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児童教育の変化に加えてコロナ禍の影響で増す親の責任

児童教育の変化


変化は常に歓迎されるべきものではあるが、度を越すと時に問題となる。今回は児童教育において考えてみる。僕が小学生だったころとは当たり前ではあるがそれは大きく変わっている。みんな仲良くしないといけない、勝つだけが正しいことではない、優劣を公にしてはいけない、などの風潮がとても強くなっている。例えば、終わりの会では「今日〇〇くんが××をしていました。嫌でした。」などと報告され、公開処刑される。ほとんど内容で僕が槍玉に上げられていた。今では、終わりの会は「みんなの今日良かったところを探して報告する会」になっていると聞く。運動会ではリレー形式で足の遅い子が目立たないように配慮されている。僕のように常に最下位で恥を晒すこともない。僕が今の時代の子供であったならどんなに「幸せ」であったであろうか。喧嘩をさけるために手を出されてもやり返した方が悪い、男子も女子も「さん」づけであだ名などをいってはいけない。(僕はいつも「名前」デブという系のあだ名であった)随分と時代は変わったものである。

多くの批判が生んだ変化とその影響


今までたくさんの子供が傷つき、その度に大人が修正を加えた結果の今の風潮であるので、基本的には歓迎すべきものではある。しかしながら、どんなことにも程度は必要であり、過度な批判への迎合の結果になっていることも時には否めない。よく僕が例える「生レバーの発想」である。ごく一部の例外のために全体が修正され不利益を被る。児童教育では保護者の過度な批判に現場の教職員が晒され、対応を余儀なくされている。その結果、よく行われる修正が「〇〇しないこと」となる。「争わない、批判しない、強要しない」しなければ、事は起きない。これの度が過ぎれば「学校にいかない、授業を受けない」全て許容することとなる。この「〇〇しない」方式の継続結果が今の風潮である。

この風潮をコロナ禍が後押しする


もちろん「〇〇しない」ということへの批判もある。しかしながら、コロナ禍の恐ろしいところは、「子供の健全な育成のために必要である」という大義名分をも上回る世論を味方につけられることである。学校行事、課外活動、地域参加など全てが「しなくても」今は許容される。恐らく過度な学校への批判も減っているのではないだろうか。その代わり、「学校に行かない、授業を受けない」ことをも正当化されていると聞く。児童教育の現場は既に学校ではなくなっているといっても過言ではない。

親の役割について


この現状を考えると、児童教育の現場、基本単位はそれぞれの家庭になってきたといっても良い。そんなこと昔からだという批判もあるだろうが、家庭の役割が以前にも増していることには疑いがない。阪神淡路大震災のときに高校生だった僕は半年くらい通常授業がなかったように記憶している。水汲みなどの最低限の手伝いをしたあとは当時の僕はずっとファミコンをやっていた。いざ、学校が再開して周りをみるとその間にきちんと勉強していた人との元々あった差は格段に大きくなっていた。この僕の高校時代の半年の空白が今の子供たちは数年となってしまっているのである。ましてや、家庭の規模が昔より小さくなっており、他の人との接触も避けられている今日において、親が子供に与える影響は昔のそれとは比べものにならない。すでにこの数年で子供達の間に取り返しのつかない差が生まれているのではないかと懸念している。しかも、それはこれからも続き、広がっていく。

まとめ


学校が良くない、コロナ禍が良くない(もちろんコロナは良くはないが)という単純な話ではない。子供を取り巻く環境、社会情勢が大きく変わり、親の役割を見直さないとより一層の格差が生み出される、既に生まれているという危機感を共有したいという話である。

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