VRChatで起きていることと、僕の思っていること

はじめに

こんばんは。靄篠です。

先日読んだ記事で、VRChatプレイヤーの生活や状況を秀逸に言語化したものがあり、なるほどね〜確かにね〜と思い、僕も僕に見えているものを書きたくなりました。

ヨドコロちゃん様の「VRChatで一体何が起きているのか」という記事です。まずはこの記事の存在に感謝したいと思います。

このように上手く言語化できるのは、実際に長くVRCで暮らしている人の解像度の高さ故なのかな〜と思います。

「わざわざ現実でやらない」こと

記事の中で僕がすごく良いなぁと思った表現がこちらです。

「わざわざVRChatでやる」のではない。「わざわざ現実でやらない」のである。

引用:ヨドコロちゃん「VRの住人」『VRChatで一体何が起きているのか』

僕もなんだかんだでVRCを始めてから2、3年になります。それでも最初の頃は、「わざわざVRChatでやる」意識のほうが強かったような気がします。HMDを被るのも、結構面倒ですからね。それがいつの間にか、色々なことに慣れてしまいました。特に「人と話す」ことに関していえば、現実で会って話すよりも、VRCで話した方が手っ取り早いなぁと思います。最近ラグも減りましたしね。

ちなみにそれでもなお、僕はお酒を飲むことに関していえば現実の飲み会の方が好きだったり、特別仲良くなった人とは現実で会いたくなったりするタイプの人間だったりします。

いずれにせよ、「わざわざ現実でやらない」選択肢が生まれたことは、僕たちにとっては大変嬉しいことです。それはわざわざ歩かなくても車に乗ればよくなったり、わざわざ会わなくても電話をかければよくなったりしてきたように、人が発明してきた様々な選択肢の一つのように感じます。だから、僕たちがまさに今経験しているVRの技術とその使い方は、ヨドコロちゃん様の記事にある通り、じきに「普通」のことになっていくと思います(どうか、なっていって欲しい)。

そして「普通」になるということは、それが「現実的」になるということです。実際、僕にとってVRCでの生活は今更になって夢の世界とか魔法の世界とか表現するようなものではなく、ただの現実です。人が生きていて、僕が生きているだけのことです。

ここからは、この文章で書きたかった僕の考えを書いていくことにします。僕の考えることに、その一部や、あるいはすべてに、共感してくれたり、それはおかしいよ、と思ったりする方がいると思います。これを読むすべての方へ、あなたの読むことと、あなたの感じることへ、感謝します。ありがとうございます。

"内"と"外"

スマートフォンが流行り出した頃、テレビのニュースではしきりに「歩きスマホ」がどうだとか、依存症がどうだとか叫ばれていたのを僕も覚えています。今でもそこまで変わらない気もしますが。

僕は初めてのスマートフォンは両親に買って貰ったのですが、それが嬉しかった反面、親がすごく警戒していたのも感じていました。盛んに危険性が問われていたので、親の反応としては仕方なかったと思います。人間、知らないものはどうしたって怖いものです。

だからあの頃は、ヨドコロちゃん様の表現を使うならば、ガラケーや据置の電話機を使っていた両親がまだ当時の"内"であって、新たな機器と生活を欲した僕が"外"でした。据え置きの電話しかないときなんて、友達と遊ぶ約束をするときには友達の家に電話をかけて、電話に出たり出なかったり、たまにお父さんが出ちゃったりなんかして、そういうことが普通だったのです。しかし、その必要はなくなりました。そしていつでもスマートフォンを片手に、チャット、通話、写真撮影、ゲーム、動画視聴、音楽鑑賞などの全てを楽しむことができるようになった僕は、両親に対して「どうしてスマートフォンを持たないのだろう?」と感じていました。インターネット上でのコミュニティを手にした僕こそが、"内"にいると信じて疑いませんでした。

今では両親もスマートフォンを持つようになって、まぁ結局たいして使っていないようなのですが、少なくとも僕と両親の関係性において、スマートフォンを巡る内と外の関係は、ほとんどないものとなりました。あえてこの書き方をするのは、決して僕の両親が僕たちの"内"に入ってきたとは解釈していないからです。

