ReRecal
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思い出の解像度が薄まるのを怖がりながら、なんとなく生きている感じがする。画像フォルダにはその時の断片だけあって振り返ることは許されているけど、時間は不可逆。完全なその時間は戻ってこない。
シークバーのように現実の時間は可視化できないし、栞を挟むように一旦停止はできないわけで、不完全である過去を愛すことを強制されている。
この間、遠距離になった彼女には小さい手紙を渡した。永遠に会えないわけでもないから一大イベントにしたくはなかったけれど、形を残さないと後悔する気がした。
別れの盛大さと寂寥感は比例するし、離別があるのは会ってしまったからに他ならないし、わたしたちは生まれたから死ぬ。
わたしたちは自分で自分の首を絞めている。思い出の解像度の低下に恐れるのも、時間の不可逆さや離別の悲しさを嘆くのも、わたしたちは被害者であり、加害者であるという認識の欠如があるからだ。
ただ、それをわかっていても、わたしは死の恐怖があるのは何故かとか抽象談義をすることが生きることだとは到底思えないし、離別を悲しまないほど非情にもなれない。
わたしがいま、できることは思い出を必死で繋ぐことであり、生まれてきたなら必死で生きようともがくことだと思う。
短歌はそのツールのひとつ。だからこそ生半可な詩は許されないし、自分で自分を苦しめながらでも産んでいかなきゃいけない。
思い出は韻律のなかに閉じ込めて、次へ
以上
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