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Aoharu no uta


青春はみんなが思っているより濁っているものだとおれは思う。


青春はいつも淡く描写される。二人きりのプール掃除での水のかけあい、屋上での時間、シーブリーズの蓋の交換 etc…
消えてしまいそうな儚さという意味での青春はおれたちの頭の中のイメージを出ない。いつしか物議を醸した「パターン化されたエモつまらない…」に通ずるなにかを感じる。実際に「パターン化された青春つまらない」という声はいまもどこかで高らかと上がっているだろう。

こうなったのは人々が恋愛にしか青春を見いだせなくなったからだと思う。学生の恋愛はなぜ、あんなにも澄んだ清流のような扱いをされるのだろう。人の性愛は年齢を問わず醜い側面を兼ね備えているはずだ。本来、濁ったどぶ川だったものから目を背けている。あいつらはほんとうの青春を知らない。

おれは短歌を通して<ほんとうの青春>を描きたい。その執着はこれからも強くなっていくだろうと思う。青春から離れるにつれ、青春を想うだろう。

そして結論から言えば、おれが言うほんとうの青春はマイノリティの青春だ。

ぼくたちの未来はどうしようもなく過激で、チーズ牛丼温玉付きで

古川蓮

夢みたいな画質でこわれるアオハルでした涼宮ハルヒのコスプレ

古川蓮

上記の2首に登場するモチーフは<チー牛>と<コスプレイヤー>だ。彼等は「青春パターン」(パターン化された青春をそう呼ぶことにする)の中ではスポットライトの当たることのないキャラクターだ。そんな彼らにも青春は存在するし、若者らしい悩みだってあるだろう。おれは教室の隅っこにこそ抒情が存在すると思う。だれも目を向けなくてもおれが目を向けた瞬間に抒情が発生する。おれは彼等の存在が狂うほど好きだ。

じっさい、おれは青春においてだけでなく、いつもマイノリティのための言葉を書いてきたように思う。詩人がそうあるべきだとも思わないし、それが正義だとも思わないけれど、なぜかそうしてきた。
少し考えてみると、それはだれかを刺したいという衝動から来るものなのではないかと思う。短歌で名前も知らない個人を刺したいとなれば、マイノリティを標的にすることは必然だ。

また、彼等はなにより美しい。いつも虐げられていたり、おれ自身も暗に濁った青春だと揶揄してきたように見えるかもしれないが、その濁りこそ美しさだとおれは思う。<チー牛>という言葉は文化にインパクトという意味での傷をつけた。文化に傷をつけたいおれにとって彼等の存在は大きいし、彼等の青春を描きたいと思って当然なのだ。

そして、短歌を作る中で、できるだけ彼等に近いモチーフを探すうちにおれは固有名詞の力強さを実感した。

エモーショナルなケミカル 真夜中の廃墟で佇むルイズ・フランソワーズ

古川蓮

Vtuberにスパチャを投げた時みたいに(つまり、幻想みたいに)消えたい

古川蓮

アニメキャラやVtuberといったモチーフは美しさが表出した後に、その言葉の背景にある<ヲタク>や<バチャ豚>のイメージが頭に浮かぶ。彼等の文化の中には固有名詞が多く、それらはある特定のキャラクターないしは、人間を指す。ひとつしかイメージできない時点で、そのモチーフとしての力強さは言うまでもないだろう。涼宮ハルヒもルイズ・フランソワーズも彼女たちだけを指す。そして、付属してくるヲタク文化のイメージにある種のサブカルの混沌とした空気を感じられる。

青春は濁っているとした上で、そのほんとうの青春の力強さは底知れない。そして、彼等の青春は血のような生臭さがある。おれは血の匂いのするものが好きだ。人々が厨二臭いと、痛いというものをおれは進んで受け入れる。

狂ってる?それ、誉め言葉ね。

ゴール・D・ロジャーの処刑 いまここでしてみたいことだけを想うよ

古川蓮

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