

それが今は政治と「カルト」の繋がりという、まるで関係のない方向に流れていってしまっている。

ここに私はふたつの疑問を投げ掛けたい。

①「旧統一教会と政治の繋がりを暴露することは、第二の山上容疑者を減らすのか、増やすのか?」

②「はたして日本のマスメディアが信仰の問題を扱えるのか?」

①については簡単に答えが出る。
第二の山上容疑者はすぐにでも生まれる。旧統一教会を大々的に「カルト」としてマスメディアが喧伝する現実がある以上、ある特定の人物を「カルト」の人間であるという偏見のもとに指さすことは必ず起こる。

それが納得の上で(と信仰についていうのも変なのだが)信仰を始めた人に向けられるのであればまだ仕方がないと大衆は思っているのだろうが、では、そうではない人はどうだろうか。

出生と同時に勝手に入信させられてしまった子供――2世たちにこの悪しき指さしが向けられるのであれば、これはマスメディアの罪ではないだろうか。

岸田首相は内閣改造を発表した。おそらく自民党はのらりくらりとうまく躱すだろう。マスメディアは次の大事件が起こればそちらにかかりきりになる。味のなくなったガムをいつまでも噛まされ続けることを受け取り側は良しとしない。

しかし、ほとぼりが冷めたあとに現れるのは第二の山上容疑者ではないのか。これはあまり「公にしづらい」信仰を持つ人々に対して言いすぎだし失礼なことだというのはわかっている。同じ境遇でも人を殺す人間とそうではない人間がいる。殺人者になるにはやはりそれなりの道徳的な欠如があると思う。ただし、やはりそこに向かわせているのは社会の流れだし、今のマスメディアは無自覚にその流れを作り出しているとしか思えない。

但し、ここでマスメディアを責めることはたぶん無意味だ。司法、立法、行政に加えて、報道というものはもうひとつの権力――「民意」だ。「受け取り手が求めている情報を見せる」ことはマスメディアの大目的でもある。もちろん、スポンサーのために民意の増幅を軽々しく行えるという点にはあまり納得ができないのだけれども。


②についてもはっきりと言える。
日本のマスメディアに信仰の問題は扱えない。
少なくとも、オウム真理教のテロリズムのあとの時代にあっては、大衆にとってはカルト=集団ヒステリーであるし、キリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ、それらとカルトの違いを説明できないだろう。

説明できたとしても、おそらくは受け取りきれない。

信仰には自然科学が通じないからだ。そもそもの大前提として、信仰には触知不可能な信仰対象(神)があり、それは信じる人にしか見えない。いや、信じているひとにも見えない。なぜなら見えているのであれば信じる必要などないからだ。

キリスト教であれ仏教であれ、宗教は伝聞だ。それを聖書にまとめたりしてきたわけだが、まずはその聖書に書かれた内容や指導者の教えを信じなければいけない。

ここに現代人の最も信仰する対象である「自然科学」は存在しない。

信仰によれば人は神が作り出したものであり、自然科学によればヒトは猿の進化の結果だ。後者が事実だと言われそうだが、ダーウィン以前はこの常識が転倒していた。

現代の日本において一般大衆は「神」を信じていない。そんなものは信仰対象である自然科学に反するからだ。神様を信じるくらいなら血液型占いのほうを信じるだろう。

だから、どれだけ「カルト」の教義について説明しようが大衆は受け入れることが出来ない。「そもそも神がいない」と思っている人間に「神がいると確信している」種類の人間の話をしても無駄なのだ。

日本人だって神社に行って初詣に行くし、盆には墓参りに行くという意見もありそうだが、そこには混同がある。

日本人が神社に詣でるのは「幸運」を祈るためだ。それは生きることそれ自体を良いものにするための――幸福のための祈りではなく、一瞬の偶然的良さのための祈りである。ここには幸運と幸福の混同がある。生命そのものが善くあるように願うことと、再生産・消費可能な良さを願うことは大きな違いがある。

一方、墓を守ることは信仰の継続ではなく世界の継続である。ここにも混同がある。私たちが墓の前で手を合わせるとき、思い浮かべるのは祖先のことであり、さらに言えばのちの世代も自分のことを思い浮かべてくれるように、自分の入る墓を洗うのだ。私たちの生きた事実が死後も残るということは、人間が動物的な生死のサイクルから解き放たれ、ひとつの直線運動のなかに生き続けることを意味する。この直線運動が自然とは別個に存在する世界であって、墓が続く限り人は人の記憶のなかで生き続ける。

これが一般的な日本人の神/仏の「信仰」の形だと私は思っている。

しかし、一般的に日本人が「カルト」だと見なす信仰の形は、そういったものではない。

本来の信仰とは、パワースポットを巡ることでも、御朱印を集めることでもない。究極的な善なる存在と可能な限り一致しようとする観照的活動が信仰だ。その対象が神そのものでも、神に近づいた人間でも、神の教えそのものとなった人間でも、神と人の合一を果たした人間でも何でもいい。ただ至高の対象の如く善くあることを願うとき、そこに信仰はある。

