短歌における具体→抽象

きみと見た映画が金ローでやってる 夕立で濡れた軒先の犬

フォルテシモ きみの鼻筋をなぞりたい日の夜はダリの絵画を匂わす

古川蓮『AM:深夜』

最近の歌作において、偶像としての<きみ>は大きな役割を背負っている。顔も見えない<きみ>は歌全体の具体的な情景を想起させるように思えて、実は抽象性を示す。よく言えば普遍性だろうか?

一首目の歌は金ローでやっている映画は<きみ>と見たもので、軒先の犬は夕立で濡れているという二つの具体的な情景描写が並立しているという構造だ。韻律的に見ても、上の句と下の句に情報が一個づつあって整然とまとまっている。
しかし、一見関係のない二つの情報は孤独感という曖昧な雰囲気によって結びつく。金ローでやっている昔に上映していた映画を見て、おそらく今は近くにいないだろう<きみ>を思い出す。
そして、一方には軒先で雨に濡れて震えている犬がいる。
状況を説明しているだけなのに、そこには確実に<なんかさみしい>という感情の揺らぎが生ずる。この揺らぎを今は大切にしている。

二首目は「フォルテシモ」、「きみの鼻筋」、「ダリの絵画」と情報が乱立しているが、そこには<曲線>というひとつの共通点がある。前者の歌よりも細分化された形だが、フォルテシモという記号が、きみの鼻筋が、ダリの絵画(代表作である『記憶の固執』)が持つ視覚的曲線が描かれることで確実に情報は繋がり、ポエジーを作る。
だが、ここで<きみ>が具体的な対象を持ってはいけないと思っている。鼻筋をなぞるという行為はどうしてもセンシティブに聞こえてしまう(僕の性癖暴露だったら申し訳ない)。エロいことを書くことは詩的にはよくあることだが、具体性を持ちすぎてしまうとグロさを持ってしまうと思っている。<きみ>がどんな人間か、バックボーンが見えないからこその詩情がそこにある。

まとめると、今の歌作において「情報を抽象化して詩情として落とし込もう!」というテーマがあるということ。ひとつわかりやすく<きみ>という対象について言及したが、この動きは色々な歌に共通している。こうすることのアドバンテージとしては共感力が段違いだ。抽象的であることによって読者は自分の経験に重ねる。最初に書いた通り抽象的≒普遍的とも捉えることもできるのだ。

(追記:自分の短歌の評論は出すのを躊躇していたけれど、一つ指針を示すものとして公開します。こういう読み方、作り方もあるよって軽く捉えてもらえると嬉しいです。)

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