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とにかく英語

 以前から気にしていたことが、子供が小学校に入り身近な問題となってきた。実際のところ、僕はこの問題に対して、できるだけ距離をとっていた。ずっと考えてきた問題ではあるが、明確に僕の考えを述べられるほど十分に吟味できていないからである。しかし、少なくとも家族には自分の方向性を提示すべきカウントダウンは始まっている。この文章を機に、ある程度まとめてみようかと思う。それは、ほとんどの親が必死になっている、そして必死になるべき「とにかく英語」についてである。
 
 前提として、僕は英語が得意ではない。そういうと、僕から英語の話を聞いたことがある方には申し訳ないが、ただ「大学入試」で英語が得意であっただけである。その延長で、ある分野については日本語と同じように英語を読めるし、準備すれば発表もできる。ある程度の質疑応答もできる。ただし、新聞などは読めないし、映画を字幕なしで見ることなんて全くできない。外国の小学生とまともに話すこともできないだろう。要するにずっと批判されている日本の英語教育失敗例の分かりやすいパターンである。これでは現代社会で英語が得意とはいえない。

 まず批判されている日本の英語教育について考える。僕の記憶では、小学校では国語が最重視されていた。それが中学校に入ると英語が急に出て来て算数から数学と名前が変わった科目との2大巨塔となる。高校では、国語は文系科目となり下がり、一部の最優秀理系生徒だけが関心をもっていたように思う。反して、英語はすべての生徒が無視できない存在となっていた。大学に入ってからは国語の授業なんて記憶にない。英語はあったと思う。このように中学から大学まで英語が重視されているにも関わらず、「話せない」。批判されている日本の英語教育とは要約するとこのような内容であろう。その反省で、小学校に英語教育が前倒しされた。外国人教師も増えた。幼児教育教材も英語モノがでてきた。「話せる」英語教育が始まったのだ。

 ここで一つ問題を提起する。幸運にも「話せる英語」を身につけたとして、何を「話す」のか?外国人教師は、"Do not be shy." とよくいう。それだけ日本人はshyに映るのだろう。その反動だろうか、英会話のテキストをみると、" I wish I were a bird! " などと大きく話す練習が推奨されている。子供ならまだしも、大人が真面目に訓練する内容では到底ない。そんな会話をしても外国人は誰も相手にしないだろうし、それなら話さない方がマシである。要するにほとんどの人の場合、外国人に英語で聞かせるほどの「話す内容」を持っていない。

 「何も難しい話をしなくていいじゃない。外国の友達と普段の意思疎通が楽しくできればいいんだから。」という批判が聞こえてくる。ここに大きな誤解がある。難しい内容を英語で伝えることは当然難しく、普段の楽しい意思疎通は「話せる英語」を身につければできる、という誤解である。僕たちは「話せる日本語」を身につけているが、日本語でも楽しく意思疎通ができないことが多々あることを知っている。個々の背景に基づいた意思が往々にして、それに反して伝わってしまうからである。外国人と話して楽しい、と思うのはほとんどの場合、内容が楽しいのではない。外国人と英語で話している自分の姿が楽しいのである。その証拠に、その話の内容を日本語にして、近所の人と話してみると少しも楽しくないことが分かる。

 さらにいえば、「簡単な日常会話」ほど英語は難しい。単語レベルでは、きゅうり、なすび、さば、豚バラを英語ですぐにいえる人の方がきっと少ない。ましてや、共有している背景を元にした面白い日常の話など英語で分かるはずがない。大阪で人気芸人が東京に行くと人気がでなかったり、外国のジョークが僕たちにとって全く面白くない理由と同じである。前述の、字幕なしの映画を理解するというのは、とりあえずの目標とされることが多いが、実は一番難しいだろうと僕は思っている。

 「話せない英語教育」を批判する前に、僕なりにこの誤解を要約すると、言語というのは道具であって、手に入れれば「話せる」、あるいは、話すべき内容はたくさんあるのに、日本語ならいくらでも話せるのに、その道具がないために話せない、ということになる。スポーツでも音楽でもスターが英語のインタビューにスマートに答えるシーンをよく見かける。なんて英語が上手なんだろうと思うが、よくよく考えるとほとんどの場合、想定された同じことを何度も聞かれており、何度も同じように答えているに過ぎない。そして、多くの人に関心がある、話すべき内容に溢れているのである。決して、言語という道具ありきではない。もし、突然「お好み焼きってどうやって作るのですか?」などと想定外の質問をしたら、そのスターはたちまち英語で答えられなくなるだろう。逆に、「日本語でいいので増税の影響について(あるいは、インターネットの有用性について)5分で話してください」といわれたら、ほとんどの人は困ってしまうだろう。「道具がないから話せない、あったら話せる」というのは正しくないことが分かる。

 その上で、「話せない英語教育」について批判する。中高大と教育要綱に法って英語を正しく学ぶと、ほとんどの場合、「単語を知っていれば読める、分かるかは内容次第。正しく書けるが、自然ではない。話せない、聞き取れない」となる。内容の理解は教養、ないしは専門分野となるから各自でやってください、話す、聞き取るは海外でトレーニングをしてください、それで完璧です、となる。確かに完璧であるが、それが実現できるのはごく一部のエリートのみで、ほとんどの人は習得できない。「話せない英語教育」で最も批判すべきなのは、これだけ英語を重視する反面、ほとんどの人にとって実際は実現不可能なシステムになっているということである。そして、実現不可能となった人たちを「英語ができない人」としてきた事実である。その認識なく、言語を道具としてのみ捉えて「話せる英語教育」を展開するには無理がある。
 
 では、どのようにして英語を子供に提示するか?まずは「読む」で良い。世の中の情報は、特にインターネット上では、ほとんどが英語でかかれている。プログラミングだって基本は英語である。特に今の時代、「読む」ことは重要である。そして、前述のように身近なものの単語の方が却って知らないことが多いので、できるだけ身の回りのものの英単語を覚える。あとは、空港、買い物、ホテル、会議、ボランティアなどの状況でよく使われるフレーズを「必要に応じて」覚える、練習する。何も英語で会議をする予定のない人が特定の会議の状況を想定して訓練する必要はない。ましてや英語の歌を聴いて踊ったり、ゲームをする必要など全くない。特に斬新さはないが、必要十分ではないかと考えている。そして、最も大切なことは、子供に習慣付けるためには自らが習慣としなくてはならない、ということである。

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