この対象を持たないことが不幸であるのか、幸福であるのか、私にはなんとも言えない。ただし、日本人の自殺率が多い理由はよくわかる。それは日本人が虚無に陥りやすいからだ。カトリックだから自殺は禁じられるとか、無信仰だから背く神がいないとか、そういう話だけではない。自然科学への偏重がニヒリズムを招く。

自然科学で説明されたことしか信じられない人々が最後にはどこにたどり着くのか。それは宇宙だ。宇宙の果てを考えるとき、人は自分の人生を一個の物語ではなく、自然サイクルの一部であると考える。そして人生の意味を見出せず、寄って立つ「物語」を失ったとき、虚無に陥る。

たとえば、居場所を失ったとき。自分自身が無意味だと思っていても、肩書があれば人はなんとか自己を維持できる。「〇年〇組の私」「課長である私」「父親/母親である私」「〇〇大学に所属する私」先日甲子園球児が高校卒業後に犯罪をするケースがあると聞いて調べたが、確かにそういうこともあるらしい。もちろんそれは甲子園球児である彼らと結び付けすぎなのかもしれないけれど、類似点はあると思う。

自己が動物的存在であり、どこにも居場所がないと知ったとき、死は重たくのしかかってくる。人は死と向き合わざるを得なくなる。

しかし、そこに信仰があれば少しは違うはずだ、と私は信じたい。

大切なのはバランスだ。
信仰と科学は相反するように見えるが、相即とはすなわち合一のためにあるのだと私は思う。私たちの直面しているこの社会を正しく捉えるためには、一面的な視点では情報のカードが少なすぎる。
自然科学と信仰の両面から現代の社会を捉えることは、現代において次のステップなのではないかと私は思う。


話がだいぶ逸れたが、私が今後、二度と山上容疑者のような人間を生み出さないためにひとつ考えることがある。


憲法にも規定されている「信教の自由」を適用し、子供の信教の自由を守る。そのために「保護者による児童の強制入信」を法律で禁止する。

これには大きな問題がいくつも壁として反り立っている。思いつく限りでも何個かある。しかし、だからといって思考を止めず、もう少し先まで考えてみたい。

まず、何が問題なのか、いかに列挙する。

①家庭内の信仰の問題にかかわることはそれこそ信教の自由の阻害ではないか

②児童が保護者に従うのは当然ではないか(法律で禁止したところで形骸化する恐れがある)

③キリスト教の洗礼は幼児の頃に行われるが、これをどう扱うか

④教義によって入信が「生後すぐ」自動的に行われる場合、これを法律違反として罰することは信仰の内容に踏み込むことであり、信教の自由の阻害ではないか

など。
ほかにもあればいくらでも教えて頂きたい。


現在、親が子供を物心つかないうちに入信させることは「親の信教の自由」のために問題にはなっていない、らしい。つまり子供が宗教を選ぶ権利もあるが、親が子供に宗教を与えることも権利として保障されている。

ここを崩すためにはどうすればいいのか。

どうすればいいのかまだ考え続けている最中だが、やってはいけないことはわかる。それは「宗教2世」の人々に「カルト」の偏見を重くのしかからせ、発言のチャンスを減らしていくことだ。今マスメディアがやっていることは総じてそれだ。

現在声を上げているのは「現宗教2世」ではなく「元宗教2世」というような人々だ。もちろんその声はとても貴重だし、声を上げることはとても勇気の要ることだと思う。

ただし、現在苦しんでいる人の声も、もっともっと広く知られるべきなのだ。そのためには勇気を必要とせず、オープンに話し合える場が必要なのであって、発言の機会を減らすことはそのまま苦しみを増幅させるだけだ。

(もちろん、宗教2世であることを幸福に思う人々もいる。そういう方は胸を張って生きていって頂きたい。生きる目的を一生かかっても見つけられず、ドロップアウトする人が多い現代においては、そんな生き方ができるだけでも素晴らしいことなのだから。強制的な勧誘で人を信仰に引きずり込むような悪質な布教のスタイルでなく、信仰に莫大な喜捨が必要でない限り――つまり道徳に反しない限り、悪く言う人はいないだろうから。)

現政権を叩き潰したいためだけに今回の問題を扱うのは、多くの人を不幸にする。もちろん政治はクリーンであるべきだ。そうでなければ民主主義というシステムは実は形骸化していて、民意は悪意だけを抽出されて突き動かされていた、ということになってしまう。

しかし、そもそもの問題に立ち戻るべきだ。そうして、同じような悲劇を二度と生まないためにも、「宗教2世」の問題に社会全体で取り組むべきだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?