日記・現代詩手帖の感想

朝、妻とコメダ珈琲店でかき氷を食べる。コメダでレギュラーのサイズを頼むと必ず「ミニの方でよろしいですか?」とサイズダウンされそうになるのは何故なのだろう、という話をした。
「あまりにも大きすぎるからじゃないかな?」と妻。
「それなら最初からミニの方をレギュラーサイズにしておけばいいのに」
「レギュラーサイズのほうはビッグサイズ?」
「そのほうがわかりやすいよ」

運ばれてきたかき氷は想像の2倍ビッグサイズだったけど、私は平然とした顔を意識して食べた。「まあ最初からこのサイズだと思ってましたけど?」といいたげな顔を意識した。少しでも苦痛の表情を見せれば店員さんが飛んできて「だからミニでよろしいでしょうかって聞きましたよね?」って言われそうで怖かった。

実物のサイズを見てから注文するかどうか決める、と楽しげに話していた妻もドン引きしたのかそれ以降かき氷については一切触れなかった。

私はただ食べた。シロップの配分を間違えたかき氷を作業のように食べた。食べ終えてから気づいたが、私は朝ごはんを食べに来たのだった。

そのまま妻と別れ、隣町の図書館にハンナ・アレントの「人間の条件」の副読本を借りに行く。ついでに現代詩手帖の新人投稿欄をなんとなく眺めてみた。

 選者の小笠原鳥類さんも森本孝徳さんもどちらも好きな詩人だ。私はあんまり現代詩手帖に触れてこなかったけど、今年は積極的に投稿してみようかな、と思っている。

小笠原鳥類さんが選んでいた中山彷月さんの作品「冬民」がとてもよかった。今、手もとに現代詩手帖がないので詳しいことは言えないのだが、とても好きな詩だと思った。


好きな詩に出会うととても心が満たされていく感じがする。
たとえばアーティストの新曲が自分の心を代弁してくれている!ぶちあがる!みたいな経験もあるだろうけど、これとはまた違う感覚だ。

詩のたしかさに共感はいらない。私のなかにない言葉や強いイメージが、私のなかでしっかりと直立するとき、私はほかになにもいらないとさえ思う。
これは素晴らしいと思える絵画に出会えたときの感覚にも似ているが、やはり少し違う。絵画は触れるものではないが、詩は言葉を何度も何度も反芻する。

とにかく、よかった。
もし現代詩手帖を手に取ることがあったら是非とも読んでいただきたい。

そして小笠原鳥類さんの詩の採り方に共感する。私たちが詩を作るのは消えていく言葉を生み出すためではない。この世界で新しく生き続けてくれる言葉を自分に、ついでに誰かに投げ掛けるためだ。はっとするたったひとこと、短いけれど世界の見え方を変えてしまうような言葉に出会うとき、私はわくわくする。びりびりと頭の奥が痺れる。鳥肌が立って、詩を作ってくれた人を尊敬する。

図書館から帰ってくる途中から異変に気づいた。

お腹がちょー痛い。

帰ってすぐトイレに駆け込んだ。次はミニを食べる。

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