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ドライブマイカー 女のいない男たち


強さも弱さも真実で何も矛盾しない


日本映画初のアカデミー賞を受賞できるのか否か、世界の評価が気になるところです。
まわりのクチコミにのせられてようやっと重い腰が上がったので鑑賞。
3時間に及び映画館という箱の中でドライブさせられるとかいうので、正直精神がエンストしないか心配でした。。。


昨今は何か起きそうで起きないダラダラ映画がさとり世代の若者に刺さるらしいので同じ類と思っていたが不思議と退屈はせず、何も考えずにダラダラ観ることもできるし解釈しようと思えばどこまでも深く掘り下げることもでき、そこは観客に委ねられている。観た客の数だけミーニングがあり、多様性を許容する。内容をしっかり紐解いていきたいなら戯曲「ワーニャ伯父さん」の内容も頭に入れておく必要がある。シークエンスが過分なので3時間という長さになってしまうのは必然。これは脚本が凝り過ぎている怪作と呼べる。


村上春樹、学生のとき大好きだった。文章の言いまわしが長くてくどくて、それに輪をかけた比喩表現の多さ。繊細な文学だが好き嫌いはハッキリわかれるかも。ノルウェイの森、父から頂いたものと空港で買ったものと保存用で3セットも持ってた…。映像化にはプロデューサーをはじめ脚本家、監督、役者の手腕が絶対不可欠で、一歩間違えると途端に貧弱な雰囲気映画になってしまうのです。


簡単にあらすじをまとめると、
妻の不倫を見た夫が傷口に蓋をし咎めることもせず、夫婦関係は表面上何も変わることなく、互いの心の内を知らぬまま妻は死んでしまう。愛車の運転を任せている無愛想なドライバーや間男と対話するうちに自分の気持ちに気付いてはじめて前進できるようになる。

これがストーリーを構成する骨だとすると肉付きが半端じゃなくて、登場人物が戯曲を演じている時のメタファーとかいちいち考察すると日が暮れてしまう。現実と劇中劇でリンクする場面、ビミョーーーに役回りが入れ替わっていることにも注目すべきなのだが、戯曲内の相関図とストーリー運びが複雑すぎて常人には理解しきれない。脚本がとにかく恐ろしい。


・主人公の潔癖さ、マザコン性

=女性に運転は任せたくない、煙草は車内で吸わない、というのは単に車を愛しているからこそと思うが。主人公は何に対してもどうも潔癖らしく、女性に対しても貞淑さをもとめる人物に見えた。妻が「前世は高貴なヤツメウナギだった。」と語るとき、確かヤツメウナギは男性器に似た見た目をしているのに捕食するさまが女性器に見えなくもない、という変ないきものだったなーと思い出した。高貴な、というのは夫婦の間に子どもがいた頃の自分で、子どもを喪失した現在の自分には夫だけでは満たすことのできない快楽の欲求がある。そういうことを言いたいのかもしれない。
「母親のコントロールを感じる部屋が大嫌い。この部屋は何も変わっていない。」という妻のせりふも、自分はもう子どもを失っており母性は無いのだから夫婦の関係性にも変化をつけたいと訴えていると推察した。「わたしは空き巣の左目を刺して殺した(夫の目を傷つけた=緑内障で一部しか見えなくなるよう、盲目的にさせた)のに世界は何も変わらなかった。監視カメラがつけられ(夫は気になって監視したくて仕方がないはずなのに)、鍵が隠された(心を閉ざした)くらいだった」という表現は、小説ならすぐに理解できるんだけれども映画だとストンと落ちてこないね。

女性の愛情も母性も神格化されがちだけど、単純に男の体をたくさんのみこみたいとか意外とありがちな話だと思う。あんなに子煩悩だったお母さん(お父さん)がまさか……っていうのはどこにでもある話で。人間には整合性の付けられない矛盾が無数にあって当たり前で、理解しようとしたところで意味なんかたいして無いし。原作で「奥さんはそういう人だっただけ」と締め括られるのも好きなポイントです。深く追求して覗き込もうとしてもわからないことはわからないですし、それができたら世の中こんなに困ってるヒト沢山いません。



・間男・高槻こと岡田将生の怪演

凄かったから特筆。おぞけをふるう。久々の岡田将生の台詞長回しでした。
今回この人の演技が話題になっているらしい。確かにすごすぎる。彼が虚構を演じているように感じさせないのは、感情を吐露するときのあの目の色とか息の仕方とか言葉の詰まるタイミングが巧いから。すべてが素晴らしい。岡田将生、商業映画の枠組みではできなかったことを間違いなく完遂した。

どれだけ愛している相手でも心の中をそっくりそのまま覗き込むなんてムリな相談です、しかしそれが自分の心であれば努力することで覗き込むことはできるはずです、僕たちがやらなきゃいけないのは自分の心に折り合いをつけていくことです

わたしはこの長台詞がグッときて、忘れないうちにすぐにメモを取りました。



・正しく傷つくこと

監督が、女性の再生物語と男性の再生物語では描き方が大きく異なる、みたいなことを言っていた。
社会構造的に「圧を跳ね返していく強さ」を持つようになるのが女性で、「がまんが当たり前でセルフケアがおざなりになってしまう」性質を内包するのが男性だから全然ちがうんだと。
僕は正しく傷つくべきだった。
と言って、やっと自分の傷を自覚して癒すことができたという救いの余地を残した終わり方は良かった。

わたしいちいち物事の意味を考えすぎなんだけど、、、考えたことをアウトプットするのはとても苦手です。批評されたり、変に同調されたり、相手に影響を与えたり逆に与えられたりというのがあまり好きではないからです。すらすらと言語化できるようなときは、大抵ウソ。考えないで吐く言葉。
思考は、自分だけの宝物なのです。こうやって自分だけが見れる場所に記事として残しています。
3時間の映画をみて2〜3日考え続けることはさすがに初めてで、映画館に足を運ぶにはじゅうぶんに価値のある映画でした。

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