しかし、いつの間にか、スマートフォンを今でも持たない層のほうが"外"の存在であるかのように扱われる社会になりました。実際、今の僕がスマートフォンを捨ててこれから生きていくことは、もう考えられません。スマートフォンがなければ外で音楽も聴けないし、寝転んだままTwitterもできないし。

しかし、スマートフォンの有る生活しか考えられないような僕だって、じきに"外"になる可能性があります。最近の時代の変化はえげつないほど早い。だからというわけではありませんが、僕たちはちょっと便利になったからって"外"だとかいってこれまでの営みをないがしろにするのは得策ではないような気がします。誰かを置きざりにすることは、自分が置きざりにされる可能性を認めることになります。

僕たちは何かを"外"に変えていくのではなく、"内"を広げていく視点で世界を見ていたほうが、幸せになれると考えています。

"外"のこと、現実とバーチャル

僕はVRChatを始めたことで、より良い世界観を持って日々を生きることができるようになりました。今まで見られなかった風景を楽しみ、空を飛び、好きな容姿を纏い、出会うはずのなかった人と出会うことができるようになりました。

同時に、今まで見てきた世界の良さを知りました。景色の美しさや、手足に感じる感触や、人の表情の移り変わること、空気を通して人の感情が伝わることを、改めて確認することができました。

僕が幸せになったのは、生きる場所を「より優れた」バーチャルに変えたからではなく、今まで生きてきた世界とバーチャルの世界の両方を行き来できるようになり、現実世界が拡張されたからです。バーチャルの世界も僕にとっての「本物」になったから、僕はより豊かになったと思います。

とにかく、多くの人に出会うことができるようになりました。遠方に住む友達が増えました。今までの世界での生き方では絶対に出会えなかったであろう人と友達になり、中にはオフで会って遊べるほどの仲良しもできました。

そして「現実」と「バーチャル」という言葉の使い分けは意味をなさなくなりました。「リア友」という言葉がうまく使えなくなりました。すべてが僕にとっての現実であり、「バーチャル」は「実質上の」という意味合いを、確かに達成してくれました。

だから僕には、VRCのプレイヤーでない誰かに対し、"外"という表現を用いることが上手くできません。リアルで出会った友達もバーチャルで出会った友達も、紛れもなくすべての人が僕の世界の"内"に存在しているからです。僕は世界を変えたのではなく、広げただけです。

僕たちが得たのは、現実とバーチャルを用いた生き方の「選択肢」です。それによって人の生き方がより自由になり、幸せな人が増えることを、僕たちの新しい時代にするべきです。「VR元年」というよく聞くあのワードを、「バーチャルが現実にとってかわった日」にしてはいけないのです。

今までの世界で幸せに生きてきた人の幸せを守りながら、今までの世界で幸せになれなかった人が幸せになれればいいのです。あえていうならば、この世界から"外"を無くすことのできるかもしれない可能性としてVRを表現したいというのが、僕の希望です。この世界に生まれたどんな性質の人でも幸せになれる道があるよう選択肢を増やしておくことに、生きているうちに少しでも貢献出来たらいいなあなどと密かに思っています。

「バーチャルで生きる」という「選択肢」を守るために大切なことのひとつは、紛れもなく「リアルで生きる」という「選択肢」を守ることです。「リアルで生きざるを得なかった」ことで苦しんできた人と同じ苦しみを、「バーチャルで生きざるを得ない」世界を作って再生産することは望んでいません。

技術や文化の"内"と"外"、生きる時代の"内"と"外"。それらがあることが良いとか悪いとか、どっちが良いとか悪いとかでなく、すべての存在が人の幸せのために機能すればいいなあと思います。

「わざわざ」の価値、「わくわく」

僕たちはバーチャルという「選択肢」を得たことで、「わざわざ」現実で時間をかけて移動したり、暑い中待ち合わせたりしなくてよくなりました。でもきっと、僕はたまに暑い中友達を待つことを、わざわざやると思います。「わざわざ」紙の本を積まなくても、一枚のタブレットに数多の本を格納できるようになりました。でも僕はこれからも、わざわざ分厚い本を買ってみたりすると思います。あるいは、わざわざバーチャル空間で再現された「紙媒体の本」をめくって読むことをすると思います。

これを書きながら僕の感じているわくわくが、これを読むあなたに伝わりますか。僕は「わざわざ」現実で紙媒体の本を買ったり、あるいは「わざわざ」電子書籍を買ったり、そしてあろうことか「わざわざ」バーチャルで再現された紙の本を読んだり(笑)できるのです。こんなに楽しいことがありますか?

すべてが現実になった今、僕にとってはすべてが最適解であり、すべてが「わざわざ」足りえるのです。わざわざ出かけなくたってHMDを被れば友達とお酒が飲めるし、わざわざHMDを被ってまで友達と一緒に夜の街を歩くイベントをスキップしなくても、一緒にバーに行って友達とお酒が飲めるのです。相談したいという友達が居れば、直接会ったっていいし、バーチャルで会ったっていいのです。僕たちはより多くの選択肢で友達と関わり、愛することができるようになりました。

僕はこういう書き方で、バーチャルを解釈し、書きたいと思っています。そのほうがわくわくするし、僕が幸せだからです。

最終的にたどり着く場所は、ヨドコロちゃん様と意外と変わらなかったりします。

ただ色んな事がものすごく便利になって、その代わり少しの不便もあるというだけ。そうして起きる様々な人生もイベントも、結局は「幸せに暮らしましたとさ」の一文に集約されていく。

引用:ヨドコロちゃん「VRの住人」『VRChatで一体何が起きているのか』

だから、それぞれがそれぞれの幸せにたどり着くことができれば、それでいいと思います。正しいとか間違いとか、本当はどこにもないのです。色々な人がいて、それぞれの幸せの形があって、ただ、それだけです。

エンドコンテンツ

最後になりますが、VRChatはおそらくこれ単体で「エンドコンテンツ」と呼べる存在にはなってくれないだろうな、と思っています。

僕たちがスマートフォンに入り浸っている間にいつの間にか世の中の小学生は想像もつかないような機器を両親にねだるようになるような気がします。そして僕たちはそんな子供たちを見て、恐怖し、警戒します(笑)

VR機器も、僕たちが今体験しているようなものからもっともっと進歩して、僕たちが生きている内に僕らの理解なんてどんどん古くなって、"外"だなんて言われちゃったりする日がいつか来ます。

VRChatとか、全然序の口だったじゃん(笑)みたいな日が、どうせいつか来るのです。むしろ、そうであって欲しいと思います。本当にすべての人が、幸せになれるように。

いつか時代遅れになるかもしれない僕たちも、時代に食らいついていくかもしれない僕たちも、幸せになれる世界に変わっていけばいいなあと思います。僕はVRが好きなので、VRがそれを実現する技術として僕たちの世界に残ってくれれば、嬉しいなあと思います。

元も子もない書き方をすれば、僕たちの余命はずっとエンドコンテンツです。多分それを意識し始めたときからずっと、僕が死ぬまでが僕のゲームです。VRでさえ、ひとつの可能性でしかないと思います。しかしそれはVRの価値を否定することにはなりません。そんな可能性の世界を、これからもみんなで楽しんで居られたらいいなあと思います。

おわりに

僕なりの解釈で、僕の思うVRCの姿を書きました。

僕の書いたことについて、共感してくれる人もいれば、反感を持つ人もいると思います。これが僕に見えている世界で、あなたの生きている世界には、こういう考えで生きている人間がいるらしいです。ただそれだけのことです。

それぞれがそれぞれの幸せへ、誰も置いていくことなく進めたらいいなあと思います。

これを読んでくれたこと、何かを感じてくれたことに、感謝します。

2021.06.30 靄篠




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